只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

晴々とした爽やかな朝です

2016-05-30 07:26:11 | 日記
昨日は小雨の中、安納芋の苗を少し植えました。
これからかなりの苗が出来ますので、山畑作りも大忙しです。笑




『明日』があるような気がしますが
『昨日』と同じく、やはり“無い”のですね。

前回に引き続いて宮崎老師様のお言葉をご紹介いたします。
全てがみな坐禅だ、
そのものと一つになっていく事が禅だから、
歩いたら歩いたで、しゃべったらしゃべったで。
スリッパを脱ぐのも坐禅の姿や、
スリッパを揃えるのが当たり前のこっちゃ
放っておけないんだ、
スリッパがいがんでおるということは
自分がいがんどるんだ
自分がいがんでおるから、
いがんだやつがなおせないんだよ
だから物を置いてもちぐはぐに置くのと
まっすぐに置くのと、すべて心があらわれて
おるんだから、心がまっすぐであったら
全てのものをまっすぐにする必要がある
修行をしておるんではなくて、
当たり前のことをやっておるんや、
それよりやることはないんだ
…次回に続く

“そのものと一つになっていく事が禅だから”と
仰っています。

例えば子供と遊ぶなら
その『子供に成りきって遊ぶこと』です。
ですから“子供も自分”です。

そして、そこには子供も自分もいないので
ただ在るのは“遊んでいるともわからない遊びだけ”です。
例えという頭脳はここが限界です。(笑)

後は“実践”で感じ取って下さい。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・どうしても癖として出てくるので同じ繰り返しが続かないのです。
それを続けるのが修行です。…前回まで

    『それをしなければ癖は陶冶出来ません。
     そこで継続を促したりやる気を増幅したりするためには
      どうしても菩提心がなければ駄目なのです。
    ですから菩提心を軽く見る人は軽い法しか得られないのです。
   本当に純粋になれないからです。何としても理屈抜きで行ずることです。
     この心得なくしては本当の参禅弁道ではないのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
菩提心は“真実を求める心”でもあります。
“真の自分”を見極める“只の道”でもあります。

純粋意識は空であり、無であり、宇宙であり
“真の自分”と言っても過言ではありません。

ぜひとも“真実を求める心”を持ち
弛まぬ“実践”で明かにしてください。

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