只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

昨日は朝から鹿児島に出張でした

2016-05-11 10:36:37 | 日記
錦江湾に浮かぶ雨の桜島も
ほとんど見えませんでしたね。




私(思考)は、いつも『思い通りにならない…』と悩むのですね。
それはいつも『思い通りにしたい』があるからです。

しかし『思い通りにしたい』が無ければ『思い通りにならない』も
ありません。
ですからその思考が無ければ“成るように成る”のですね。

『思い通りにならない…』当たり前なんですね。
思いは幻想で“何も無い!”のです。

“何も無い”ものは “何も無い”のです。(笑)
ここを理解すればすべては解決です。

『思い通りにならない…』とは「何かが在る!」と、
考えているからどうにもならないのですね。
これは幻想である私(思考)が、さも存在あるが如くにしているから
非常にややこしいのです。(笑)

このブログの私(思考)が言ってることに
「騙されてはならないぞ」と、ささやく頭の声が
聞こえるから尚いっそうややこしいのです。(笑)

とにかく“実践”ですね。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・知性や理念を先に立てて物事に向かっている者は、
単調な物事ほど続けにくいのです。…前回まで

   『理屈が出てきて効率や比較をし批判をするからです。
  これが自我であり煩悩の根源です。これを陶冶するのが坐禅の主旨です。
   否、即今底そのものは初めからそのような不純物などはないので、
      その事を実地に体得し明らかにすることです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「思考・自我」は理屈が出てきて効率や比較をし批判をするのです。

それを自分と錯覚し一体となるから苦悩に陥っていくのですね。
「思考・自我」は幻想で実体が無いのにも、
かかわらず自分としているから問題となるのです。

では、逆に問題の無い“真の自分”は一体・・?と
考えるからわからないのです。
ですから、思ったり考えたりするのを完全に諦めたとき現れるのです。
 
『それじゃ、わからないじゃないか』と言われるとおり
わからないのです。
言葉でわかるものではなく、その人が言葉一切無く“感じるもの”です。

それには言葉の無い弛まぬ“実践”が
感じるもの”を体得します。