眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

 「カーズ」的世界

2006-09-21 06:30:37 | 映画・本
この夏は、私としては珍しいことに、何本も立て続けにアニメーションを観た。日本やアメリカの新作、或いは美術館ホールでの特集として各国の旧作、最近作などなど。劇場で一日に3本続けて観たときには、冷房が苦手な私としてはもうクタクタなのに、それでも家に帰るのが信じられないような、不思議なトリップ感のようなものが残った。楽しい遠出の一日の終わりに、子どもが、既に半分寝かかっているのに「かえりたくなーい」という時の気分に似ていたのかもしれない。

私は、子どもの頃ディズニー作品を食べて育ったような気がするくらい、アニメーションというものに懐かしさと良いイメージを持っている。観ている間の、あの陶然とした文字通り夢見心地の気分は、今でも忘れられない。(大人になってからは、もう少し醒めてしか観られなくなったような気がして、なんだかちょっとクヤシイ。)

テレビでのアニメもいろいろ観たはずなのに、「アニメーション」というと、どうしても大きなスクリーンが浮かぶ。人間であろうとなかろうと、動植物はもちろん、ポットや胸像だって喋ったり踊ったり出来て、空なんてらっくらく飛べちゃう!世界・・・。

なんだか、私は今でもそういうものを、心のどこかで信じているのかも知れない。みんな昼間は知らんぷりしてるけど、ほんとはそこの扇風機も本棚の本たちも、黙って考え事しているような気がする。全自動の洗濯機には、ちょっとしたロボット並みの「生き物としての存在感」みたいなものを感じるし、PCに至っては機嫌の善し悪しや好不調が、もう生きているとしか思えなかったりもする。

だから、「カーズ」は公開前から楽しみにしていた。これまでのピクサーの映画は、どれもビデオやDVDでしか観ていなかったので、一度大画面で観てみたいという気持ちも強かった。


というわけで、喜んで観に行った「カーズ」は、実際、子どもよりもむしろ大人の観客の方が喜びそうな、内容と技術が高いレベルで釣り合った本当に良くできたアニメーションだった。けれど、私がこの映画で一番驚いたのは、実は序盤の、それもある一瞬のことだった。

主人公である、若くて威勢のいい「目下売り出し中」のレーシングカー「ライトニング・マックィーン」が初めて大レースで優勝するという、そのライバルとの抜きつ抜かれつのシーンで、私は一瞬、自分の眼を疑った。主人公はアニメとして描かれたクルマであり、そこは観客その他すべてがクルマという世界で、しかも只今レースの真っ最中という状況。それなのに、主人公の動き方が突然、あの本物のS・マックィーン、それも「大脱走」の頃の彼の身ごなしそのものに見えたのだ。

名前にマックィーンと付いていても、主人公のキャラクターにはかつてのSを思い起こさせるようなところは無く、私はそれまで何も思わず、ただ「カーズ」というこの映画を楽しんで観ていただけだった。クルマにもレースにも全く無知な私にでさえ、このアニメを作ったピクサーの持つ技術力の高さがひしひしと感じられ、レースシーンの迫力に私は眼を瞠った。

ところがある瞬間、クルマが、擬人化されたアニメーションとしてのクルマのキャラクターを飛び越えて、それまで忘れていた人の姿になって、眼に跳び込んできたのだ。驚愕という言葉が大げさでないくらい、わたしは文字通り息が止まるほど驚いた。

S・マックィーンという俳優さんは、かつての私にとってある種特別な存在だった。私は演技者としての彼のファンだったわけではないと思う。ただ、一時期私が比較的自由に映画を観に行けた頃、たまたま彼も多くの作品に出演していて、映画館に行く度スクリーンで出会った。そういう時、私は彼の何でもない動作や身のこなしに、いつもちょっとだけ?見とれた。歩くこと、走ること、一人でキャッチボールをすること、フェンスやガードレールを無造作に跳び越えること・・・彼にとっては、自分の身体が自分の思い通りに動くことは、ごくごく当たり前のことなのだということが、見ているだけでよく判った。所謂アクションシーンではなく、日常的な行動での身ごなしがなぜか見ていて心地よいという、私にとってS・マックィーンはそういう人だった。それは、美しい野生の生き物をそっと物陰から見ているのと、それほど変わらなかったのかもしれない。

だから、アニメのクルマが一瞬若い頃の彼自身に見えたからと言って、それほど驚くこともないのかもしれない・・・と、後になってから考えた。それでも、映画を観ていたその時には、少なくとも私にとっては驚嘆するような出来事だったのだ。


クルマ達にちょっと大きすぎるような眼が付いていることが、視覚的にどこかひっかかる気がしただけで、それ以外、「カーズ」の描き出す世界に私は全く違和感を感じなかった。最近特に目に付くようになった、何をしても構わないかのような「強国アメリカ」ではなく、昔々からハリウッドが繰り返し描いてきたアメリカとアメリカ人の良さが伝わってくる「正統派」の作品だとあちこちで言われていたようで、見終わって私自身もそういう風に感じた。

けれど、実は個人的には、作品を観た後頭の中に広がった「カーズ」的世界で、とりとめのないことに思いを巡らして遊ぶ楽しさも、この作品の魅力になっていた気がする。

たとえば、最近になって私は、自分が「人間以外の人間的なるモノ」になぜか目を惹かれることに気がついた。20年後くらいにまだ命があったら、ロボットと一緒に暮らすのもいいな・・・などと、半ば本気で考えたりしている。その頃にはヒト型ロボットは、ずいぶん進歩?しているだろう。もしかしたら、ふとした仕草が誰かを思い起こさせたりするようにまで、なっているかもしれない。

私は「スター・ウォーズ」のR2D2の面影があるロボットと暮らすのを夢見ている。

ロボットの面影のあるロボットなんてメンドクサイことを言わずに、コピーを作ったらいいではないかと思われそうだけれど、こういう時は「複製」ではダメなのだ。私にとってR2D2は、あの映画の中にしかいない、世界に1体だけのヒト?なので、あくまで「面影」。

あんなに賢くなくていい。言葉は無論、通じない方がいい。うっすらとその「面影」があるだけで、オバアサンの私はとても幸せだろう・・・なんて想像している。






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