わいるどぴっぐの猪突猛進

いつも疑問に思うことを書いていきます。

自分を活かすことと、自信を得ることの関係とは その2

2019-03-18 17:48:17 | 日記
こんにちは、ぴっぐです。
ぴっぐは今の時期が、実は一番嫌いです。この1週間で春に変わっていきます。
空気が暖かくなり、世間も変わっていきます。
学校や会社では、入社は決まって4月のことが多い。
時期によって物事が進むという仕組みを採用しているので、季節の変化があっても、自分が変化や成長していないことに虚無感を覚えるからだと思います。

結局それは前回書いた目的志向と似ていて、
目標を実現した自分=良い自分
実現してない自分=悪い自分  という捉え方をしているんだと思います。

西田さんが書いた「結果を出すまで続けられる人のしくみ」p.31-34にはこうあります。
よくビジネス書などで、「数値を入れない目標は実現できない」という言論を聞く。…でも本質はそこではない。
「よし早く起きてがんばるぞ」「ちょっとのカフェで一服はやめておこうかな」
うんうん、いい傾向だ。でもそう考えられるのは、目標を決めて行動し始めた当初だけではないだろうか。
   (略)
続けられない目標は、間違っている。
行動し続けられないのは、その行動に「強制」のニオイを感じるからだ。
「1時間早く起きなきゃ」「50万円節約しなきゃ」という自分への強制は、いつしかしんどくなってくる。数値が入れば、さらにその義務感が増す。
続けられる目標とは、ずっと強制感を持たずに自分を行動させられる目標だ。
   (略)
数値目標でワクワクする、楽しくなる人ももちろんいる。ただ、目標に数字を入れただけでワクワクできる人間というのは全体の5%ぐらいしかいない。
例えば、会社だったら「20%成長」、営業なら「300億円突破」などを目標数値として掲げるけれど、それでワクワクできるのは経営者だけだったり、営業部長だけだったりするわけだ。圧倒的多数の人間は、数値ではワクワクしない。

ここで西田さんが言っているのは、数値化したからやる気になるわけではないということです。そして「やろう」という意思はやがて「やるべき」という義務感にかわり、続かなくなることを指摘しています。つまり理論上正しいとされることが割り出されたとしても、それを義務感により「作業」として続けているため、よほど欲望の強い人でない限り、続かないと言っています。

そしてこう続けます(p.35-39)
 あなたの楽しいことは何ですか?
「買い物する」「プハーっと1杯」…
「では」―正しいことと、楽しいこと。どちらをやりたいですか?
そう聞くと間違いなく後者だと、みなが答える。
そりゃそうだよね。楽しいんだから。
やっちゃダメって言われても、いくらでも続けてしまう。
つまり、楽しいことは、頑張ろうと思わなくても、普通に続けられる。
   (略)
もう一度整理しよう。
数値、文字だけの目標ではワクワクしない。
楽しいことなら続けられる。
それなら、楽しくてつい続けてしまう目標にすればいいじゃないか、という単純な結論に達するだろう。
「ジョギングを続ける」じゃなくて、「ジョギングを続けて、ギリシャ彫刻風の肉体美になり、ビーチでみなの視線を釘付け」
「イタリア語をものにする」じゃなくて、「イタリア語ぺらぺらになって、イタリア男に口説かれる」

西田さんが言っていることは、「実現すること」を考えるのでなくて、実現することで「得られるワクワク」を考えよということに思います。つまりワクワクすることを想像すると、「ワクワクするもの」を「得るため」に勝手に努力を積み重ねる動機が生まれやすいということです。
 
ではワクワクするとは、なんでしょうか。
私は以下のように分析します。

【自分で選択したか、命令等でやらされているか】
 
自分で選択した時は、好き好きでしょうがないので選択したこともあれば、消去法で選択したこともあります。いずれにしろ、例えばABという選択肢のうちで、「何かしら」Aが良いと思って選択しているはずです。
その「何かしら」を自分の中に問いかけることではないでしょうか。

