身近な発見と出会いのブログ

普段見慣れている風景や身近な出来事などを話題にみなさんとご一緒に散歩しましょう。写真はクリックすると拡大表示します。

小田原庭園巡りウォーキング

2017年01月27日 | Weblog
小田原は明治にはいると、全国でも有数の保養地として注目されるようになりました。
まず明治20年代には海岸保養施設が数多く造られたほか、時の首相・伊藤博文などの有力者が西海子(さいかち)
などの海辺に別荘をかまえるようになりました。

ついで明治30年代になると、明治34年(1901年)に元の小田原城が御用邸として整備されたのをはじめ、
皇族の閑院宮家、元首相の山縣有朋、三井財閥を支えた益田孝が小田原に別邸を設けたため、
これらの人々とゆかりの深い要人たちが次々と別邸・別荘をかまえました。
そのうちの一人、山下汽船(現・商船三井)創業者の山下亀三郎別邸では、「坂の上の雲」の主人公として知られる
秋山真之が療養中にその生涯を終えています。
とりわけ山縣や益田のもとには、日本を代表する茶人たちが集い、小田原は「茶の湯総本山」といわれたほどです。
この時期の別邸・別荘は「天神山」や「板橋」といった箱根から続く尾根の斜面に拡がったのが特徴です。

さらに戦後の小田原の邸園を代表するのが電力業界の基礎を築いた松永安左ヱ門の邸宅・老欅荘です。
松永は戦前、益田孝から茶の手ほどきを受け、益田が亡くなった後も長く小田原で過ごしました。
益田と松永は近代日本三茶人と呼ばれ、三茶人のうち二人までが小田原を拠点にしていました。

今回は、こうした小田原の邸園を巡りました。
散策ウォーキングコースの概要は次のとおりです。

藤棚臨時駐車場➡清閑亭➡三の丸廓➡西照院➡板橋見附➡大久寺➡人車鉄道・軽便鉄道 小田原駅跡➡小田原文学館➡滄浪閣跡
➡正恩寺鐘楼門➡山角天神社➡駐車場
約12000歩 距離約4,5km

小田原短期大学前から小田原城天守を望む

 

人車鉄道・軽便鉄道小田原駅跡 今は歩道の脇に小さく碑が建つのみである

 

小田原文学館 西海子小路を西方向に100mほど進んだ左手が、田中光顕の別邸で、
その敷地内に「小田原文学館」「北原白秋童謡館」「尾崎一雄の書斎」があります。

 

滄浪閣跡 
滄浪閣は、伊藤博文の別邸として明治23年(1890年)に完成しました。
伊藤博文は明治26年(1893年)民法改正に着手し、起草委員に選ばれた3名の法学博士は
滄浪閣の一室に閉じこもって民法原案の立案執筆を行ったことからこの場所は「民法発祥の地」と呼ばれています。
小田原に来る途中の車窓から眺めた大磯の松林が気に入った伊藤博文は、明治30年に滄浪閣の名前ととともに大磯に移ります。
滄浪閣は養生館という旅館として再開発されますが、関東大震災で壊滅します。
現在は跡地に、伊藤博文の胸像と滄浪閣跡の碑が建っています。

 

 

正恩寺は真宗大谷派東本願寺の末寺です。
入口の鐘楼門は小田原市指定文化財です。
近年、吉川英治の先祖(小田原藩士)の墓が寺内墓地から発見されたとのことです。

 

 

山角天神社 
山角天神社は、地元の人々から「天神さん」と親しまれており、祭神は菅原道真です。
山角天神社の創建年代は古くて不明です。
ご神体は木造で、裏に「永禄4年極月吉日」と刻まれているとのことです。
山角天神社には、北条氏康が奉納したという「菅原道真画像」があります。

境内には芭蕉句碑や瓜生海軍大将の像があります。
瓜生外吉は、アナポリス海軍兵学校を卒業し、日露戦争(1904年~1905年)の仁川沖、蔚山沖、
日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
ここから西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、小田原の生活をこよなく愛したとのことです。

 

 

一号線沿いにある「ういろう店」

 

ウォーキングの締めは再び小田原城天守閣を望む

 
コメント
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