(今回の記事も映画の結末に触れています。未見の方はどうぞご注意下さい。)
『孫文の義士団』というタイトルを前に聞いたときは、実はそれほど興味が持てなかった。「孫文」は真面目そう?だし、その「義士団」ともなると、なんだか「大儀」のために命を落とす人ばかり見せられそうな気がして・・・。(そういう話を「エンタテイメント」として観るのは、私にとっては案外エネルギーの要る作業なんだと思う。)
ところが、たまたま予告編を見る機会があって、コロッと気分が変わった。
スクリーンに映る20世紀初頭の香港の街並みに実在感があって、なんだか凄いアクションも見られそうで、全体がなんとなく(珍しくも)CG的じゃない感じがする。タイトル通り「群像劇」みたいで、何よりそのキャストがとても豪華!! 「これならエンタメとして観られそう~」な気がしてきたのだ。
先日シネコンのフリーパスで、同時代(辛亥革命前後)の中国を描いた『1911』を観たのだけれど、こちらはどっちかというと教育映画の雰囲気で、私にはちょっと拍子抜け?だったので、『孫文の義士団』が余計に楽しみになった。
で、実際に観た後思ったこと・・・まず、タイトルから想像していたのとは違っていたことが二つ。
一つは、「孫文」の「義士団」とはいうものの、この映画の主要人物たちの中には「革命のために」とか「(この国の未来のためにかけがえのない人である)孫文の命を守るために」とかは、考えてもいない人が何人も混じっていたこと。
「義士団」を構成する人々はさまざまだ。
ここでは革命家と言ってもいいであろう中国同盟会会員のシャオバイ(表向きは新聞社の社長)、たまたまこういう時代に遭遇してしまった?大商人、清朝の腐敗を憂える学生(商人の一人息子)などはまだしも、無学で人のいい若い車夫(ダンナさんや坊っちゃんの笑顔が見たいだけ?)、良い家柄に生まれながら暗い過去を抱えて死に場所を探している?物乞い(誰の護衛を引き受けるのかさえ尋ねようとしない)、非業の死を遂げた父の敵を討ちたいという一心の娘、或いは博打にのめり込んで妻子に見限られ、それでも博打の金ほしさにスパイをしている警官・・・。それ以外の、たとえば暗殺団の矢を市場にあった米袋を抱えて防ごうとする若い人たちなどは、多くの弟子を持つ教育者でもあるシャオバイ周辺の人だったのか・・・彼らは次々と500人の刺客たちの前に倒れていく。
けれど、私にとって予想外だったもう一つは、孫文を狙う側の人たちも、単なる悪役じゃあなかったこと。
暗殺団の首領シャオグオはシャオバイの弟子の一人だった。
囚われの身となった師と対面して、「民主主義を学んだお前が、なぜ反革命の道を選んだのか。」と問われた首領は、欧米の民主主義は中国に災難と貧困と不幸しかもたらさなかったからだと答える。今の時代を生きる私から見ると、この首領の言葉も案外意味深なものを感じさせた。(「民主主義」という言葉の意味はともかく、日本もその後これらの欧米を追いかけようとした結果、中国を含む多くの国を戦場にしたのだから。)
この首領(フー・ジュン)は孫文を葬ることが目的なので、他の人間を殺すことを特に望んでいるわけではないことを示す場面もあって、それなりに肉付けされた人物造形になっている。
悪役側がそうなくらいなので、義士団側の主要人物たちもそれぞれの物語を抱えている。映画の前半は、ひとりひとりをそれほど時間をかけて掘り下げているわけではなくても、それぞれの事情がわかるようなエピソードや場面が丹念に紡がれていて、描かれていない部分も見る者が推し量れるような情緒を感じさせる。
大商人が車夫に頼まれ仲人をして縁談を纏める場面や若い人々に自ら手料理を振る舞う場面。商人は彼らの行く末が見えている。スパイ警官の元妻は、今は大商人の後添えで、なぜ自分が出て行ったのかを語り、彼に護衛になってくれるよう頼む。彼女もそれが彼の死を意味することをわかった上でのことだ。
一方で、市場で知り合った大男の豆腐売りに護衛になるよう誘うとき、少なくとも車夫はそれが何を意味するのかわかっていない。ほんとうに気楽に声をかけただけだ。
そんな大小のエピソードの積み重ねの結果、「義士団」自体が本当に「名もなき人々」の物語になっていることが、私がこの映画を気に入った一番の理由かもしれない。だからこそ映画の後半、ひとりひとりの闘いと死が胸に迫るのだと。
