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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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今日は3月10日「東京大空襲の日」・・・海老名香葉子さんの本「半分のサツマイモ」を読んだ

2022-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
                              、
きょうは何の日・・・いまから77年前の3月10日・・・第二次世界大戦・太平洋戦争・・・「あの戦争」・・・東京が大空襲された日・・・です。
1945年3月10日深夜0時07分、325機のアメリカ空軍戦略爆撃機、艦載戦闘機が東京都江東区、墨田区、台東区、中央区を中心に焼夷爆弾(木造住宅焼き払い用の油脂爆弾)を雨のように降らせ火の海にしました。爆弾・焼夷爆弾381300発(1783㌧)。機銃による民間人、非戦闘員に対する機銃掃射も行われています。

アメリカ軍による世界の戦史上、最大の東京大空襲・・・です。
当時の東京警視庁の調査によれば損害は
  死者・83793人 負傷者・40918人 被災者・1008005人 家屋・26835棟・・・
新聞社や民間団体の調査・推定では
  死者10万人を超すといわれ死者10万人が定説となっています。
当時の東京都在住在日朝鮮人・97632人 うち被災者・41300人(死者は1万人を超すと推定)。 
※数字はWikipediaより。

もう77年・・・4半世紀も前・・・体験した人はわずか・・・いまの人にとって遙かむかしの歴史のこと・・・
ただ日本人にとって屈辱的な歴史の1頁・・・覚えていてほしい。
そしてこんなことがもう二度と無いように、行動していってほしい。そして語り継いでほしい。

旧いブログから東京大空襲に関連ある1篇を再掲載しました。初出は2010年4月、今も毎日閲覧してくださる方がいるブログです。
少し長くなりますが読んでいただけたらと思います。

海老名香葉子さんの本「半分のサツマイモ」を読んだ  2010年4月17日

4月10日、上野の森で海老名香葉子さんたち有志が建てた「時忘れじの塔」を見て来ました。
時忘れじの塔」はさきの大戦の東京大空襲で亡くなったかたの霊を慰めるとともに、平和な時代に時をつなげるために造られたといいます。

この塔を建てるために奔走した海老名香葉子さん・・・どういうかたなのでしょうか。わたしが知ってる香葉子さんは昭和の爆笑王落語家の先代林家三平師匠の奥さん。テレビのワイドショーのコメンテーター、政府諮問機関の教育再生会議委員も務めたことがある・・・ということぐらいしか知りません。

海老名香葉子さんの書かれた本を読んでみました。子供たちが読めるように児童書になっています。

うしろの正面だあれ」(金の星社1985年刊)

1933年東京下町の本所堅川(現墨田区立川)に生まれた香葉子さん。実家は「竿忠」という代々続く竿師・・・手作りの高級和竿を作る職人。曾祖父は1900年のパリ万国博に出品して入賞した名人。作家の長谷川伸、彫刻家の朝倉文夫、落語家の三遊亭金馬もお得意様だったようです。職人兼お店の主人、飛び切り金持ちではなく、たまに近所に気兼ねしながらスキ焼きを食べる程度、ごく普通の生活を営んでいたことが窺えます。優しい家族に囲まれて成長。下町娘ですから、近所の悪ガキと遊んだり、好きでない三味線を習わされたり、楽しかった思い出ばかりです。やがて日本は戦争に突入、1945年3月10日東京大空襲。静岡県の沼津に疎開していた香葉子さんのほかは東京にいた家族は避難した中和小学校で6人が焼死、三兄の喜三郎兄ちゃんだけ奇跡的に生き残ります。疎開していたおばさん夫婦の転勤で沼津から石川県の穴水町へ、おじさんの失業で中野のおばさんの家に、焼け跡からトタン、木材を集め作った三畳ぐらいの部屋、おじさん、おばさんと子ども、それに香葉子さんの4人で暮らします。1945年の暮れ本所堅川の実家の焼け跡に立ち、目をつぶり・・・そっと目をあけます。