例えば、私はトレーニングをします。プロレスラーと間違われることもあります。しかしトレーニングして体は大きくなるものの、なかなか痩せません。それに翌日は筋肉痛で眠いし、トレーニング自体も疲れます。そう思うと、トレーニングはいつも億劫です。しかしながら、そのトレーニングを選択したのは、私です。
トレーニング「する(A)、しない(B)」から、「する(A)」を選んだ。
その理由は、
① トレーニングを通して、自分が一生懸命やっているか確認すること
② 痩せてモテモテになること
簡単に言えば、こうなります。

したがって、このような選択の決め手となった動機を想像することではないでしょうか。
逆に言うと、その動機が自分の中でワクワクしないものだったら、選択として誤っているとも思うわけです。

それでは私にとってワクワクすることとは何でしょうか。
ずばり、議論をしたり、公平性を考えたりすることだと思います。

私は物分かりが悪い。そして矛盾に気づきやすい。
そこで人よりも理解に時間がかかり、小学生の頃には授業時間ですべてが終わらないということはしょっちゅうでした。さらに言えば、運動も苦手で足は遅いですし、フライも取れずに眼鏡にあてました。

私は学童保育に6年いました。小学1年生と6年生は、天と地ほどの差があります。しかしそこで6年生のペースで物事を進ませれば、学童保育は崩壊します。
狭い庭しかない中で、1つの遊びしかできません。そこでは皆を調整してドッチボールをしたり、缶蹴りをしたりする必要があります。力のある者が存分に力を発揮して独り勝ちする仕組みというよりは、ハンデをつけて調整することで楽しい時間を作ることになります。

だから議論をして、策を作っていくことは好きでした。
誰か1人の立場に立ち、その人の利益を最大化することではなく、公平を考えて議論していくのが好きなのです。そこで私は警察官や政治家になることに、憧れていました。
警察官や政治家は、「公平」のためにあると思っていたからです。

しかし高校で生徒会長になったあたりから、迷いが出てきました。人々は利己的に動くからです。男子校高校生ならば、どうやってかわいい彼女をゲットしてセックスするかでしょう。そしてできるだけ勉強しないで、テストの点を取るか。もっと言えば、大学受験を突破するかでしょうか。高校の歴史が100年あって、今後どうするかとかどうでもいいのです。
つまり自分の利益(居心地の良さ、金銭、異性、学歴)を求め最大化することです。 

司法試験に落ちたあと、とある会社に入社してもっと実感するようになりました。経営者の基準があり、その経営者の基準に合わせて、下は動く。
もし経営者が「問題があると怒る」タイプであれば、「①問題を起さない②問題があるけど見えないように隠す」という方法のうち、部下は一番安上がりな方法を取るだけです。それは往々にして②です。
ではどうしてそのようなことが生じるかと言えば、目先の利益を取る理由があるからだと思います。企業は目先の利益を取らないとつぶれることがあり、それゆえに目先の利益にこだわってしまうことです。
そしてもし50代会社役員さんがかつて言ったように、「モノが売れる=社会に貢献している」という論理が成立しているならば、会社の内部を変えていくことこそが、社会への貢献と感じ始めています。
まずこれが、私がワクワクすることの1つです。

次に、目先の利益にこだわらなくていい(ように思える)行政はどうでしょうか。
なぜ「思える」かと言えば、行政は税金を強制徴収しています。いきなり市民の9割が引っ越したということもほぼないかと思います。
しかし例えば、行政の指示を出す国会を見てどうでしょうか。国会審議が短時間で終わったり、意味のない野党の攻めをしたり、意味があるとは思えません。質問も論理的でなかったり、助長なことが多い。私はその理由は、裁判所が判断をしないからだと思っています。
田中耕太郎という最高裁裁判長が出した統治行為論(砂川事件、苫米地事件)によって、国会など政治の世界に裁判所が判断を下すことはなくなりました。したがって、仮に国会審議が2分で終わっても、裁判所が「そのやり方はいくらなんでもひどいんじゃないの」と思っても、判断することはほぼないと思います。
つまり自浄作用が必要なのです。

