比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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秋の秩父路・・・山の上の上吉田の太田部・・・ムツばあちゃんの花物語・・・

2010-11-24 | 古民家の風景
11月19日秩父の山道を物見遊山。
秩父市吉田の最奥、荒川水系の石間の谷から分水嶺の太田部峠を超えて利根川水系の神流川(かんながわ)の右岸が太田部(おおたぶ)です。

なぜ分水嶺を越えたところが秩父? 神流川流域ですから生活交流は群馬県のほうが便利なはずです。同じように分水嶺を越えた隣の矢納村は1948年埼玉県から群馬県に所属変更しています。なぜ太田部は群馬県に所属変更しなかったのか。住民の秩父に対する深い思いがあったのでしょうか。

太田部の地名由来》①上吉田に大棚部という耕地があります。そこから来た人が住みついた。②万葉歌の詠み人の大伴部小歳に見られるように秩父には奈良時代から大伴部の一族がいてその人たちが住みつき、大伴部が太田部になった。
2説あるということはどちらも裏付けるものがないのでしょう。わたしは②のほうがロマンがあって好きです。大伴さんは大君のお伴をする人という意味ですね。都人です。その一族がどうして秩父に。地方官庁の役人としてか秩父牧の管理か何かで中央から来たのでしょうか。

さて急峻な山の中腹をグルグルと辿って太田部峠を越えて太田部楢尾集落そして旧太田部小学校にやってきました・・・太田部相見集落です。
校庭にヘリ発着用の〇に十の字の印が書かれています。標高450m、下の神流湖が標高300m、傾斜は2/3くらいか。コンクリートのしっかりした建物です。いまは何の利用もしてないようです。小学生は吉田小学校にスクールバスで? いいえ、就学児童はいないのです。


小学校の少し先にある旧新井家の住宅です・・・いまから400年前のむかし、慶長のころから世襲名主を務め、明治に世になっても村長を務めたが、事情あって50年くらい前にこの地を去ったという。地区の公民館として、いまは秩父市管理のコミュニティーセンターとして使われています。
間口10間、奥行き6軒、60坪くらいでしょうか(二階作りですから120坪)。もっとあるかな。切妻平入り。石間の沢戸耕地で見た家屋のように出桁造り。2階のベランダが広く庇が長い。ここも楮の乾燥場、蚕室使用があったのですね。建造年は不明ですが明治か大正の年代ではないかと思います。ガッチリしたごつい建材はどうやって伐りだしどうやって搬入したのでしょうね。誰もいないので中を見ることはできませんでした。




新井家も立派ですが、この村の民家はどこも立派な2階建ての母屋で、土蔵付きが多いようです。

道を引返して、神流湖(かんなこ)のほうに向います。比高150m。かなり下り、太田部橋を渡ると群馬県鬼石町(藤岡市)です。
太田部橋を渡ったところから神流湖を見ました。渇水期でしょうか。ほとんど水がありません。堆砂も進行してるようです。右側の谷を分け入ったところが太田部です。旧太田部小学校は右の真上のほうですが見えません。


過疎、限界集落・・・行政がいいだしたのかマスコミがいいだしたのか知りませんが現実はそうであってもこの言葉は嫌いです。「山の民」というほうがまだ優しいですね。太古のむかしは山幸彦といったのです。
旧小学校の庭で会った秩父大滝村から来たという熟年夫婦、ご主人が秩父の山の民の生活についていろいろ話してくれました。食べるものは麦、蕎麦、稗、粟などの雑穀類、畑は道の周りを見回してもほとんど見ることはできません。傾斜の緩い山の中腹より上、稜線近く、そこに桑や雑穀を植えていたそうです。いまはむかしの桑畑も杉林に代わったといいます。米は買わなければ食べられません。明治以来税金は金納になりました。雑穀の収穫は食べるのに精一杯ですから現金収入が必要、養蚕、生糸、薪炭、楮から紙漉き、蒟蒻、干し柿、林業、出稼ぎなどで稼ぎました。そのどれもがいまは金になりません。
7つの耕地からなる太田部。世帯数、人口を調べましたがネットではわかりませんでした。郵便物は吉田から、医療は鬼石方面だそうです。
日本の森林を育て水源を涵養し国土を守ってきた「山の民」はどこに行くのでしょう。

     秩父路や 天につらなる 蕎麦の花    加藤楸邨

NHK人間ドキュメント「ムツばあちゃんの花物語」で紹介されたムツばあちゃんはこの村のひとでした。
  
太田部楢尾のムツばあちゃん・・・おだやかないい顔していました。日本中の山の中、農村、海辺にムツばあちゃんのような人がいるでしょうね。わたしのおふくろも家内の母もおなじように田舎の片隅で野菜を作ったり花を植えたりして、やがて土に還っていきました。

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