只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

今日も休日です、楽しんでください

2016-05-04 08:08:58 | 日記
今回もアジサイの若葉です。
今年も挿し木して山にたくさん植えたいです。




今回もカレンダーの「暮らしの標語」です。
『愛してもその悪を知り…憎みてもその善を知るべし』

これは物事には逆があるということですね。
『愛』の逆は「憎」です。
「悪」の逆は『善』です。
人間社会では『愛すること』ばかりはできないのです。
また『善いこと』ばかりはできないのです。

なぜできないのか?
それは、人間社会には私(思考、自我)があるからですね。
他人も私(思考)も自己中心だからです。

私(思考)を守る自己中心は「悪」を
怖いから排除したがるのです。
ですから『善』を求めたがるのです。

同じく私(思考)が不安だから安心を求めたがるのです。
でも事実には不安も安心も無いのです。

もしあったら安心という塊物を見せてくださいね。
不安という塊物を見せてください。

幻想は“無い空なるもの”を「塊物が在る」として
しっかり握り締め離さないのです。

これを放して開放するのが“実践”です。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・死ぬのが恐いのはどうしてか?…前回まで

  『何も無いのら、その様なことさえも無いのが道理ではないのか? 
   何も無い心が、何故苦しみ、何故諸々の悪を為すのか?
    ここが問題なのである。一口で言えば、実体が何も無いのに、
  自分の思いを抱え込むほどに、次の一瞬に又想像を増幅して強烈に顔を出す。
      この繰り返しが苦しみを深くしていくのだ
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
真実は“今この瞬間、無思考”です。

つまり“只であり、今であり、永遠”で、
思いは無いということです。
ですから苦しむ、悪をする、喜ぶのは幻想ということです。

私(思考)は夢みたいなことを幻想としているのですね。
もちろんそれも夢想です。
夢想や幻想が悪いということではありません。

幻想は頭の中で「思い考える」というものが
あるということです。
必要なことを「思い考える」ことは大事ですが、

まったく必要ないことがむやみやたらに、
自然に、どこともなく出てきて、
見たものに取り付き聞いたものに取り付き、
そこからなかなか離れないということです。

これで頭の中が苦悩等になっていくのです。
ですから『どこともなく出てくる前』に
意識を置く、それが“実践”です。