あなたが投票にいかなくても、税金は確実に徴収されます。消費税もあがります。投票を得るために子どもの医療費だけ無料になったりします。
個人ができる対策は、あなたが金持ちになることです。あなたが金持ちになれば、社会がどうであろうと関係ありません。いわゆる一人勝ちする方法だけを考えればいいと思います。
とりあえず、テストではバレないようして点を取って下さい。学ぶ内容に意味はありません。テストであることに意味があります。
上司には良い顔をしてください。仕事に意味はありません。上司や経営者が仕事としているから、意味があるだけです。起業した方が金持ちになる可能性があります。(失敗する可能性も高いですが)

そんなことを考えている時に、こんな本に会いました。
「福岡市を経営する」 (高島宗一郎)p.211-212
高島さんは福岡市市長です。
元々、政治家になりたかったそうですが、まず知名度をあげるためにアナウンサーになったそうです。
通常、企業が活動を行ううえでは、行政は「邪魔をしなければいい」が基本でしょう。しかし、スタートアップに関してはそうではありません。スタートアップの生み出す新しい製品やビジネスモデルは、今の法律や規制が作られたときに想定されていなかったものがたくさんあります。
   (略)
すごい機能の車を作っても、法律のせいで公道を走れなければ、売ることができません。スマホに関するすごいアイデアがあったとしても、法律でそのような電波をだしてはならないとなれば、前に進めないでしょう。
「このサービスで社会をよくするんだ」とどれだけ訴えも、社会で実装できるように法や規制を緩和する道筋をつけないかぎり、何一つ動かないのです。
「わが社は政治と距離をとっています」とか「情熱と熱意があれば社会は変わる」などと言う起業家もいますが、政治はビジネスとは違い、法や規制は自動的に非合理的なものが淘汰されて、より合理的なほうに収斂していくわけではありません。
新しいビジネスを生み出すのは起業ですが、社会がそれを受けいれるかどうかを規定するのは政治なのです。法や規制を緩和させるためには、行政と主張、議会の力学、さらに官僚、政治家の行動原理を理解する必要があるのです。

高島さんは起業に限定して話をしています。その中で「ビジネスとは違い、法や規制は自動的に非合理的なものが淘汰されて、より合理的なほうに収斂していくわけではありません」という部分が肝です。
売れなくなった(=買わなくなった)からそのサービスがなくなったという構図が、法にはないということです。たしかに軽犯罪法などで日常に使われない法律はありますが、それは警察や検察が使って起訴しなくなっただけで、私達が「使わない」としたからではありません。

ここまでの話をまとめると、
何か規制があったとする→ほっといて変わるものではない。
何か必要なことが議会で恣意的に決められたとする→裁判所は介入しない→変わるものではない。 という流れになります。

ここで私は疑問を持ったわけです。
議会で当たり前のことを、当たり前にする。そして議論をする。
これが私のワクワクするもう1つに思います。

自分を活かすことと、自信を得ることの関係とは その1

2019-03-18 12:58:58 | 日記
こんにちは。ぴっぐです。
この数か月で行き着いたことは、自分を活かそうとすることが、結局は自分にとって精神的安定につながるということです。
結論は、自分の価値観に気づき、その基準から判断することです。

発達障害について調べるうちに、こんな記事に出くわしました。
発達障害の私が会社生活で苦しんだ10のこと
そんな私だが、会社を辞めた後の私は、1年のひきこもりの末、うつ病からはい上がって起業し、事業をなんとか軌道に乗せることができた。
 私自身は発達障害の特徴である「集中すると物事がまったく聞こえなくなるほどの過集中」「白黒はっきりつけないと気が済まない」といった特徴が、起業家として活きたのだと思う。
発達障害の若者は決して「使えない」のではなく、「使い方が難しい」だけなのだと証明できた気がしている。


この文章から安田さんの本を読んでみるとこんなことが書いてありました。
「暗闇でも走る」 (安田祐輔)(p.120-128)
(バングラデシュの売春街をNGOに案内してもらっている時のことである)
「あそこで働く娼婦には3つのタイプがある。1つは、お金がなくて働きにきた女性たち。もう1つはあそこで生まれ12歳になるとそのまま娼婦になる女性たち。そして最後は、親戚や知人に騙されて売られてくる女性たちだ。」
…その後仕事を重ねていくうちに、その境遇、環境にも慣らされていく。