坊さん坊さん どこ行くの わたしは田圃に稲刈りに
お前が行くとじゃまになる このかんかん坊主くそ坊主
うしろの正面だあれ


ふり向いてもそこには母の姿も、友だちの姿も見えません。

それからのカヨちゃんです。

半分のサツマイモ」(くもん出版1997年刊)

しばらくは中野のおばさんの家で過しますが、浦和の知合いの夫婦の家に、千葉県の長者町(現いすみ市)の知合いの家に、ふたたび中野坂上の久おばさんの家に、中学校も中途半端で15歳になり両国の材木店で働くようになります。13歳ぐらいのときでしょうか、厚化粧したむかしのお友だちに街の中で出会ってその職業に誘われたり、神田今川橋でテキヤをしている喜三郎兄ちゃんと偶然に会ったり。寂しいとき、心に動揺があるとき本所堅川の実家の廃墟に行きます。そこで復員兵姿のおじさんからサツマイモを半分に割って渡されます。夢中になって食べて気がついたときおじさんの姿はありません。
やがて喜三郎兄ちゃんと暮らすようになりますが兄ちゃんはテキヤで何か危ないこともやってるよう。そんな生活をやってるとダメになると思ったのでしようね。焼け跡に立ててあった「三遊亭金馬来る 連絡乞う」の立て札を思い出します。そのころ東京では焼け跡にこういう立て札を立てて知人の安否を確かめようとしたのでしょうか。長谷川伸、朝倉文夫、土師清二さんの立て札もあったそうです。
意を決して寄席に出演中の金馬師匠(竿師のお父さんと客の関係だけです)を訪ねます。これからが江戸人情落語の世界です。

「竿忠の娘か、生きていたか、よかった、よかった。」
「今日から、うちの子におなり。ねえ、母さん、それがいいね。」

・・・するとおかみさんも、
「よござんすよ。」

この本の話はこれで終わりです。一度お読みになってください。児童書ですから小・中学生に読んでもらいたい。テレビドラマになったりアニメ映画になったりしてるようです。文中に出てくる喜三郎兄ちゃんはそのご金馬師匠の勧めで竿師の道に入り、竿忠五世四代を襲名。荒川区指定無形文化財保持者、東京都名誉都民。
(この話の続きが)・・・最後にお世話になった中野坂上の久伯母さん、満州帰りの母子家庭、「お咲ちゃん」という従兄弟のお姉さんがいましたが引揚げ船の中で日本の陸地が見えるころ亡くなりました。この姉さんがどうして亡くなったかを知るのは46年後、そのことをお咲ちゃん」(徳間書店1997年刊)という本に書いています。次の機会に記します。

ガラスのうさぎ」の高木敏子さんも本所緑町、両国駅のそば、腕利きのガラス工芸職人の娘でした。お二人とも東京大空襲の慰霊塔も祈念塔も公にはないこと(両国横網町の関東大震災慰霊祈念堂と同居)を残念がっています。
平和祈念母子像・時忘れじの塔・・・とあわせて上野の山にはもう一つ海老名香葉子さんが発起人となって建立した「哀しみの東京大空襲慰霊碑」があります。今回は訪ねませんでしたが次の機会に訪ねてみたいと思います。

★「語り継ぐ責任」だけ見たい方は→こちらをクリック


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きょうは何の日・・・3月10日・・・76年前の「あの戦争」・・・東京が大空襲された日

2021-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
きょうは何の日・・・3月10日・・・第二次世界大戦・太平洋戦争・・・「あの戦争」・・・東京が大空襲された日・・・です。
1945年3月10日深夜0時07分、325機のアメリカ空軍戦略爆撃機、艦載戦闘機が東京都江東区、墨田区、台東区、中央区を中心に焼夷爆弾(木造住宅焼き払い用の油脂爆弾)を雨のように降らせ火の海にしました。爆弾・焼夷瀑弾381300発(1783㌧)。機銃による民間人、非戦闘員に対する機銃掃射も行われています。
アメリカ軍による世界の戦史上、最大の東京大空襲・・・です。
当時の東京警視庁の調査によれば損害は
  死者・83793人 負傷者・40918人 被災者・1008005人 家屋・26835棟・・・
新聞社や民間団体の調査・推定では
  死者10万人を超すといわれ死者10万人が定説となっています。
当時の東京都在住在日朝鮮人・97632人 うち被災者・41300人(死者は1万人を超すと推定)。 
※数字はWikipediaより。

