たまたま機会に恵まれて、『コクリコ坂から』を観た。(よく知られたことだけれど、作り手の宮崎吾朗監督はハヤオおじさんの息子さんだ。)
1963年の横浜を舞台に、16才の少女と同じ高校に通う17才の少年の初々しい恋を描くスタジオ・ジブリのアニメーション・・・といった宣伝がされていたと思う。老朽化した文化部部室の建物が壊されると知っての、高校生たちの(楽しげにも見える)「反対運動」や、実家の下宿屋をひとりで切り盛りするヒロインとその周囲の人々の日常が、東京オリンピック直前の当時の風景とともに描かれている。
が、実際に観ていると、どこか時代も場所も不詳・・・という感じもする。そこまで作り手が「その時代」に拘っていないように見えるのは、なるべく広い年齢層に観てもらうためだろうか。それとも、監督がまだ生まれていない頃だから・・・というのも、少しは関係しているんだろうか。
ともあれ、映画を観た知人(奇しくも私と同世代の男性ばかり3人)が、「自分の経験を思い出させるところがあって、思ったより楽しんで観られた。」「面白かったよ。僕はああいうのもキライじゃないなあ(笑)。」「自分と同じか、むしろもっと上の世代向けかも。かつての日活の青春映画なんかを観ていた人なら、十分楽しめると思いますよ。」などなど、皆(評判はイマイチ?としても)自分としてはそれなりに面白かったという感想だった理由は、私も今回観てわかった気がした。
要するに、(『ALWAYS 三丁目の夕日』などと同じく)かつて自分も同じような経験をしたな~とか、あの頃はこういう雰囲気だったな~とか、「思い出せる記憶」のある人が観た方が楽しめる映画なんだろな・・・と私自身も思ったのだ。
けれど・・・結局、私はこの映画をあまり楽しめなかった方の一人だったと思う。
同じ監督の『ゲド戦記』と違って、私は原作を知らないので、映画と原作とのギャップにガッカリしたわけじゃなかった。『コクリコ坂から』はある種の学園ものなので、高校生の頃学校を休んでばかりいた私は「高校時代」なるものに思い入れがないからなのかな・・・とも思ったけれど、この「楽しめなさ」は『ゲド戦記』の時と共通の感じでもある。
「これはこれで良く出来たアニメーションだと思う。物語もそれなりに面白いし、主人公も嫌いじゃない。なのになぜか、自分は純粋に楽しんで観てるんじゃなくて、良く出来てるな~って考えて"鑑賞"してるだけなんだな・・・」と感じてしまう。そういう経験は案外多くて、私は『時をかける少女』も、『サマーウォーズ』も、おそらくは『河童のクゥと夏休み』さえ、そういった醒めた部分を自分の中に感じながら、ある程度「努力」して観ていた気がする。
「アニメーションは大好きなのに・・・。」
もしかしたら普通の(実写の)映画より、もっともっと好きかもしれないのに。だから少々のコトは、私は本当にどうでもいいと思っているのに・・・。
「なのにどうして、日本の"良くできた"アニメーションって、こんなにオジサンっぽいんだろう。」
ハヤオおじさんの「おじさん」じゃなくて、所謂「オヤジ」に近い、でもそこまで否定的な感じでもない、説明しにくい感覚・・・。私は、日本の劇場用アニメーションを観ると、よくそういう「曰く言い難い感じ」に悩まされる。
私は普段は、「オジサンっぽさ」を好きでも嫌いでもないヒトだ。けれど、ことアニメーションに関してだけは、少しでもそれを感じると興醒めするところがあるのだと思う。(自分もいい歳をしたオバサンで、オバサン・オーラを振りまいているんだろうけど、「それとこれとは別」なのだ。)
私がアニメーションに無意識に求めているものは、オジサンっぽさとは余程相性が悪いのかもしれない。
今回も『コクリコ坂から』の映像をスクリーンで観ながら、私は頭の片隅で「どうしてこういうアニメーションは味気ないと思うのかなあ・・・」などと、またまた考えていた。そのうちに、それは「ムシの好かない」宮崎駿監督の映画を、自分がどうしてせっせとスクリーンで観ようとするのかを考えるのと、裏表なのだということに気がついた。
ハヤオおじさんの作品にあって、宮崎吾朗監督の作品には無いモノ・・・と考えてみて、私は気づいた。
「新鮮なオドロキ!・・・じゃないかなあ。」
ハヤオおじさんの映画を観ていると、私は子どもが初めて何かに出合った時のように「大きく目を見開いたまま、ただ呆然と目の前の光景を見ている」瞬間がある。