「実際にあの街から出たがっていた女性を支援したこともあるが、娼婦よりも収入のよい仕事を紹介することも、その後に一般社会に適応させることも難しいことなんだ」
若くて奇麗な女性ならば、普通のバングラデシュ人の10倍以上稼ぐことが可能だという。そのような女性がたとえ娼婦街から逃げ出せたとしても、その後に稼げる額に満足することも難しい。
   (略)
 夜はしょっちゅう停電になるけれども、そんな時は外に出て星空の下で他愛もない話をする。
「星がきれいだろ?」
彼らは僕にいつも言っていた。
電気がない分だけ星がきれいだった。
そんな毎日が続く。テレビもない、冷蔵庫もない、冷房もない。
でもそんな生活を美しいと思った。おそらくそれは「先進国」の人間のノスタルジーではなかった。
なぜなら、多くのバングラデシュ人たちもその生活を「美しい」と表現していたからだ。
「最貧国」バングラデシュが抱える問題は、衛星・医療・教育など多々あるものの、「餓死する」というほどではなかった。貧しくても、幸せそうに生きている人々が沢山いる。
人は「他者と比べる」ことで、不幸を認識するのかもしれない。
例えば、周りにテレビを持つ家庭がなければ、自分がテレビを持っていなくても、不幸を感じない。
「幸福」は他者との比較では生まれないかもしれないが、「不幸」は他者との比較の中で生まれてしまう。
先進国から見たら「遅れている」はずのバングラデシュの農村の幸福そうな人々、一方で極貧の農村にいるよりは所得があるのに孤独に苦しむバングラデシュの娼婦たち。
「人間はどんなに貧しくても、「お金や暮らし向き」によってではなく、「尊厳」のようなものによって生きている」
バングラデシュで過ごすにつれ、僕はそう思うようになった。

この「暗闇でも走る」は、 「裸でも生きる」をオマージュしているのだと思います。安田さんは大学生時代にマザーハウスでインターンをしています。そしてマザーハウス代表の山口さんは、「裸でも生きる」という本を書いているからです。

安田さんは、「比較」によって自分が他人に劣ると感じる機会が増え、「尊厳」がなくなると書いています。
そして僕はここをもう一歩突き進めて、「自分の価値が定まっていない」と「比較」によって目先の相違に「優劣」をつけ、その結果として「劣等感」を覚え「自信」を失うと思うのです。その理由は以下の記事が影響しています。

「苦しい努力は報われない努力」(西田一見)
西田さんはメンタルトレーナーと書いてあります。プロ野球選手が実名で掲載されていますから、名のあるトレーナーかもしれません。
今、一生懸命努力していませんか?
もし、皆さんが一生懸命に努力をしているのなら、そんな努力は今すぐやめるほうが賢明でしょう。
なぜなら、一生懸命に努力をしている人のその努力はほとんど報われないからなのです。

そう言うと努力なんてしないほうがいいと思い、 何もしなくなる人がいるかもしれませんが、 何もしなくていいと言っているわけではありません。
ただ、努力には『良い努力』と『悪い努力』があり、 一生懸命の努力、これは成功出来ない『悪い努力』であるため、こんな努力はやめた方が良いのです。

一生懸命に努力をしている『悪い努力』を積み重ねている人の特徴は
・努力がなかなか報われない
・努力がすごく苦しいものである
・自分一人で何とかしようとする
・周りが見えずに余裕がない
・一生懸命が空回りしている
・なぜかいつも努力をしている

こんな人ほど「自分は人より努力している」とか「こんなに努力しているのに」とか努力は苦しいものである ということを人に訴え、自分の努力をなんとか美化しようとします。
実は努力というものは苦しいものでも一生懸命にやるものでもなく、ましてや人にアピールするものでもないのです。

