只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

今、雨が降っています

2015-11-17 10:34:43 | 日記
善悪の観念があると悩みや苦しみが出てきますね。

悩みや苦しみは本来“無い”のですが
「在る」としっかり握り締めていますから
どうしようもありませんね。(笑)

これは良いことだ、あれは悪いことだと思い込みがあれば、
善い悪いに分別されます。
本来は良いことも無ければ、悪いことも無いのです。
事実それがそれなのです。

空から浮かんだ念に取り付くから、良い悪いになり終いには苦悩になるのです。
たったこれだけのことです。
本来は空から浮かんだ念に取り付かない、
たったこれだけのことです。

しかし、「思考」が必ず空から浮かんだ念を
開き見たがるのです。(笑)
念は今の心ですから何も実体はありませんね。
1万回、空から浮かんだ念でも何ひとつ実体はありません。
実体は無く幻想ですからまったく
相手にする必要はありません。

逆に、相手にしたら迷いの中に入っていきます。
何も無いのに『なんだろう? なんだろう?』と
入っていったら益々混迷し苦悩するのは当然ですね。
例えば、儲かるためにはどうすればいいか?と、
深く思考していったら頭の中がいっぱいになります。
それにまだまだ詰め込んだら頭はパンクします。(笑)

ですから、事実には儲かるも儲からないも無いのです。
それらが無かったら夢を観ないで、
淡々と“”やることを“”やるだけですね。


只の道…淡々と歩く

お釈迦様の教えである『般若心経』の一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、実践で明らかにしていってくださいね。

     『故知般若波羅蜜多
     ~ 故(ゆえ)に、
   仏様の智慧を知ることができるでしょう ~
       (HP参照です)

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
実践され体得されたら
無限の智慧を授かると知る
“と、いうことです。

無の境地”です。
これは実践されれば、誰だって得ることができます。
実践がいかに大切であるかということです。

繰り返し言いますが、実践がなければ
絵に書いた餅なのです。
多くの理屈を知っていたとて
頭の中は「理屈のてんこ盛り」で
腐ってしまいます。
腐るものが無い用、頭の中は“空っぽ”にしていきましょう。

無限の智慧はその時その場の事です。
例えば、お釈迦様が他人から唾を吐きかけられた
と、いう話がありましたね。
「唾を吐きかけられた」は、唾を吐きかけられたで
始まって終わりです。

始まって終わりもなく“”で“前後裁断”です。
今この瞬間で無思考です。
ですから“無限の智慧”は“無思考”です。
限の智慧”を体得するため実践ですね。

今日もコツコツと、一歩一歩と、
只の尊い道を歩いていきましょう。