比企の丘

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世界文化遺産・・・富岡製糸場と絹産業遺産群構成資産・・・田島弥平旧宅を尋ねる

2015-02-25 | 古民家の風景
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。

深谷市岡のナベヅル越冬地、そこからほど近い血洗島の近代資本主義のプロモーター「渋沢栄一」の生家、精神形成に大きな影響を与えたといわれる従兄妹の「尾高惇忠」の生家、栄一が設立にかかわった「日本煉瓦」の建物・・・を見て歩きました。
そうだ・・・昨年6月に世界遺産に登録された近くにある群馬県伊勢崎市境島村の「田島弥平旧宅」を紹介しよう。血洗島から5分とかかりません。
境島村・・・1889年島村、1955年に堺町と合併、2005年伊勢崎市境島村。群馬県でありながら利根川右岸の飛び地。深谷市血洗島と地続きです。

2015年6月ユネスコ世界遺産登録「富岡製紙場と絹産業遺産群」構成資産のひとつ「田島弥平旧宅です。

東門・・・薬医門です。門の左側に1894年建築の桑場(二階建て納屋)。右側に田島弥平が隠居所とした別荘が。
屋号・・・「遠山近水屯舎」、「桑拓園」。

門をくぐると敷地総面積4000㎡の田島弥平旧宅。2012年国指定史跡。現在も子孫の方がお住まいです。

1863年建造の母屋、2階の屋根の上に長さ25m、高さ2m、幅1.8mのヤグラ(建築用語で越屋根、小屋根、煙出しともいう)がついてます。
養蚕のための温度調節設備(気抜き)として考えられたものです。気抜きの窓は現在はパネルで覆われていますが引き戸になっていました。

間口24m、奥行9m、二階建て、瓦葺き、県内最大の養蚕家屋です。この家屋の様式は全国の養蚕農家に普及していきます。

母屋の2階から新蚕室に繋がる渡り廊下。新蚕室は1875年前後に建築され、1952年に解体されています。

井戸・・・1863年の記録にはこの井戸はすでにあった。上屋は1914年。洪水対策として嵩上げした石垣の上に設置。

正門の左、田島弥平が隠居所にしたという別荘跡だそうです。1階は弥平没後は馬小屋、物置にされました。
別荘の左に、1856年香月楼と呼ばれた2階建て、瓦葺き、総ヤグラの実験的蚕室(間口22.5m、奥行き5.6m)、1958年解体。

利根川です。洪水のたびに村は利根川に二分、三分されました。村の地籍が両岸に分かれているのはそのためです。
江戸中期の1783年の天明の浅間山大噴火による河道の変遷から「島村の渡し」が運行されて、現在も(市道として)運営されています。

ここを訪れたのは世界遺産に登録されたばかりの1ヶ月後の昨年の7月15日でした。
もういちど尋ねて見たい。

富岡製紙場と絹産業遺産群構成資産・・・富岡製糸場荒船風穴蚕種貯蔵設備(下仁田町)、清涼育の研究・指導・普及田島弥平旧宅(島村)、清温育の研究・指導・普及高山社跡(藤岡市)。

田島弥平(1822~1898年)上野国島村の生れ。島村の地は利根川の洪水の地、19世紀初期ごろより。荒れた河川敷も桑畑にして養蚕が盛んに。弥平はその中で従来の自然育を基本に清涼育を体系的に研究、東北にむかしからある温暖育も研究、1856年二階建ての納屋を新築して換気ヤグラを工夫、1863年総二階、ヤグラ小屋根つきの母屋を新築。換気により温度管理を容易にして安定した生産を可能にする近代的養蚕飼育法を確立、「養蚕新論」、「続養蚕新論」を著し、全国から伝習生を集め養蚕の普及に貢献した。1863年蚕種輸出解禁、1872年島村勧業会社設立(現在の農協のようなもの)副社長。蚕種の直輸出を計画、1879年自身もアメリカ、イギリス、フランス経由でイタリアへ、55000枚の蚕種紙を持参し30000枚を売ったという。この事業は結局順調に進まず離脱する会員が出て1885年会社は解散。島村の養蚕はしだいに蚕種から繭生産に変換していった。
幕末から明治にかけての絹生産に全精力を傾けた篤農家です。



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