こんにちは、ぴっぐです。
会社がはじまってから、おとなしくしています。
具体的には、一言も発しないことです。そうすると周りが勘違いしてか、そのうち勝手に説明し始めます。そんなちょろっと説明を、専門用語満載で説明されても当然に理解はできないので、別に作業は何も進んでおらず机に座っているだけなんです。
だけど何も言葉を発しないと、周囲は「周囲の想定するまじめに取り組んでいる」と勘違いするんじゃないかな。時間制限、他人に聞かなければいけない仕事以外、こうやって黙ることにします。
ストレスとしては-10が-5になったくらいです。問題解決しておらず、誰も本質的には得してないと思うのですが、それを周囲が望んでいるのならそうしましょう。
これを「ぴっぐの兵法」と名付けることにします。
「香水等事件」を通して、50代会社役員さんからこんなコメントがありました。
・「自分の言動は一貫した正当性があるので、それを理解または賛同して行動を変えない自分以外の「周り」に誤りまたは認識不足がある」というものすごく強固な意志
・Pの課題は圧倒的に相手への配慮、いやもっと言うと「愛とリスペクト」が欠けている
とあります。
具体的には、
いずれにしても彼女が気に入って使っていたものであり、その気持ちは彼女の自由です。一方でPが気持ち悪く感じるのもPの自由です。では、どうやって彼女に伝えるとその後の問題を極小にしてお互い気持ちよく共有の場所で過ごせるか、という視点が重要
このような例ですね。
また、別の友人はこんな意見をくれました。
本質的には、「寛容」なんだと思います。
「香水ぐらいいいか」というのも寛容ですし、「これくらいにしておこう」というのも一種の寛容ですね。
日本人は、自己主張が弱いと言われていますが、その本質は、同調性からくる寛容さの欠如ではないかと思っています。
あとは「何がしたいのか」というところにつきるのかなと。
「香水をつけること」や「つけさせないこと」が目的ならいいのですが、
おそらく、何かの一手段に過ぎないと思うんですね。
それならば、いっそ思いっきり譲ってしまってもいいのかなと思うんです。
それは、論理性とか正当性とかではなく、目的や効果から考えたら、それぐらいいいか、というやつですね。
小泉さんの赤字国債の答弁を思い出します(笑)
何かをやろうとするには、能力なんてたかが知れているので、やはり末節にとらわれていると、コスト配分が上手くないと思うんです。
何となく同じことを言っているので、これを元にコメントしたいと思います。
50代役員さんは「愛とリスペクト」と言っていることを、友人さんは寛容という言葉で言っています。ここでの問題は2つあって、以下に集約されます。
・目的は何か
・愛とリスペクト(=寛容)とは何か です。
1つずつまいりましょう。
1、 目的は何か
本件でいえば、香水等の使用をやめさせることですね。
そして私の中では、香水にしろハンドクリームにしろ、その匂いを不快と思う人がいれば、その不快と思う人の存在を認識して、使用中止するのが「配慮」だと思っていたんですね。
補足すると、私は今の部署は日本的な集団な気が当初からしていたので、その日本的な価値観であるグループメンタリティー(自分がどう思うかでなく、周囲がどう思うかで意思決定する)からすると、不快という人が周囲にいれば、周囲に気遣うのが配慮だと思っていたんですね。だから使用者が不快感を出すなんてことは想定もしておらず、言えばすんなり解決すると思っていました。
せっかくなのでこれを法的処理しようとすれば、おそらく以下のようになります。
まず不法行為による差止請求(民法709条)でしょう。公害問題と同じ処理です。
まず①私の損害②行為の特定③行為と損害の因果関係④行為の違法性、ですね。
・損害
私にとっては不快さですけども、不快というのだけでは損害とは必ずしも言えないわけですね。アレルギー反応出た、湿疹した等の生理学的な反応がないと、まずは損害と言えないんじゃないかと思います。
・行為の特定
今回は香水等の提供があったので相手の協力がいわばあった訳ですが、本当はその特定から自分でしないといけませんね。
・行為と損害の因果関係
特定した商品でアレルギー等が出るか検査ですね。
