新聞に、
「覆面レスラーとして日米で活躍した
『ザ・デストロイヤー』さんが死去。88歳」と出ていた。
辞書で「ヒール」を引くと、
「かかと」と云う意味のほかに、
「プロレスで悪役のこと」、
対義語は「ベビーフェイス」と出てくる。
普通、プロレスの興行は、
試合を盛り上げるため、あらかじめ役柄を決めておき、
悪役のヒールは、
急所蹴りや凶器の使用といった反則はもちろん、
場合によっては、
レフェリーを突き飛ばしたり、場外乱闘など、
様々なテクニックを用い、
試合を盛り上げ、観客の興奮を誘う。
つまり、考えようによっては、
善玉役のベビーフェイスより、重要な役どころとも云える。
終戦間もない時期に大学を卒業した、
リチャード・ベイヤー青年は、
大学時代の部活を活かしたプロレスラーへの道を選ぶ。
しかし、180cmと云う身長は、
レスラーとしては平凡で、前座クラスからなかなか抜け出せない。
そこで妻とも相談し、
選んだのが覆面をかぶったヒールに転じること。
苦労の末、
人気レスラーとなった彼は、
日本の興行元からの誘いに応じ、
日本でもヒールとしてリングを踏むことになる。
そこで対戦したのが、黒タイツ姿の力道山。
当時、アメリカのリングで、
黒タイツ姿は、
元敵国の「ズルくて卑怯なジャップ」レスラーたちの象徴。
つまり、日本人ヒールのユニフォーム。
処が日本に来ると、
その「タイツ姿の力道山」がベビーフェイスで、
白人のデストロイヤーがヒール。
ただし、彼の人気は高まり、
度々日本から呼ばれるようになる。
その彼が信頼したのが、
プロモーターとしての「ジャイアント馬場」。
後に彼は語っている、
「客の入りが悪くてもうからないと、
ギャラを先延ばしにしたり、値切られることはこの世界ではよくあることだけど、
ミスター馬場は決してそんなことなく、
不入りが続いても契約通りの金を払ってくれた」。
その後、
日本でタレントとしても人気を得た彼は、
そのレスラーとしての晩年、
馬場と組んでベビーフェイス側として試合に出ている。
それは、プロ野球界で、
始めは助っ人でしかなかった外人選手たちが、
チームの主力として、
ファンから受け入れられるようになる時期と重なっている。
後に日米の親善に尽くしたとして、
日本から勲章を受けた彼は、語っている。
「僕が高校生のころ、日本は敵国だったが、
やがて日本で仕事をするようになって次第に日本が好きになって行った」。
「覆面レスラーとして日米で活躍した
『ザ・デストロイヤー』さんが死去。88歳」と出ていた。
辞書で「ヒール」を引くと、
「かかと」と云う意味のほかに、
「プロレスで悪役のこと」、
対義語は「ベビーフェイス」と出てくる。
普通、プロレスの興行は、
試合を盛り上げるため、あらかじめ役柄を決めておき、
悪役のヒールは、
急所蹴りや凶器の使用といった反則はもちろん、
場合によっては、
レフェリーを突き飛ばしたり、場外乱闘など、
様々なテクニックを用い、
試合を盛り上げ、観客の興奮を誘う。
つまり、考えようによっては、
善玉役のベビーフェイスより、重要な役どころとも云える。
終戦間もない時期に大学を卒業した、
リチャード・ベイヤー青年は、
大学時代の部活を活かしたプロレスラーへの道を選ぶ。
しかし、180cmと云う身長は、
レスラーとしては平凡で、前座クラスからなかなか抜け出せない。
そこで妻とも相談し、
選んだのが覆面をかぶったヒールに転じること。
苦労の末、
人気レスラーとなった彼は、
日本の興行元からの誘いに応じ、
日本でもヒールとしてリングを踏むことになる。
そこで対戦したのが、黒タイツ姿の力道山。
当時、アメリカのリングで、
黒タイツ姿は、
元敵国の「ズルくて卑怯なジャップ」レスラーたちの象徴。
つまり、日本人ヒールのユニフォーム。
処が日本に来ると、
その「タイツ姿の力道山」がベビーフェイスで、
白人のデストロイヤーがヒール。
ただし、彼の人気は高まり、
度々日本から呼ばれるようになる。
その彼が信頼したのが、
プロモーターとしての「ジャイアント馬場」。
後に彼は語っている、
「客の入りが悪くてもうからないと、
ギャラを先延ばしにしたり、値切られることはこの世界ではよくあることだけど、
ミスター馬場は決してそんなことなく、
不入りが続いても契約通りの金を払ってくれた」。
その後、
日本でタレントとしても人気を得た彼は、
そのレスラーとしての晩年、
馬場と組んでベビーフェイス側として試合に出ている。
それは、プロ野球界で、
始めは助っ人でしかなかった外人選手たちが、
チームの主力として、
ファンから受け入れられるようになる時期と重なっている。
後に日米の親善に尽くしたとして、
日本から勲章を受けた彼は、語っている。
「僕が高校生のころ、日本は敵国だったが、
やがて日本で仕事をするようになって次第に日本が好きになって行った」。