比企の丘

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今日は何の日・・・3月10日1945年・・・東京大空襲・・・警視庁写真班員石川光陽が残した「33枚の写真」

2019-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
1945年3月10日深夜0時07分、325機のアメリカ空軍戦略爆撃機、艦載戦闘機が東京都江東区、墨田区、台東区、中央区を中心に焼夷弾(木造住宅焼き払い用の油脂爆弾)を雨のように降らせ火の海にしました。機銃による民間人、非戦闘員に対する掃射も行われています。
※当時の東京警視庁の調査によれば損害は・・・死者・83793人 負傷者・40918人 被災者・1008005人 家屋・26835棟・・・
※新聞社や民間団体の調査・推定では・・・死者10万人を超すといわれ・・・この数字が定説となっています。
※数字はWikipediaより。

東京大空襲の夜から焦土と化した東京の地上の光景を東京警視庁鑑識課写真班石川武雄(光陽)がカメラに収めた33枚の写真のうちの4枚です。

間違いなく真実です。残酷な写真で直視に耐えられませんが貴重な「歴史の証明」です。

石川光陽(本名武雄1904~1989年)・・・警視庁を定年まで勤めあげた律儀な公務員(巡査部長)です。空襲の写真は警視庁警務部長からの特務命令でした。たった2時間半で10万人の死者を出した世界史史上に類を見ない東京大空襲、死者の折り重なる街を撮り続けます。死者に叱られるような気がして辛かった、「真実を後世に伝えるために」の使命のため、合掌しながら愛機のライカDⅢのシャッターを押し続けた・・・と後年語っていたそうです。炎の中で撮り続けた33枚。米軍(GHQ)に提出を求められ警視庁は石川個人のネガとしました。自宅の庭にネガを埋めて石川はこういったそうです。

ネガは渡せません・・・後世に伝えるべき歴史の証明だからです

石川光陽の「真実を後世に伝える東京大空襲33枚の写真」は東京都慰霊堂(東京都江東区横網町)の講堂に展示されています。
写真・・・真実を写すもの。写心・・・心を写すもの。アーカイブ・・・重要記録を保存、未来に伝達すること。

近代戦争においては・・・戦争を肯定するとか否定するとか、正義とか非正義とか、タカ派とかハト派とか、右翼とか左翼とか、戦闘員とか非戦闘員とか、じゃなくて無差別の大量虐殺で行われます。

※コメント欄オープン。


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4 コメント

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3月10日 (こきおばさん)
2019-03-10 08:36:16
そうでした。今日は3月10日。「東京大空襲の日」でした。
私は当時、日本にいませんでしたから、知りませんでしたが、山梨からも東京方面の空が赤かったのが見えたそうです。
その下で、10万人の人!が無くなった事実は、忘れてはいけないことです。
夫の姉一家は当時両国にいましたが、実家の南アルプス市に疎開していたとか。勿論家は全焼でした。

石川さんの言われた「後世に伝える歴史の証言」をしっかり伝えなくては!!
書いてくださって有難うございました。
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真実を後世に伝える…石川光陽氏 (縄文人)
2019-03-10 13:05:17

 東京都慰霊堂(東京都江東区横網町)に仕事先が近くで、何回となくいきましたが、
講堂に展示してあるとは全く知りませんでした。

東京大空襲の夜から焦土と化して・・・・・、
石川光陽さんの名前があげられる。
氏は、われらの大大先輩、我が務めた時の大事件と言えば、学生運動華やかしころ、、東大安田講堂の攻防戦、赤軍派のあさま山荘事件でした。あさま山荘では2名の殉職者が出ました。


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戦争とは (こきおばさんへ・・・)
2019-03-11 19:37:42
加害と被害が重なり、大量虐殺が行われます。
絶対にくり返してはならないと後世の人に伝えなければ。
3月10日の日・・・政府高官も東京都最高府も何もコメントを出していません。
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石川光陽 (縄文人さんへ・・・)
2019-03-11 19:45:29
松本市で写真館をしていて徴兵で軍役に、除隊して、東京警視庁に勤務、写真の腕で写真班員を務めていたそうです。当時の警務部長、のちの警視総監原兵衛に命じられ空襲写真を。
燃え盛る火の海で命がけだったでしょう。
GHQの要求を毅然として拒否したのは立派です。
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