・違法性
その行為が一般的社会通念上許されるかどうかですね。まあこれは時代によって変 わるので、今は何とも言えないと思います。仮に花粉症の人が部屋にいて、4月に窓を開ける行為は違法と言えるのかと考えるとわかりやすいですね。花粉症の程度よるのかなあ。マンションで隣の人がベランダでたばこを吸って、洗濯物が匂いがつくので止めてほしいというのも同じと思います。
こう考えると、法的処理でも私の行動は間違ってますね。でも以下に書くように法的処理を選択しなかったので、それは良しとします。
2、愛とリスペクト(=寛容)とは何か
従来の私ならば、「すいません、ちょっといいですか?○○さんのつけている××が私苦手なんです。」と本人に直接言ってたと思います。でも先に書いたように日本的な部署だと思った私は、直接対話を避けて、わざわざ課長経由にしたわけです。
個人的には、「よくやったな私。素晴らしい配慮だ」と思っています。
マスク云々については、自分でできる対策、医師から推薦された対策ということで使用しました。上手くいかなかった後で、課長経由でなく私から直接言おうと思っていたのを踏みとどまり、これも「よくやったな私。素晴らしい配慮だ」と思っていました。
といってもこれは、モノの捉え方でして、50代役員さんからすれば私の行為は配慮にかけるものであり、私からすればすでに2回もした配慮ということに過ぎないと思います。
となると結局、問題は配慮の「定義」は何かということだと思うのです。
配慮の定義自体は、「心をくばること。心づかい。」(goo国語辞典)にあります。
私は本人、部署を荒立てないと「心をくばり」課長経由にした。課長から否定的な見解を受けたあとで、問題を大きくしないように「心をくばって」マスクを自分でしているのです。
あれれ、こうすると私の行為も配慮あるものになってしまいます。
50代役員さんの考えは自分が「心をくばる」時にも、くばり方があって、自分でくばろうと思いついたものではいけないということだと思います。
具体的には、以下の部分ですね。
その女性にとってなにか思い入れのある化粧品だったかもしれません。大好きだった元彼が好きな香りでその彼は事故で亡くなってしまったのかもしれません。大好きな姉が初任給で初めてプレゼントしてくれたものだったのかもしれません。たまたま入った百貨店でバーゲンセールをしていて安いから購入しただけのものかもしれません。
「相手の有している価値観や状況に合わせた」気の配り方、という定義なんだと思います。
じゃあ、この香水等にこんなことがあったらどうしましょう。
もし、私がその匂いをする人に過去にいじめられた経験があれば?
もし、私がその匂いをする人に過去にフラれた経験があれば?
あれれ、香水等使っている人の「配慮」が私に対して足りないことになりませんか?
そりゃそうですね。
だって他人は私の人生なんて知らないのだから。
私は配慮というのは、各々で出来る範囲が違うのだと考えています。
それは年齢、性別、社会経験によって、各々のイメージできる能力に差があること。さらにそのイメージができたとしても、その配慮をするのに努力がいるかもしれない。
だからこそ、自分のできるとこまでをして、そこから先は言葉にして話あって妥協点を探す。
この妥協点を探すという態度も「配慮」の一要素だと思うのです。
法律風に言えば、まず心を配るのは日本では重要視されるので、他人に請求できる請求権に近いかもしれません。
しかし各々の配慮は大きなばらつきがあるので、それで不十分な時もある。
そこで話し合って妥協点を探すのが、もう1つの配慮と思います。
友人さんの寛容ともつながるのですが、今回問題になったのは、匂いに疑問を持つことを表明したのが私1人だったからですね。
(目の前に座っている「バカ、アホ」発言の方も、香水等の匂いがしてくると、パタパタと仰いでいます。言葉にしないだけで本当は2人なのかな!?)
配慮はそもそも何のためにするのか?と言えば、それは周囲と上手くやるためですよね。しかし私は周囲の一部ではあるけども、匂いに疑問を持つのは私1人でしかなかったために、「配慮の対象となる周囲」の定義に入らなかったんでしょう。
でもそれでいいんですかね?