もう76年間・・・4半世紀も前・・・体験した人はわずか・・・いまの人にとって遙かむかしの歴史のこと・・・
ただ日本人にとって屈辱的な歴史の1頁・・・覚えていてほしい。
そしてこんなことが二度と無いように、行動していってほしい。そして語り継いでほしい。

毎年3月10日、祈りをこめて東京大空襲のことをブログにしてきました。
旧いブログから東京大空襲に関連ある3篇をリンクしました。1編でも読んでいただければと思います。


クリック3月10日・東京大空襲・・・東京警視庁写真班員石川光陽の遺した「語られなかった33枚の真実」(2008年3月15日のブログ)

クリック8月15日・・・古い日本が亡くなった日・・・「ガラスのうさぎ」の高木敏子さんの「ラストメッセージ」(2009年8月15日のブログ)

クリック海老名香葉子さんの本「半分のサツマイモ」を読んだ(2010年4月17日のブログ)

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今日は何の日・・・3月10日・・・アメリカ軍による史上最大の東京大空襲・・・あれから75年

2020-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲

1945年3月10日深夜0時07分、325機のアメリカ空軍戦略爆撃機、艦載戦闘機が東京都江東区、墨田区、台東区、中央区を中心に焼夷弾(木造住宅焼き払い用の油脂爆弾)を雨のように降らせ火の海にしました。爆弾・焼夷弾381300発(1783㌧)。機銃による民間人、非戦闘員に対する掃射も行われています。

アメリカ軍による世界の戦史上、最大の東京大空襲・・・です。

当時の東京警視庁の調査によれば損害は
  死者・83793人 負傷者・40918人 被災者・1008005人 家屋・26835人棟・・・
新聞社や民間団体の調査・推定では
  死者10万人を超すといわれ死者10万人が定説となっています。
当時の東京都在住在日朝鮮人・97632人 うち被災者・41300人(死者は1万人を超すと推定されている)。 
※数字はWikipediaより。



↑の写真は東京大空襲の夜から焦土と化した東京の地上の光景を東京警視庁鑑識課写真班石川武雄(光陽)がカメラに収めた33枚の写真のうちの4枚です。
間違いなく真実です。残酷な写真で直視に耐えられませんが、石川光陽がGHQの提出命令に背いて命を張って守った貴重なフィルム「歴史の証明」です。

原子爆弾を除けば史上最大のアメリカ軍による大量虐殺です

わたし自身は田舎者で、幼少のころの話ですから、東京大空襲のリアルなことは何一つ知りません。新聞、テレビの特集、早乙女勝元さんの著書などで知ったことを3月10日が来るたびに追悼の祈りをこめてブログに書き起してきました・・・カテゴリー「語り継ぐ責任 東京大空襲」・・・

★今でも毎日のように、古いバックナンバーのブログを閲覧してくださる方がいらっしゃいます。ありがとうございます。

2008年3月15日のブログ→3月10日・東京大空襲・・・東京警視庁写真班員石川光陽の遺した「語られなかった33枚の真実」
2009年8月15日のブログ→8月15日・・・古い日本が亡くなった日・・・「ガラスのうさぎ」の高木敏子さんの「ラストメッセージ」
2010年4月17日のブログ→海老名香葉子さんの本「半分のサツマイモ」を読んだ


いまから75年前の「東京大空襲」・・・
あの戦争を知っている人も・・・あの戦争を知らない人も・・・
せめてこの日だけは・・・死んでいった声なき人のために・・・祈ってほしい・・・

★Blog「もののはじめのiina]」さんからいただいたコメントより。

東京大空襲のことは、浅草で落語家・林家三平の奥さんの海老名香葉子さんの講演ではじめて知りました。
そのときに焼け焦げた跡が、浅草寺境内のイチョウに残っています。
また、その身元不明の遺骨は、東京都慰霊堂に安置されています。
初空爆は、イタリアの伊土戦争で1911年に手榴弾を投下した飛行機がはじめてだそうです。それがいつの間にか、禁じ手の民間人に対して空襲される事態にエスカレートしました。


