漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

関が原の問鉄砲

2015年05月14日 | 歴史

このあいだ、テレビで「関が原」をやってましてね、
ドラマでなく、歴史ドキュメントとして。

この種の番組には珍しいことに、
NHKでなく、BSではありますが民放が取り上げてました。

その中に、「家康の問鉄砲(といでっぽう)」のことが出て来ましてね。

日本史で一番有名な戦いである、
「天下分け目の関が原」、ですが、

この戦いの帰結を決めたのが、
西軍の武将、「小早川秀秋の裏切り」であることは、良く知られた事実。

豊臣秀吉の正室、
寧々(ねね)の甥である秀秋がなぜ西軍を裏切ったか、

と云うような話はさておき、

このとき、関が原で戦いが起きて、数時間、
西軍やや有利と云う戦況を見て、東軍の総大将・徳川家康がイライラしだした。

実はこの戦いの前、
家康は西軍の秀秋から裏切ると云う内諾を得ていた。

ところが、山上に布陣した秀秋が、
戦い半ばのこの時となっても、一向に動かないので、

イラついた家康が、
「テメェ、約束はどうした、フザケンナよっ!!」とばかりに、

秀秋の陣地へ鉄砲を撃ちかける。

驚いた秀秋が裏切りを決断すると云うこの場面、
司馬遼太郎の「関が原」では次のように描かれています。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~

 火縄をはさみ、
火蓋(ひぶた)をひらき、いっせいに引き金をひかせた。

硝煙があがり、銃声は天へふきあがった。

 「なにごとだ」と、山頂で、秀秋はかん高い声をあげた。

 「指物に覚えがござる。
あれは内府(家康)の鉄砲頭布施源兵衛でござりましょう」と側近の者がいった。

 「なに内府が」

 「督促でござろう」と平岡石見がいった。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


いつまでも動かぬ秀秋にいらだった家康が、
「裏切る気が有るのか!」と、問いかけたから問鉄砲。

これで顔面蒼白になった秀秋が、
松尾山の陣から一気に駆け下りて裏切り決行、

関が原の戦いの帰趨(きすう)が決した、
と云うのですが、

実はこの話は、
関が原から百年ほどもたった書物に出てくるのだそうで、

最近では信憑性が薄いと言われてます。

番組では、
家康の位置から秀秋の陣地まで一キロ以上あること、

この距離、当時の火縄銃では弾が半分も届かないこと、

また、両軍数万の将兵が戦っている最中では、
そうとうな騒音、

だから、家康の親衛隊の発した鉄砲の音程度なら、

秀秋の陣地からでは、
誰の発したものかは、とてもじゃないが、聞き分けられないこと、

などなど、様々に検証していました。

話は変わるのですが、
先日、散歩をしていて自衛隊のグランド横を通ったら、

演習をしていたんです。

と云っても、
差し渡し100メートルほどのグランドですからね、

演習と言っても本格的なものではなく、
運動会規模ですが。

それでも、空砲とは云え、
ホンモノの鉄砲ですからね、一斉射撃だと凄い音がします。

散歩中の私の位置と、
発砲している位置はわずかに三十メートルほど、

「実物はさすがにすごい迫力」と、
耳を押さえながら暫く見ていて、やがて通り過ぎたのですが、

ブラブラと歩くうち、
その発射音が、轟音から、騒音へ、騒音から雑音へと、

つまり、だんだんと気にならなくなった。

その距離、およそ一km余ほどかな、
つまり、松尾山の秀秋の陣地と家康の本陣の距離。

そこまで離れると
耳を澄まさないと分からないほど。

家に帰って我が同居人ドノに聞くと、
「気がつかなかった、聞こえなかった」とのこと。

まぁ、あばら家とは云え、
屋内にいたのでムリもないのかもしれませんが、

新式武器の発射音で、コレですからね、

小早川秀秋は、関が原の大功労者であるにもかかわらず、
このあと、数年を経ずして亡くなり、

「跡継ぎがいない」と云うことで、家は取り潰されています。

関が原で裏切ったと云うことでもあり、
大名家として存続していないことでもあり、

史談を書く側に、

事実以上に、
秀秋をおとしめて書き易い状況であったことは確か。

それらを考えあわせると、

「関が原の問鉄砲」は、
後世につくられた逸話だと思わざるを得ません。

話としてはおもしろいんですがね、「問鉄砲」。










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