配慮をすべき対象ってのは多数決で決まるんでしょうか。
友人さんのいった寛容、日本人のグループメンタリティーの素晴らしいところって、多数派に合わせることでなくて、「少数であろうが異質なものも受け入れる」ってことだと思うのです。
もしかすると私が気づいてないだけで論理矛盾しているのかもしれないですけど、(だからその時は教えてほしいです)私がずっと感じている普通の人々の配慮っていうのは「多数派の顔を伺う」でしかない気がするんですね。
またコメント、どしどし待ってます。
ただ、今回の私の反省点としては、私が「不快です」と言えば、それで相手も納得すると思っていたという想像力不足ですね。じゃあなぜ想像力が足りないのかというのは、次回に書きたいと思います。それは私が医師から指摘された「発達障害」に関係するかもしれません。匂いに敏感なのも、もしかすると・・・。
会社がはじまってから、おとなしくしています。
具体的には、一言も発しないことです。そうすると周りが勘違いしてか、そのうち勝手に説明し始めます。そんなちょろっと説明を、専門用語満載で説明されても当然に理解はできないので、別に作業は何も進んでおらず机に座っているだけなんです。
だけど何も言葉を発しないと、周囲は「周囲の想定するまじめに取り組んでいる」と勘違いするんじゃないかな。時間制限、他人に聞かなければいけない仕事以外、こうやって黙ることにします。
ストレスとしては-10が-5になったくらいです。問題解決しておらず、誰も本質的には得してないと思うのですが、それを周囲が望んでいるのならそうしましょう。
これを「ぴっぐの兵法」と名付けることにします。
「香水等事件」を通して、50代会社役員さんからこんなコメントがありました。
・「自分の言動は一貫した正当性があるので、それを理解または賛同して行動を変えない自分以外の「周り」に誤りまたは認識不足がある」というものすごく強固な意志
・Pの課題は圧倒的に相手への配慮、いやもっと言うと「愛とリスペクト」が欠けている
とあります。
具体的には、
いずれにしても彼女が気に入って使っていたものであり、その気持ちは彼女の自由です。一方でPが気持ち悪く感じるのもPの自由です。では、どうやって彼女に伝えるとその後の問題を極小にしてお互い気持ちよく共有の場所で過ごせるか、という視点が重要
このような例ですね。
また、別の友人はこんな意見をくれました。
本質的には、「寛容」なんだと思います。
「香水ぐらいいいか」というのも寛容ですし、「これくらいにしておこう」というのも一種の寛容ですね。
日本人は、自己主張が弱いと言われていますが、その本質は、同調性からくる寛容さの欠如ではないかと思っています。
あとは「何がしたいのか」というところにつきるのかなと。
「香水をつけること」や「つけさせないこと」が目的ならいいのですが、
おそらく、何かの一手段に過ぎないと思うんですね。
それならば、いっそ思いっきり譲ってしまってもいいのかなと思うんです。
それは、論理性とか正当性とかではなく、目的や効果から考えたら、それぐらいいいか、というやつですね。
小泉さんの赤字国債の答弁を思い出します(笑)
何かをやろうとするには、能力なんてたかが知れているので、やはり末節にとらわれていると、コスト配分が上手くないと思うんです。
何となく同じことを言っているので、これを元にコメントしたいと思います。
50代役員さんは「愛とリスペクト」と言っていることを、友人さんは寛容という言葉で言っています。ここでの問題は2つあって、以下に集約されます。
・目的は何か
・愛とリスペクト(=寛容)とは何か です。
1つずつまいりましょう。
1、 目的は何か
本件でいえば、香水等の使用をやめさせることですね。
そして私の中では、香水にしろハンドクリームにしろ、その匂いを不快と思う人がいれば、その不快と思う人の存在を認識して、使用中止するのが「配慮」だと思っていたんですね。
補足すると、私は今の部署は日本的な集団な気が当初からしていたので、その日本的な価値観であるグループメンタリティー(自分がどう思うかでなく、周囲がどう思うかで意思決定する)からすると、不快という人が周囲にいれば、周囲に気遣うのが配慮だと思っていたんですね。だから使用者が不快感を出すなんてことは想定もしておらず、言えばすんなり解決すると思っていました。
せっかくなのでこれを法的処理しようとすれば、おそらく以下のようになります。
まず不法行為による差止請求(民法709条)でしょう。公害問題と同じ処理です。
まず①私の損害②行為の特定③行為と損害の因果関係④行為の違法性、ですね。
・損害
私にとっては不快さですけども、不快というのだけでは損害とは必ずしも言えないわけですね。アレルギー反応出た、湿疹した等の生理学的な反応がないと、まずは損害と言えないんじゃないかと思います。
・行為の特定
今回は香水等の提供があったので相手の協力がいわばあった訳ですが、本当はその特定から自分でしないといけませんね。
・行為と損害の因果関係
特定した商品でアレルギー等が出るか検査ですね。
