楽しく愉快な人生を

ー いつも模索しながら ー

たまには「平和」の話も

2016年03月07日 | 日記

7日(月)、北大阪は曇りがちでしたが、気温はバカ高く、ちょっと歩いたのに、汗が滲みました。初夏の感じ。

今日、医者帰りの途中、公的な広報板に「平和」についての語り部が少なくなった、という記述があることに気づきました。私自身は、一般にいう右翼とか、左翼とか、中道とかいう政党的、宗教的、〇〇主義的な輩(やから)とは違い、平凡な普通の日本人のつもりです。もうすぐ80歳を迎える年代になります。私にとっては、防衛とか、侵略とかに関係せず、平和とは「とにかく戦争がないもの」だと解釈しています。私が子どもながら経験した戦争では、今でも印象に残る2件があります。通学時の機銃送射襲撃のため溝へ避難した思い出も沢山ありますが、細かいことはもう忘れました。

ひとつは、私が小学校(私の時代は国民学校)1年生の年暮の深夜に、東京在住で我が家の寝ていた部屋に焼夷弾が落下し、普段は空襲警報で、庭にある防空壕に退避すべきを、その日あまりの寒さで家で寝ていたのが逆に幸いし、同室の両親が燃える焼夷弾に布団を被せて、ボヤと父の両手大やけどで済んだこと。その時は、都内品川区一帯が焼夷弾落下で他を助ける人はなしでした。学校で焼夷弾落下と叫ぶことと習いましたが、空しい状態。

もう一つは、父の両手やけどの医者通いに付き添って行った時、宮城(皇居)前を都電で通る時、電車車掌の号令で、「気を付け!、最敬礼」をしたことです。これ以外には、良い、悪いという分別判断力もなく自分はそういう社会に生まれたのだと思うだけで、もう70年以上たっての深い記憶はありません。従って、私には、少年時代まで、戦前中教育と戦後の民主化平和教育が半々に思考・思想には影響して残っていました。    しかし、私が絶対に許せないことは 

1 戦争中、国を思い、愛国を歌った国民㋨なかに戦後「我々は平和主義だったのだが、周りに従うしかなかった」という奴 2 自分で戦争を体験せず、戦後の民主化平和教育情報からだけでもっともらしく平和を語る奴 3 幾つになっても、自分は戦争被害者であり、知らぬうち加害者サイドにいる事には全く気付かない奴 がいる事です。

私は、戦争語り部の人たちには、70年前の記憶にない細かいことまで作り上げて、涙を誘う被害ばかりの語りをする人が多く、大嫌いです。