孫文が各地の同盟者と武装蜂起を打ち合わせる1時間の間だけ、義士団は暗殺団を引きつけておけばいい。但し、人数的には多勢に無勢・・・そういう設定のアクション・シーンが、映画の後半でほとんど同じだけの時間をかけて展開される。
映画としてはここからが見せ場なので、高い建物の間の路地を人力車が走っていくのを、観る方も「もうちょっと・・・」「あともう少し・・・」と、ハラハラしながら見守る。孫文たちの会合の「静」の場面が所々に挟まるので、余計に闘いの「動」の場面が際だって、観ている方の思い入れが増す。
そんな中、この映画の意外性も予想通りの納得も、次々目の前に現れる。
博打に溺れたしょーもないチンピラ風のドニー・イェン。私はこの人を『HERO』でしか観たことがなかったけれど、もうもう大変なアクション俳優さんで、今回はほとんど目がテンになりっぱなしだった。(しかも、そんなアクションは別にしても、目立たないチンピラにも根性据えた英雄にも見える人だったりするのだ。)この人と暗殺団の№2(カン・リーという格闘技界のスーパースターだそうな)との闘いの場面は凄まじい。
レオン・ライは何度も映画で見て知っているのに、最初どの人なのかわからなかった。いつもは端正な二枚目?の印象のある人が、(全く身なりに構う気がない)薄汚れた宿無しの物乞いの役。それでも、元は良家の御曹司・・・そんな虚無的な瞳の彼が、当日見違えるような格闘家の姿で、なんと本格的な「見せる」アクションを披露してくれる。
美しい顔立ちの都会的なイメージのニコラス・ツェーは、顔に傷跡を作って、ただただ人がいい車夫を演じていて、なぜかそれがとても似合って見えた。商人に仲人を頼んで結婚できることになった写真館の娘(チョウ・ユン)が足を引きずって歩くのを見ながら、にこにこしているのが何とも言えなくて・・・助けてあげられるものなら私が助けてあげたいくらいだった。(この娘役の女優さん以外にも、女優さんたちはみなそれぞれとても美しかったり、男前に元気一杯だったりして魅力的~♪)
元少林寺の僧侶だったという大男(豆腐売り)の最期。商人の息子が「1時間」が過ぎたことを知った瞬間の微かな笑み。若い人たちに自分では嘘と判っている言葉を心ならずもかけ、結局自分も一人息子を失った商人(ワン・シュエチー)。教え子が敵味方に分かれ、死地をくぐりながらも自分だけ生き残ってしまうシャオバイ(レオン・カーフェイ)・・・。
会合を終えて香港を後にするとき、この映画の孫文は初めて正面から顔を見せる。
その時の彼の涙は、なんだか敵味方を問わない、こういったすべての人々の犠牲に対してのもののように私には思えた。英題の"Bodyguards and Assassinns" という素っ気ない表現も、あの涙を思うと、この映画に相応しいもののような気がしている。
私は私で、お茶屋さんのブログで感想読ませていただいて、私ってほんと「感動」するだけやなあって(笑)。
幕末と同じ・・・とか、歴史的なこと全然考えなくて、なんだか新派の舞台観た後?みたいな気分で書いてました。
同じ日に先に観た『コンテイジョン』の冷たさと対照的だったのが、なんかもうすごーく嬉しくて。
辛亥革命とか孫文とかは、もしかしたらどっか行っちゃって?ただもう香港映画の面白さ!スタッフとキャストの「本気」!!に、感動してしまったんだと思います(単純なヤツ~)。
最後の孫文の涙なんて、「ああ、(孫文がこんなとこで泣くわけないから)これは彼が、革命で死んだ無名の人たちのことをちゃんと意識してたってことなんだな・・・」なんて勝手に解釈してました。(泣いてるバヤイじゃないですもん、ホント。)
でも、お茶屋さんに言われて、そうか・・・あれは作り手の思いでもあるんだな~って、初めて気がつきました。
『1911』も観ていたので、真面目なことほど「娯楽作品」として観たい・・・っていう気持ちに答えてもらえた気もして、なんだかそれも嬉しかったのかも(あは)。
そういう思いが作り手にあったのかもですねぇ。一人一人テロップ入れてたものね。ムーマさんの感想は力みがなくて、なんだかほっとするなぁ。
私は「孫文に似てなーい」とか「泣いてるバヤイじゃなーい」とか突っ込み入れてました(スンマソン)。映画鑑賞にも人柄がでるなぁ(たはは)。