成功者の『良い努力』とは何か、それは夢や目標にチャレンジするという努力です。

チャレンジしている人間は一生懸命に努力をしている人間と違い、 苦しくもなければ辛いこともありません。
電球を発明した発明王エジソンは一日わずか三時間程度の睡眠で毎日休む暇もなく研究を重ね、電球のフィラメントを発明する までにいたるのですが、エジソンが後に、私は今まで仕事を したことがないと言うほど努力とは無縁の人なのです。
 はたから見れば一生懸命に努力をして研究を続けたのだろうと思うのでしょうが、研究はエジソンにとって仕事でもなければ一生懸命の努力でもないのです。
エジソンにとって研究とは夢にチャレンジする『良い努力』であり、皆さんが大好きな人とデートをする時の気持ちや大好きな趣味に何時間も時間をつぎ込んでいるのと同じなのです。
エジソンのような『良い努力』とは実は私たちの持つ一生懸命や苦しいというイメージのある否定的な努力ではなく、チャレンジすることで、非常に楽しいものなのです。
このチャレンジする気持が生み出す『良い努力』とは努力であって努力ではないのです。

あなたがもし「自分はこんなに努力をしている」 「今、一生懸命に努力をしていて苦しい」と感じているのならその努力をすぐにでもやめるべきです。
なぜならそれはどれだけ頑張っても報われない『悪い努力』なのですから。

 ここでのキーは、「実は努力というものは苦しいものでも一生懸命にやるものでもなく」という部分です。西田さんは「努力は苦しくない」という前提を取っています。
 しかし私はずっと「努力は苦しい」と思っていました。そこで努力は苦しいものという発想の理由を分析します。

① 目標(自分の目標や他人と比較した上での優劣)を立てる。
② 目標まで通い。
③ 分析、計画を立て、努力をする。
④ しかし目標が実現できない。
⑤ もっと努力の量が必要か、質を変えなくてはと頑張る。
⑥ だんだん辛くなる。
⑦ しかし努力を重ねないことには目標には目標に近づかないので、「我慢」して努力をする。
⑧ 努力を「我慢」して継続しているのだから、うまくいく「はず」である。

⑦から⑧にかけて論理の飛躍が起きています。
努力すれば(A)、目標が実現できるかもしれない(B)
(目標が実現した(B)→努力した(A)、という必要条件)
努力(A)は、我慢する必要がある(C)
(努力(A)=我慢する必要がある(C)という必要十分条件)
我慢すれば(C)、実現する(D)
(我慢(C)=実現(D)という必要十分条件)
そこで、
 努力(A)は、我慢する必要がある(C)=実現する(D)
 我慢すれば(C)=実現する(D) という発想になっているのです。

つまり、
 努力すれば、目標が実現できるかしれない との最初の命題に対して、
・努力は我慢するものである。
・我慢したものは実現する
「だから、我慢していれば実現する」と思い込んでいるのです。
あとは忍耐力と欲望のせめぎあいになります。
しかし多くの場面で忍耐力は勝りませんから、目標は実現できずに朽ちていくわけです。

安田さん
人は「他者と比べる」ことで、不幸を認識するのかもしれない。
例えば、周りにテレビを持つ家庭がなければ、自分がテレビを持っていなくても、不幸を感じない。
「幸福」は他者との比較では生まれないかもしれないが、「不幸」は他者との比較の中で生まれてしまう。

西田さん
一生懸命に努力をしている『悪い努力』を積み重ねている人の特徴は
・努力がなかなか報われない
・努力がすごく苦しいものである
「自分は人より努力している」とか「こんなに努力しているのに」とか努力は苦しいものであるということを人に訴え…

安田さんは他人と「比較」して、西田さんは目標と「比較」しています。そして比較した結果、至らないものを「劣る」と評価して、自分を否定することになると書いています。
ではもう1つのキーである、「チャレンジすることで、非常に楽しいもの」とはどういうことでしょうか。これも私はしばらくわかりませんでしたが、ヒントになる本に会いました。