※コメント欄オープン。

今日は何の日・・・3月10日1945年・・・東京大空襲・・・警視庁写真班員石川光陽が残した「33枚の写真」

2019-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
1945年3月10日深夜0時07分、325機のアメリカ空軍戦略爆撃機、艦載戦闘機が東京都江東区、墨田区、台東区、中央区を中心に焼夷弾(木造住宅焼き払い用の油脂爆弾)を雨のように降らせ火の海にしました。機銃による民間人、非戦闘員に対する掃射も行われています。
※当時の東京警視庁の調査によれば損害は・・・死者・83793人 負傷者・40918人 被災者・1008005人 家屋・26835棟・・・
※新聞社や民間団体の調査・推定では・・・死者10万人を超すといわれ・・・この数字が定説となっています。
※数字はWikipediaより。

東京大空襲の夜から焦土と化した東京の地上の光景を東京警視庁鑑識課写真班石川武雄(光陽)がカメラに収めた33枚の写真のうちの4枚です。

間違いなく真実です。残酷な写真で直視に耐えられませんが貴重な「歴史の証明」です。

石川光陽(本名武雄1904~1989年)・・・警視庁を定年まで勤めあげた律儀な公務員(巡査部長)です。空襲の写真は警視庁警務部長からの特務命令でした。たった2時間半で10万人の死者を出した世界史史上に類を見ない東京大空襲、死者の折り重なる街を撮り続けます。死者に叱られるような気がして辛かった、「真実を後世に伝えるために」の使命のため、合掌しながら愛機のライカDⅢのシャッターを押し続けた・・・と後年語っていたそうです。炎の中で撮り続けた33枚。米軍(GHQ)に提出を求められ警視庁は石川個人のネガとしました。自宅の庭にネガを埋めて石川はこういったそうです。

ネガは渡せません・・・後世に伝えるべき歴史の証明だからです

石川光陽の「真実を後世に伝える東京大空襲33枚の写真」は東京都慰霊堂(東京都江東区横網町)の講堂に展示されています。
写真・・・真実を写すもの。写心・・・心を写すもの。アーカイブ・・・重要記録を保存、未来に伝達すること。

近代戦争においては・・・戦争を肯定するとか否定するとか、正義とか非正義とか、タカ派とかハト派とか、右翼とか左翼とか、戦闘員とか非戦闘員とか、じゃなくて無差別の大量虐殺で行われます。

※コメント欄オープン。

3月10日・・・今日は何の日・・・アメリカ軍による史上最大の東京大空襲・・・あれから73年

2018-03-13 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
1945年3月10日深夜0時07分、325機のアメリカ空軍戦略爆撃機、艦載戦闘機が東京都江東区、墨田区、台東区、中央区を中心に焼夷弾(木造住宅焼き払い用の油脂爆弾)を雨のように降らせ火の海にしました。機銃による民間人、非戦闘員に対する掃射も行われています。
※当時の東京警視庁の調査によれば損害は
  死者・83793人 負傷者・40918人 被災者・1008005人 家屋・26835人棟・・・
※新聞社や民間団体の調査・推定では
  死者10万人を超すといわれ死者10万人が定説となっています。 
                                 ※数字はWikipediaより。

↑の写真は東京大空襲の夜から焦土と化した東京の地上の光景を東京警視庁鑑識課写真班石川武雄(光陽)がカメラに収めた33枚の写真のうちの1枚です。
間違いなく真実です。残酷な写真で直視に耐えられませんが貴重な「歴史の証明」です。

原子爆弾を除けば史上最大のアメリカ軍による大量虐殺です

わたし自身は田舎者で、幼少のころの話ですから、東京大空襲のリアルなことは何一つ知りません。新聞、テレビの特集、早乙女勝元さんの著書などで知ったことを3月10日が来るたびに追悼の祈りをこめてブログに書き起してきました・・・カテゴリー「語り継ぐ責任 東京大空襲」・・・

