こんにちは。ぴっぐです。
楽しいけども向上するってどういうことなんでしょうか。
ふと考えました。
私は、楽しいことは努力しないと思います。小学生のころは夢中ゆえに自動的に努力していたという感覚があったけども、今は夢中という感覚がありません。
それよりも年齢を重ねるごとに感じてきたのは、ある行為に興味があったり、楽しい時は、それをすることそのものが楽しいので、それ以上の向上をしようという気持ちがでてこないということです。例えば走ることそのものが楽しいなら、それ以上早くなろうとは思わないません。
「もっと早く走りたい」という目標や欲が出た時に、苦しいけども、その苦しさを乗り切って、頑張ろうという意識が芽生えます。
だから「もっと●●したい」という欲求がでない限り、努力はしない。
そして往々にして、楽しいことと、目標を持つことは関係性がないので、楽しい時には努力をしないのです。
「もっと●●したい」という場合、それは現実の自分の否定をすることにもつながります。
なぜなら、現実の自分が●●と距離があることを認識しても、現実の自分に満足していれば、努力はしないからです。
つまり努力とは、自分を否定することから生まれることが多いのです。
じゃあ、自分を否定しないけども、目標に向かって努力したり、楽しいってどういうことなんでしょうか?
楽しいけども向上するってどういうことなんでしょうか。
ふと考えました。
私は、楽しいことは努力しないと思います。小学生のころは夢中ゆえに自動的に努力していたという感覚があったけども、今は夢中という感覚がありません。
それよりも年齢を重ねるごとに感じてきたのは、ある行為に興味があったり、楽しい時は、それをすることそのものが楽しいので、それ以上の向上をしようという気持ちがでてこないということです。例えば走ることそのものが楽しいなら、それ以上早くなろうとは思わないません。
「もっと早く走りたい」という目標や欲が出た時に、苦しいけども、その苦しさを乗り切って、頑張ろうという意識が芽生えます。
だから「もっと●●したい」という欲求がでない限り、努力はしない。
そして往々にして、楽しいことと、目標を持つことは関係性がないので、楽しい時には努力をしないのです。
「もっと●●したい」という場合、それは現実の自分の否定をすることにもつながります。
なぜなら、現実の自分が●●と距離があることを認識しても、現実の自分に満足していれば、努力はしないからです。
つまり努力とは、自分を否定することから生まれることが多いのです。
じゃあ、自分を否定しないけども、目標に向かって努力したり、楽しいってどういうことなんでしょうか?
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