只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

10年前にチェンソーで作ったふくろうです

2016-05-02 09:18:25 | 日記
玄関口で朝送りだす、帰ってきたら
迎える縁起のいいフクロウです。これは幻想ですね。笑



すべての人は『意味』無く人生を過ごしています。
そう言うと必ず私(思考)は反論しますね。(笑)

反論というか「我見」を言います。
「我見」は、私(思考)が自分勝手に
創作したものですから「幻想」と言う事になります。

ですから当然、実体などありません。
これをまったく疑いも無く事実としているから
「苦悩」に入っていくのです。

『子供が泣いている』
即、どうしたんだろう?となります。
わからないのに「あれやこれや」と心を使う癖、
「思考する癖」が心配や不安に繋がるのです。

事実は『子供が泣いている』ただ、それだけのことです。
『今、泣いたカラスが今、笑った』と
今、今、今と縁は流れているのですね。

非常事態の場合はそんな事は言ってられませんが、
それは何年に1回程度のことです。
その時は非常事態に応じて
心身が動くので私(思考)はありません。

この世という大自然は“縁と無常”です。
どこにも私(思考)というものはありません。
「意味も理屈」も無いのに、
それを付けるから私(思考)が生まれるのです。

事実には意味や理屈も、言葉も、概念もありません。
ですから本来には何もありません。
すべての人は『意味や理屈』無く
只、縁と無常で人生を過ごしているのですね。

それは“実践”で明らかになります。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・何も思う余地のない真実の坐禅、
坐禅ばかりの坐禅でなければなりまん。…前回まで

    『本来心は実体も塊もないと言われている。
      心とすべき者など何も無いと言われている。
       だとしたら明らかに苦しみ、
      時には死ぬほど辛い思いをするのはどうしてか
?』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
さて『心』はどこにあるのでしょうか?

優しい心、温かい心、醜い心、
裏切りの心等の『心』は限無くあると言われています。
でも“無い”とも言われています。

在るから、苦しみ死ぬほど辛い思いをするのですね。
また嬉しい事、楽しい事も在るのです。

しかし事実には“それがそれ、これがこれ”しかありません。
“りんごはりんご、みかんはみかん”で
言葉を取れば何もありません。

“無いものを在るとすると苦悩になる、
無いものは無いのです“

これが“事実”ですね。