いまでも毎日のように、古いバックナンバーのブログを閲覧してくださる方がいらっしゃいます。ありがとうございます。

2008年3月15日のブログ→3月10日・東京大空襲・・・東京警視庁写真班員石川光陽の遺した「語られなかった33枚の真実」
2009年8月15日のブログ→8月15日・・・古い日本が亡くなった日・・・「ガラスのうさぎ」の高木敏子さんの「ラストメッセージ」
2010年4月17日のブログ→海老名香葉子さんの本「半分のサツマイモ」を読んだ

いまから73年前の「東京大空襲」、「あの戦争」で亡くなられたかたのご冥福を祈るとともに、「あの戦争」はなんだったのかを考え、ふたたび「あの戦争」をくりかえすことのないようすることを「死んでいったかたがた」に誓いたいと思います。

※コメント欄開いています。

3月10日・・・今日は何の日・・・アメリカ軍による史上最大の東京大空襲・・・あれから72年

2017-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
1945年3月10日深夜0時07分、325機のアメリカ空軍戦略爆撃機、艦載戦闘機が東京都江東区、墨田区、台東区、中央区を中心に焼夷弾(木造住宅焼き払い用の油脂爆弾)を雨のように降らせ火の海にした。機銃による民間人、非戦闘員に対する掃射も行われている。

●当時の東京警視庁の調査によれば損害は
  死者・83793人 負傷者・40918人 被災者・1008005人 家屋・26835人・・・(新聞社や民間団体の調査・推定では死者10万人を超すといわれ死者10万人が定説となっている) 
  当時の東京都在住在日朝鮮人・97632人 うち被災者・41300人(死者は1万人を超すと推定されている)。 
※数字はWikipediaより。

原子爆弾を除けば史上最大のアメリカ軍による大量虐殺です

カテゴリー「語り継ぐ責任 東京大空襲」・・・3月10日が来るたびに東京大空襲のブログを起してきました。わたし自身は田舎者で、幼少のころの話ですから、東京大空襲のリアルなことは何一つ知りません。新聞、テレビの特集、早乙女勝元さんの著書、当時の東京警視庁写真班員の石川光陽の残した「33枚の空爆被害写真」高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」海老名香葉子さんらが建立した上野公園の「慰霊碑・・・哀しみの東京大空襲」「時忘れじの塔」、墨田区横網町公園の中の「東京都慰霊塔」・・・など見たり読んだり訪ねたりして、少しでも・・・東京大空襲とは何だったか・・・に思いを寄せてきました。


ここに1冊の本があります。

戦争中の暮しの記録」保存版・・・写真は1986年8月(第10刷)刊行のもの。
文章など書いたことのない普通の人の綴り方による戦争体験の証言記録。貴重なアーカイブです。
1968年8月に刊行した「暮しの手帖」の特集号を上製本仕様にして1969年8月15日に発行。いらい版を重ねたもの。
現在も通販市場で出回っています。


戦争中の暮しの記録」巻頭のグラビア写真・・・東京大空襲。
空いっぱいにひろがる焼夷弾・・・一夜で焦土と化した東京・・・とにかく生きていた・・・そして戦争の終った日。
右下の写真は天皇様のいらっしゃる皇居前で泣き崩れる東京都民の姿です。

鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」「神風が吹く」「神州は不滅」「八紘一宇」「五族協和」「王道楽土」・・・とか思考停止して強制的に暗唱させられて「教育勅語]を唱えていた時代。
それから数か月後の8月、「民主主義」「小作解放」「財閥解体」「婦人参政権」「現人神から人間天皇へ」・・・日本人のアイデンティティ―そのものが崩れる世界になりました(うまく立ち回った人もいましたが)。

今日は「3月10日メモリアルの日」「東京大空襲の日」「東京都民大虐殺の日」・・・それが何だったか・・・
それから数ヶ月後、焼夷弾よりもっと効率の良い攻撃兵器「原子爆弾」でイクサが終わります。
if ・・・もし戦争が起こったら勝っても負けても原子力兵器の打ち合いで地上は放射能に侵された永久焦土になります。

