只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

雑木、雑草の整理で畑作りです

2015-11-04 10:08:18 | 日記
私(思考)なりの「あの世」と「この世」について、
『例え』を説明します。

「あの世」と「この世」が別々にあるのではなく、
同時にあるということです。
あるがままの真実の世界は、「あの世」と「この世」は無く
ひとつの世界です。

思考の「あの世」は、亡くなった後に行く極楽世界です。
思考の「この世」は生きている現象界です。

無思考の世界は、「今、只」の現象として見えない
”の世界です。
無思考の世界は「あの世」と「この世」は無く
真実の世界”です。
無思考の真実世界は
あるがまま”の涅槃寂静世界です。

繰り返し言いますが、「苦悩」があるとは
思考の世界に入っているのです。
あるがままの無思考世界には「苦悩」はありません。

ですから思考しているか、
思考していないかだけの違いなのです。
このわずかな違いが、天と地ほどの差があるのです。

一生の内で、ここに目覚めて“お気楽な真心”で
過ごすことが生きる目的です。
わずかな違いに気が付かず、
残念ながら「人生は苦なり」で一生
を終える方がほとんどです。

この世の思考世界と、あるがままの無思考世界を
完全に“自覚”して生きることがお気楽となります。


只の道…淡々と歩く

お釈迦様の教えである『般若心経』の一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、実践で明らかにしていってくださいね。

    『乃至無老死 亦無老死尽
  あるいは、老死という「苦」もありませんし、
  老死が尽きる(老死という「苦」が無くなる)
  ということもまた、ありません。     (HP参照です)

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
前回と同じですね。

老死という「苦」もありませんと言うのは、
思考が無ければ、老死という「苦」が無いということです。
また浮かんだ念に取り付いたら、老死という「苦」が
無くなることはないのです。

よく言われますのは、
「そんなこと言ったって、老いたら死にます」
それがこの世の道理でしょう。

すべてのものもそうですが、身体だけは無くなります。
思考は自分としているものですから、
思ったり考えたりする自我も無くなります。

しかし、“真心”は同じように無くなることはありません。
真心”は言葉に表わすことはできませんが、

『例えば』で表わすと、この現象界にはありません。
つまり生まれてもいないということです。
生まれてもいないのに、大宇宙を動かしています。
真心”は大自然です。
真心”は神仏そのものです。
真心”は永遠の命です。
真心”は真の自分です。

『例えば』で表わすとこのようになりますから、
思考せず、人生を楽しくお過ごしくださいね。