只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山の畑に行く道作りです

2015-11-05 08:53:12 | 日記
ここで私(思考)と言うことは、
自分ではない自我のことです。
すべての人は、自分ではない「思考」で生きているのです。

つまり仮の自分としてこの世を体験しているのです。
それはそれでいいのですが、
「人生は苦なり」と言われている通り、
楽なときがほんのわずかです。

なぜ『楽なとき』がわずかと言うと、思考しているときがほとんどなのです。
それも思考していると気付いていないほうも、
ほとんどだからです。

繰り返し言いますが、
この思考は完璧な問題製造機なのです。(笑)
それも解決出来ないようにする問題製造機なのです。(笑)

私(思考)ごとで申し訳ありませんが、
寝ているとき夢を観るときがあります。
その夢が商売のことで、お客さんが
「この商品とあの商品を買うからいくらにするか」ということです。

何回も言われるけど単純計算が出来ないのです。(笑)
計算機を弾いているけど、サービスしますとばかり言って金額が出ないのです。
夢のなかで夢を観ているのですから
思考という道具を出すこと自体が無理ですね。

このように、この思考世界は問題を創って解決できないようになっています。
そして次第に「苦」になっていくようになっています。
ですから私(思考)は「楽」を求めるのですね。
しかし「楽」にはならない…(笑)

宇宙法則で「楽」にはならないようになっているからです。
一時の安心はあるけれど、やはり次第に「苦」になっていくのです。
「冗談はやめてくれ!」と言われますが、
皆さんが体験していることでから冗談ではないのですね。

「なぜ冗談ではないか」が、わかるかと言うと
皆さんと私(思考)は根源がひとつだからです。
以前に言いました通り、「苦」があるから「楽」があるのですね。
「楽」もあるから「苦」もあるのです。

その逆の事実の世界は「楽」も無ければ「苦」もありません。
それがそれです、これがこれですね。
これは楽チンです、お気楽ですよ。

これを得るため坐禅等される方がいらっしゃいます。
ぜひとも、それぞれの方法で歩いて行かれ
極められることを願っています。


只の道…淡々と歩く

お釈迦様の教えである『般若心経』の一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、実践で明らかにしていってくださいね。

    『無苦集滅道 無智亦無得
  『苦・集・滅・道』の「四諦」も「無」であります。
  そして、智慧も「無」であるならば、
  「悟りを得る」ということも
  また「無」であるのです。  (HP参照です)

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
ここでは、すべて「無し」ということです。

思考が無かったら判断するものはありません。
生きていることもわかりません。
そこは真実の世界です。
大安楽の無思考の世界です。
心の動かない涅槃寂静の世界です。
空であり無である大自然、宇宙です。

これらの、例えの言葉を信じず
この境地を体得してくださいね