これからの人はどうすればよいか・・・それはこれからの世代の人が自分で考えていくことです・・・知らんぷりはしてほしくない。


※コメント欄オープンしています。

三月・・・3月10日は「東京大空襲」の日・・・3月11日は「東日本大震災」の日

2017-03-01 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
三月、桜咲く三月、春・・・いまから72年前の3月10日、東京で10万人の人が戦争で焼き殺されました。東京大空襲・・・人災です。
いまから6年前の3月11日、東北を中心とする太平洋沖でM9.0の大地震が起きました。天災でしたが、福島原発メルトダウンという後世に遺産を残す大人災が起きました。

2つのモニュメントです。

JR上野駅を出て徒歩5分、上野公園の中にヒッソリと・・・
アメリカ軍の東京大空襲で焼き殺された10万人の命・・・そんな悲しい時を忘れないために
昭和の爆笑王初代柳家三平師匠の奥さん海老名香葉子さんが浄財を集めて建立した
時忘れじの塔



わたしの住む村・・・比企の里・・・鳩山・・・小さな公園にこんなモニュメントがあります。
福島原発で避難してきた方々がこの村の人たちへ感謝の印として贈ってくれた福島の県木「しだれ桜」。
まだ小さいので銘板だけにしました。

Fukushimaは終わってない・・・

永六輔さんがかつてラジオでこうトークしていました。
「天災は言いようのない悲しみ。
 人災は言いようのない怒り。 」


※カテゴリ―「語り継ぐ責任・・・東京大空襲」を見ていただけたら。⇒クリック

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※拙ブログの記事、画像は参考資料として使えるものならばご自由にお使いください。

※コメント欄開いています。

上野の森で・・・71年前の東京大空襲の・・・モニュメント「時忘れじの塔」にお詣りした

2016-06-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
6月7日、久しぶりの東京散歩、秋葉原から御徒町、そして上野の森にやって来ました。
いまから・・・71年前・・1945年・3月10日未明・・・東京はあの大戦で敵国であるアメリカ軍によって大空襲されます・・・3.10東京大空襲
非戦闘員である一般市民の死者10万人、無差別爆撃です。

上野公園、東京大空襲のモニュメント「時忘れじの塔」です。


黙祷
あの戦争とは何だったのか・・・Why or why not? (なぜ?、どうして?)・・・考えてほしい。

2005年、発起人海老名香葉子さんと有志らの浄財により建立。

※海老名香葉子・・・東京大空襲のとき11歳、祖母、父、母、兄二人、弟の一家6人を空襲で失うが本人は疎開していたため戦災孤児となる。焼死を免れていた三兄とは後日再会。
※ぜひ読んでもらいたいむかしのブログです・・・クリック→2010年4月17日のブログ…海老名香葉子さんの本「半分のサツマイモ」を読んだ

今日は何の日・・・71年前の3月10日・・・東京大空襲

2016-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
1945年3月10日未明の0時07分、アメリカ軍のB29型戦略爆撃機325機による東京都心に対する爆撃開始、爆弾・焼夷弾381300発(1783㌧)。
この爆撃による死者は10万人、被災者100万人、広島・長崎への原爆攻撃を除けば史上最大の無差別攻撃、大量虐殺といわれます。

戦争は「殺し合い」です。こんなことは二度とあってはならない。
わたしたちは、この歴史を正しく認識して、次の世代に伝えていかなければなりません。


先の戦争」で敗戦濃厚な日本本土への連合国アメリカ軍の空襲は1942年から1945年の敗戦の年まで日本全国400余の市町村に及び東京で106回、名古屋で63回、大阪で33回、兵庫で128回。空襲による死者は調査団体、研究者によって違いがありますが50万人を上回るといわれます。
無差別攻撃・・・ハーグ国際条約非戦闘員地域への攻撃禁止違反・・・戦争犯罪ですが、戦争を早く終わらせるためにという理由づけで行われました。戦争とはそういうものです。いまでもそういうことが行われていて聖戦・誤爆という言葉で片付けられています。

縄文人さんのブログ・・・クリック→「東京大空襲とかつしか 白鳥の高射砲陣地跡を見る・・・当時の高射砲跡地を尋ね当時は子供だった現地の人の体験談を聞いたことなどが綴られています。

