こんにちは、ぴっぐです。
昨日、図書館で叫んでいる年配のおじさんがいました。叔父さんの言い分としては閉館間近で善意でノートパソコン電源を切って蓋を閉じたようです。しかし図書館としては勝手に電源を切られ、フタは閉じない運用なので困ったようです。そこで図書館から何か一言あったようですが、おじさんは善意を蔑ろにされたと思いブチギレたようです。なぜそこまで私にわかるかといえば、見かねた私がおじさんに話しかけ、おじさんの話を聞いたからです。おじさんは自らを善良な市民といい、司書をいじめてるわけでもないといい、私のような第三者がはいってくれることで中立的に見てくれる人がいて良かったと言いました。
おじさんが「私の味方がいてよかった」とはいわなかったところがポイントで、中立云々というので、普段は理性的な人なんだろうことを伺えます。しかしそんなおじさんが司書の上司に大声で怒鳴り続けるのをみると、おじさんは違法行為に近づいてることを認識できなくなっています。そんなおじさんは生きづらさを抱えているようで、何か私を見ているようでした。
私はおじさんの話を全部聞くと同時に、現場の人になにかいっても組織的改善は難しいので、市長、館長、部長などしかるべき人に意見書を書き、今度時間をとってもらうのはどうかとの提案をしました。
そうやって揉め事を解決した時に非常にやりがいを覚えました。同時に、私のやり方を突き詰めると、おじさんのように「正義を振りかざして無下の弱い人をいたぶるにすぎないことになるのか」という思いもあります。難しい選択を私は迫られているなと感じます。
おかしいことはおかしいと声を大にして叫ぶマインドがあると、世間は烏合の衆と思いつつあり、他人に対して排他的です。本当はそのような排他性はよくないのですが、多数派が変わらない限りは、多数派に主張し続けるしかないのかもと思います。ただその主張が違法であると取り締まられるだけで、違法でなければ裁判等で覆える可能性がある。鋼のマインドを持つことは、思いやりを捨てるということかなと思う面も残念ながらあるからです。
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