只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

シソの大葉です

2016-05-09 09:06:34 | 日記
待ち遠しい大葉が食べごろになりましたので
早速ギョウザに巻いて戴きました。笑
今年は種がかなり飛散しましたので
シーズン中、かなりの量を戴けるのではないかと思っています。♪



今回は「見たものにすぐ取り付く癖」です。
これはご承知のとおり「認識して思考する癖」ですね。

例えば「庭鶏の糞」ですが『それは臭い!』です。(笑)
触りたくもないですね。(笑)

しかし野菜作りには鶏糞少量ですが、
肥料と混ぜて使用すると立派な野菜が収穫できます。

「つけた梅干」ですが見ただけで唾を飲み込むぐらい
酸っぱさになります。でもこれは記憶ですね。

「記憶」で喋って、見たものに“今この瞬間”身体が
反応しているのです。

この『メカニズム』は目にも止まらぬスピードですから、
見極めるには“実践”なくしてはできません。

さて、目に入ったものを頭脳に繋がない“実践”が
進んできますと目にも止まらぬスピードが
“スローモーション”で観えてきます。

例えば先ほどの「庭鶏の糞」を見て
「庭鶏の糞」で終わり、後を振り返るということはありません。
つまり頭脳に繋がないということです。

「つけた梅干」を見て「つけた梅干」で終わり、
後を振り返るということはありません。思考に繋がないということです。

頭脳に繋がりませんから「庭鶏の糞」や「つけた梅干」も
身体に影響はまったくありません。

ですから「憎しみ」「苦しみ」「願望」等も“ひとつ”になり
心身に影響はまったくありません。

今この瞬間、無思考”ということですね。
それは弛まぬ“実践”で明らかになってきます。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・知性や理念を先に立てて物事に向かっている者は、
単調な物事ほど続けにくいのです。…前回まで

    『理屈が出てきて効率や比較をし批判をするからです。
      これが自我であり煩悩の根源です。
   これを陶冶するのが坐禅の主旨です。否、即今底そのものは
     初めからそのような不純物などはないので、
      その事を実地に体得し明らかにすることです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
意味付けや屁理屈をするのが私(思考)です。
つまり自己中心ということですね。

別にそれが悪いということでもありませんが、
ゆくゆくは問題化するということですね。
そして始末に終えなくなり困惑する状態に陥ります。

今、今、今には何も無いのですから
そこに入れば「自己中心」が無くなるのですね。
ですから私(思考)を、落とすとこまで落とすことが肝心になります。

何も考えず“只、実践”のみ!です。