・違法性
その行為が一般的社会通念上許されるかどうかですね。まあこれは時代によって変 わるので、今は何とも言えないと思います。仮に花粉症の人が部屋にいて、4月に窓を開ける行為は違法と言えるのかと考えるとわかりやすいですね。花粉症の程度よるのかなあ。マンションで隣の人がベランダでたばこを吸って、洗濯物が匂いがつくので止めてほしいというのも同じと思います。
こう考えると、法的処理でも私の行動は間違ってますね。でも以下に書くように法的処理を選択しなかったので、それは良しとします。
2、愛とリスペクト(=寛容)とは何か
従来の私ならば、「すいません、ちょっといいですか?○○さんのつけている××が私苦手なんです。」と本人に直接言ってたと思います。でも先に書いたように日本的な部署だと思った私は、直接対話を避けて、わざわざ課長経由にしたわけです。
個人的には、「よくやったな私。素晴らしい配慮だ」と思っています。
マスク云々については、自分でできる対策、医師から推薦された対策ということで使用しました。上手くいかなかった後で、課長経由でなく私から直接言おうと思っていたのを踏みとどまり、これも「よくやったな私。素晴らしい配慮だ」と思っていました。
といってもこれは、モノの捉え方でして、50代役員さんからすれば私の行為は配慮にかけるものであり、私からすればすでに2回もした配慮ということに過ぎないと思います。
となると結局、問題は配慮の「定義」は何かということだと思うのです。
配慮の定義自体は、「心をくばること。心づかい。」(goo国語辞典)にあります。
私は本人、部署を荒立てないと「心をくばり」課長経由にした。課長から否定的な見解を受けたあとで、問題を大きくしないように「心をくばって」マスクを自分でしているのです。
あれれ、こうすると私の行為も配慮あるものになってしまいます。
50代役員さんの考えは自分が「心をくばる」時にも、くばり方があって、自分でくばろうと思いついたものではいけないということだと思います。
具体的には、以下の部分ですね。
その女性にとってなにか思い入れのある化粧品だったかもしれません。大好きだった元彼が好きな香りでその彼は事故で亡くなってしまったのかもしれません。大好きな姉が初任給で初めてプレゼントしてくれたものだったのかもしれません。たまたま入った百貨店でバーゲンセールをしていて安いから購入しただけのものかもしれません。
「相手の有している価値観や状況に合わせた」気の配り方、という定義なんだと思います。
じゃあ、この香水等にこんなことがあったらどうしましょう。
もし、私がその匂いをする人に過去にいじめられた経験があれば?
もし、私がその匂いをする人に過去にフラれた経験があれば?
あれれ、香水等使っている人の「配慮」が私に対して足りないことになりませんか?
そりゃそうですね。
だって他人は私の人生なんて知らないのだから。
私は配慮というのは、各々で出来る範囲が違うのだと考えています。
それは年齢、性別、社会経験によって、各々のイメージできる能力に差があること。さらにそのイメージができたとしても、その配慮をするのに努力がいるかもしれない。
だからこそ、自分のできるとこまでをして、そこから先は言葉にして話あって妥協点を探す。
この妥協点を探すという態度も「配慮」の一要素だと思うのです。
法律風に言えば、まず心を配るのは日本では重要視されるので、他人に請求できる請求権に近いかもしれません。
しかし各々の配慮は大きなばらつきがあるので、それで不十分な時もある。
そこで話し合って妥協点を探すのが、もう1つの配慮と思います。
友人さんの寛容ともつながるのですが、今回問題になったのは、匂いに疑問を持つことを表明したのが私1人だったからですね。
(目の前に座っている「バカ、アホ」発言の方も、香水等の匂いがしてくると、パタパタと仰いでいます。言葉にしないだけで本当は2人なのかな!?)
配慮はそもそも何のためにするのか?と言えば、それは周囲と上手くやるためですよね。しかし私は周囲の一部ではあるけども、匂いに疑問を持つのは私1人でしかなかったために、「配慮の対象となる周囲」の定義に入らなかったんでしょう。
でもそれでいいんですかね?
配慮をすべき対象ってのは多数決で決まるんでしょうか。
友人さんのいった寛容、日本人のグループメンタリティーの素晴らしいところって、多数派に合わせることでなくて、「少数であろうが異質なものも受け入れる」ってことだと思うのです。
もしかすると私が気づいてないだけで論理矛盾しているのかもしれないですけど、(だからその時は教えてほしいです)私がずっと感じている普通の人々の配慮っていうのは「多数派の顔を伺う」でしかない気がするんですね。
またコメント、どしどし待ってます。
ただ、今回の私の反省点としては、私が「不快です」と言えば、それで相手も納得すると思っていたという想像力不足ですね。じゃあなぜ想像力が足りないのかというのは、次回に書きたいと思います。それは私が医師から指摘された「発達障害」に関係するかもしれません。匂いに敏感なのも、もしかすると・・・。