「『自己肯定感』が低いあなたがすぐ変わる方法」(大嶋信頼)(p.2-6)
大嶋さんはカウンセラーだそうです。
そもそも自己肯定感って、「自分で自分のことをOKだ」とか「自分って結構いいよね」なんて思えること。自分自身で自分のことをちゃんと認めてあげればあげるほど「自己肯定感が高い人」となるのだけど、「そんなことをしちゃったら向上心がなくなっちゃうでしょ」と思ったり…
   (略)
 アメリカで勉強をしていた時も、たしかに「私は自信があいません」とか「ちっとも勉強ができないです」と言っている私に比べて、周りの連中は「どうだ、俺ってすごいだろう」とちょっとできたことを100倍ぐらいに誇張して話をするものだから、…心の中では「絶対に自己肯定感が低いほうが耐え忍んで努力をしているから、いつかはこいつらよりも優秀になれずはず」と思っていました。
「今はダメだけど、いつか見ていろ、俺だって」と自己肯定感が低いまま、耐え忍びながらやってきました。
 いつも「自分はダメだ」と、何をやっても自分を肯定できなくて「なんとかしなきゃ」と悔し涙を流しながら努力し続けてきました。自分がダメなりに努力をしていれば、自己肯定感が低いままでも、いつか誰かに認めてもらって、自分自身でも「これでいいのだ」と思える日が来る、とずっと信じていました。
 自己肯定感が低いまま、鍛え続けていれば、いつか人からも自分自身からも認められる人間に変わるのだろう、とずっと信じていたのですが、実際には「あれ、いつまでたっても自分のことが好きになれないぞ」となってしまいます。

 大嶋さんは、「今がダメでも、努力すれば何とかなる」と思っている限り、精神的な改善は見られないと言っています。
仮に今は10点で目標を100点とする。そうすると80点の時は肯定できないのはもちろんのこと、100点になっても次は200点と比較をするようになり、やはり自分を肯定できなくなるということになります。

敢えてわかりやすいように数値化すると、
今 10点
目標80点
 そして目標に到達していない自分=ダメ、劣る、という評価をする限り、目標の到達の有無にかかわらず自己肯定感は生まれないということになります。逆に言えば向上心が高い人ほど目標はどんどん上げますので、いつまでたっても肯定できないという論理になります。

私はこの論理に納得しています。
『自分自身で自分のことをちゃんと認めてあげればあげるほど「自己肯定感が高い人」となるのだけど、「そんなことをしちゃったら向上心がなくなっちゃうでしょ」』という記述は、
目標=良いこと、
それに到達してない自分=悪いこと

 そういう前提や価値を取ることで、「悪い自分を変える」というモチベーションにしているわけです。そのため、自分をほめてしまうと、
目標=良いこと
それに到達していない自分=やっぱり良い自分 となり、

「悪い自分を変える」という論理が使えなくなります。私もこの発想をずっと取っていました。したがって、「自分を否定」することでしか、努力ができなくなっていたのです。
 そして自分を否定していますから、現実に高い能力があったとしても、自分に対する評価は低いままです。

 それでは自分を肯定しつつ努力をするには、どのようなメカニズムをとるのでしょうか。
大嶋さんはこう言います(p.21-22)
自己肯定感が高いといって思い出すのは、学生時代にアルバイトをしていたときに出会った人です。…間違ったことを言っても、「自分はダメだ」と落ち込む素振りもありません。
「なるほど、そういえばいいのね!」と自分を責めずに修正して、「ほら、すぐに学習できちゃった」と学習できた自分をさらに「すごい」と肯定できちゃうのです。


ここのポイントは、できなかった(事実)に対して、
できなかった→やっぱりだめだ
できなかった→やり方を教えてもらえてできるようになった という評価の違いです。

大事なことは、自分の今の状態を認めることに思います。
10点だからダメで100点なら良いというような、一定の指標に基づく評価ではないのです。
デキようがデキまいが、自分を認めることです。そのためには自分の価値を大事にすることです。
 先進国と漢字で書くけども、科学的に経済的に「先に進む」ことは、自分の価値観から見てどうなのか。テストで10点だけども、それは自分の中で重視する価値観なのか。もし自分価値観、特性にあってないものであれば、そこから離れるという選択肢も生まれてきます。
 もっと言えば、自分を肯定しやすい分野やフィールドを探すということになります。そうすることで、「今もダメ」という感覚をなくすことに近づきます。

じゃあ、努力の継続の仕方はどうするのか。
それは次回に書きます。