眠ってしまった妹をおぶって、雨の中でバスが来るのを待っていたら、隣に巨大な生きものが立っていた・・・とか。
或いは血まみれの口で振り向いた少女と、彼女を追ってきた青年の目が合った一瞬。大嵐の海で、波頭の上を軽々と、裸足でタタタッと駆けてくる幼い少女の姿。化け物に追いかけられているというのに、そのまま空中へと「散歩」に出てしまう魔法使い・・・などなど。
こうして書き出してみて、改めて思う。
「私は、少なくとも大きなスクリーンの上では、"子どもの頃"のように驚きたいんだ・・・。」
ハヤオおじさんは、そういう「子どもの感じる純粋なオドロキ!」ともう一つ、「大人が子どもの柔らかい感性を目の当たりにして感じる新鮮な驚き!」の両方を、どの作品にも盛り込もうとするように私には見える。
スクリーンでそれらに出会った時、元々「意外性」に弱い私は、それまでの不平不満などきれいさっぱりどこかへ飛んで、ただもう目の前の情景に見とれてしまう。
おじさんは古い世代?なので、昔ながらの「ロマンチック」も諦めていない。ディズニーのアニメーションを食べて育った私は、そういう「ロマンチック」(女の子が空から降ってくるような)にもウットリする。正体不明の案山子があまりに頼りになるのに、一瞬ドキドキしてしまう(笑)。
そして宮崎吾朗監督の作品には、そんなオドロキ・驚き・ロマンチックが、私には見当たらないのだと思う。
この監督さんは、おじさんより「まっとうな」人なのかもしれない・・・なんて、ふと思った。少なくともおじさんみたいな、ある種ヘンテコリン?なヒトじゃなさそうな気がする。
前作の『ゲド戦記』同様、この『コクリコ坂から』も作り手の真面目さ、真剣さはストレートに伝わってくる。今回は、それがとても清々しく感じられる作りになっているので、これはこれで好きな人がいるだろうな・・・という気もしてきた。
でも、私は「まっとう」なだけでは興味が持てないのだと思う。
というか、「まっとう」だとかえって味気なく感じてしまうようなトコロがあって、もっともっと、オトナの現実を越えるもの、忘れさせるほど陶酔させてくれるものを、アニメーションには求めているんだと初めて気づいた。
そうじゃないと、私の眼には、キャラクターが本当に生き生きとは映ってくれないんだと。そしてハヤオおじさんの作品には、なぜか私が無意識に求めているモノがあったんだろうと。
『コクリコ坂から』は、随分色々なことを私に教えてくれた映画になった。
これには笑いました。
というか目から鱗かも知れません。
なるほど、言われてみると確かにオジサンっぽいです。
>なるほど、言われてみると確かにオジサンっぽいです。
そう言って下さって、もうほんとにほんとに嬉しいです!!
(「オジサンっぽさ」が言葉でうまく表現できなくて、これまでもアニメーションの感想を書く時にはっきり書かずにいたことだったので。)
でも今回長々と書いたことは、要するに、いかに自分がコドモっぽいままこの歳になったか・・・それだけのことなのかもしれませんね(笑)。
今読み返してみて、改めてそう感じてます。
当時の記憶がある人が観た方が楽しめる映画かぁ。
『オヤジに近い』説明しにくい感覚(笑)
おじさん作品の様な、新鮮な驚き、意外性、ロマンチックが感じられないんだね。
私もアニメーションにはロマンチックが欲しいなぁ。
若い人が『コクリコ坂から』を観たらどう思うのか興味はあるんですが、まだネット上で見に行ってないんです(怠惰~)。
リアルの若い友人(アニメ大好き!)は話し相手にはなってくれても、自分が観に行く気は全然なさそうだし(笑)。
ただ・・・ジブリの映画は、いつも背景がとても美しくて、私はそういうの観てるだけでもシアワセ~になる観客なんですが、今回はどちらかというと、単純化された普通の絵?の感じになっていて、私にはそれもちょっと残念な気がしました。
(もちろん物語に合わせてそうなってるだとは思うんですが。)
でもね、登場する若い人たちはみんな、自分の思うことを本当にスッキリハッキリ口にするの。
問題が起きて悩むことがあっても、そこでウジウジしないというか。
たとえそれが戦争に絡む、深刻な内容であっても。
そういうところは見ていてとても清々しくて、「今とは(時代も人も)違うんだな~」なんて思ったり・・・。
(私には)「ロマンチック」より「凛々しく賢い」を目指した?作品に見えました。
この作品は、まだですが・・・
やっぱり、(となりのトトロ)や(魔女の宅急便)が好きです!