☆カテゴリー「語り継ぐ責任・・・東京大空襲」いままでのブログ見ていただければ・・クリック

今日から・・・70年前の・・・3月10日・・・東京大空襲

2015-03-10 | 語り継ぐ責任 東京大空襲
☆「語り継ぐ責任 東京大空襲」だけ見たいかたは・・・クリック
今日から・・・70年前・・1945年・3月10日未明・・・東京はあの大戦で敵国であるアメリカ軍によって大空襲されます。
非戦闘員である一般市民の死者10万人、無差別爆撃です。

上野公園の中にある「時忘れじの塔」です・・・
(撮影日は2010年4月10日)

関東大震災・東京大空襲・・・東京にも、現在から想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代に時をつなげる心の目印として、この時計を寄贈しました。海老名香葉子、有志一同・・・と裏面に刻んであります。

海老名香葉子・・・落語家の故先代林家三平夫人、1933年東京下町の本所堅川(現墨田区立川)の生まれ。12歳のときの1945年3月10日の東京大空襲で祖母、父、母、長兄。次兄、妹の6人を失う。本人は沼津に疎開中であった。孤児となって親戚の世話になり、奇跡的に生きのびた三兄に再会、やがて父の稼業「竿忠」のお客さんであった三遊亭金馬師匠の養女に、その縁で林家三平と結婚。林家一門の女将として現在に至る。

碑文の関東大震災(死者14万人)は天災です。東京大空襲(死者10万人)は人災です。人災は人々が努力すれば止めることができるかも知れません
今の平和な時代の時をつなげるためにどうしたらいいでしょうか。


無差別爆撃(都市戦略爆撃)の歴史・・・1923年オランダのハーグで行われた米・英・仏・日・伊・蘭の委員会において「爆撃は軍事目的に限り適法とする」(空戦規約)と宣言されました。実際にはそんなことは守られません。1937年ドイツ・イタリア軍のスペインのゲルニカ爆撃から始まり日本軍が中国の南京、漢口、重慶に1938年から1941年まで4年間にわたって行い(死者11,800人とも)、1939年ドイツ軍とロシア軍がポーランドのワルシャワに無差別爆撃。連合国側はそれに対して強く非難しますが、やがて「目には目を」・・・「倍返し」・・・憎しみの連鎖です。連合軍側は1942年からドイツのベルリン、ハンブルグ、ドレスデンに報復爆撃(死者150,000人とも)。最大の無差別爆撃は広島、長崎の原爆投下です。
表向きは軍需基地、軍需設備、軍需工場を叩くということでしたが軍需工場の下請けの町工場も含まれるという解釈に変わりすべての一般住宅も爆撃対象になっていきます。そのうちに戦争を早く終わらせるためにという言葉になりました。
戦時、はじめて無差別爆撃を受けた当時の日本の国民はどう思ってたのか ・・・
大岡昇平の小説「ながい旅」(1981年発表)から・・・何となく、「戦争である以上、しょうがない」と心の底で感じていたのは、戦争で勝つためには、何をしてもかまわない、という通念があったらしい。
大半の日本人は無差別爆撃が国際協定違反なんて知らなかった。また爆撃機が撃墜されて落下傘で降下した敵兵は住民に虐殺されるか日本軍により処刑されました。これもまた国際協定違反です。東京やそのほかの市や町で爆撃を受けて悲惨な状況に陥っていたことなど、そのほかの地方の人は知っていたのか。漠然とした情報は入っていたのでしょうか。
ベトナムでは米軍によって北爆といわれるナパーム弾、枯葉剤の攻撃が行われました。
近代の戦いでは非戦闘員も攻撃の対象になります。火器に勝るほうが勝ち、勝つことが正義になり、不正義の敗者が大量の死者を出すことにより戦争が終結します。
戦争とは正義も不正義も・・・ただ殺し合いです。

先の大戦であった悲惨な出来事を考えること、これからの時代はその経験者はいません。歴史認識の鉄則「いつ、どこで、何が、どうして、どのようなことに」を正しく検証していくことが、これからの平和な時代を継続していくことになります。