スクリーンに吸い寄せられる感じがして・・・
風景とか、スゴく、キレイで!!
ハヤオ監督の方が、なんとなく?夢がある感じがします。
テレビで、吾朗監督がハヤオ監督に、ダメ出しされちゃってるのをみました!
やっぱり、お父さんには、かなわないのかなぁ・・・
>スクリーンに吸い寄せられる感じがして・・・
>風景とか、スゴく、キレイで!!
>ハヤオ監督の方が、なんとなく?夢がある感じがします。
ほんとそうなんですよね~(^o^)
おじさんと宮崎吾朗監督が、アニメーションのことで壮絶な(と思いました)やりとりをしてるの
私もNHKのドキュメンタリーで見ました。
話してる内容はワカラナイんですが、とにかく
おじさんは「黙って(任せて)見ている」なんてことはできないタイプなんだな~って思いました。
(以前、『借りぐらしのアリエッティ』の若い監督さんにもプレッシャーかけてるの見たことあります(笑)。)
あーゆーヒトの傍で、若い監督が仕事するのって(親子だと尚更)大変だろうな・・・って
それはそれで、ちょっと同情してしまいました。
今日付の拙サイトの更新で、こちらの頁を
いつもの直リンクに拝借したので、
報告とお礼に参上しました。
シューテツさんも言及されてるフレーズには
僕も大いに笑うとともに感心しきりでした(笑)。
「思い出せる記憶」のある人のための映画というのは
確かにそのとおりだと思います。
それを吾朗くんの世代が撮っていることの功罪は共にあって
功としては、自分の原体験がないだけに妙なこだわりから
自由になれるだろうし、ヘンな色が着かずに済んでること
ではないかなぁと思ったりしました。
アニメーションに限らず、僕が映画に求めているものは
驚きと発見です。
そして、それは多くの場合、
見せてもらうもの自体についての驚きや発見ではなく
自分の中に生じる驚きや発見のほうで、
ある意味、何の変哲もないものでそれをされるほうが
インパクトが高かったりします。
『まぶだち』や『この窓は君のもの』といった
初期の古厩智之作品を僕が好んでいるのは、
まさしくそこのところにあるんですよね。
どうも、ありがとうございました。
『コクリコ坂』に「ヘンな色が着かずに済んでる」ことの良さ・・・私も感じました。(ハヤオおじさんが作ったら、色がつきそう~(笑))
ヤマさんが映画に求めるのは「驚きと発見」、それも「自分の中に生じる驚きや発見のほう」と聞くと、ヤマさんの書かれる日誌のアレコレを思い出してすごーく納得します。
私自身は、そういう「驚きや発見」を自分から求めて映画を観ているのではありませんが、偶然ソウイウモノに出会うことはあります。
そして、観た後も長い間思い巡らし抱えていたりするのは、往々にしてそういう作品だったりします。
でも、普段の私が映画に求めているのは「見せてもらうもの自体についての驚き」と「陶酔」!なんでしょうね。
私はいろいろな意味で「現実ではなかなか出会えない」ものに、せめてスクリーンの中で出会いたいんだろうな・・・って、ヤマさんのコメント読みながら思いました。
ついでに言うなら「オジサンっぽさ」は、私に「現実」を思い出させてしまうというか、せっかくかかっている魔法から醒めさせちゃうようなモノなのかも(笑)。
『まぶだち』も『この窓は君のもの』も私は見逃してるのが残念です。
観たら即ヤマさんの日誌(今確認してきました)を読みにいきますね。なんだか楽しみになってきました(笑)。