moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

回転すしの角席てダメポ

2006-12-18 | エッセー(雑文)
たまに回転すしを食いに行くが、
一人で行くため、混んでいると、たいてい
角席に案内される。

そうなると、とても食欲が急減する。
4~5枚食べただけで、次の皿をとる気が失せ
会計して帰る昨今。

なぜなんだろう? まだ腹が膨れている訳でもないのに

これは私にとって、アクションRPGと同じ理由なのかもしれない(笑
つまり、ゲーム進行するためのアクションが苦手なため
いかに「ファイナルファンタジー」のような名作でも
購入意欲が失われるのと同じということだ。

回転すしの角席は、思ったより皿が取りにくい。
それも、右手で取り難い仕組みになっている。

目の前に来る直前あたりで、速攻に取りにいかないと
出遅れ前後の皿に阻まれ、とり難く、その面倒くささといったら
嫌になってしまうのである。
さらに不快なのが後ろを通る客が背中をかすりながら
通過していくことが多いこと、特に冬場は着膨れているので最悪である。
回転すしでは、思った以上に『感覚』が研ぎ澄まされていて
特に味覚を阻むような『ノイズ』が多いと、その食欲は失われる。

反射神経の鋭い学生や図太い神経の持ち主なら気にならないだろうが、
繊細な感覚な持ち主は、100%不快になるのではないだろうか

回転すしの経営者は、その点を考慮して、角席は無くしたほうが
いいと思うが、経営効率優先でギュウギュウ詰めの席で客の回転効率を
上げることばかりに、躍起になっているんだろうなぁ
ましてこの時期は・・・。

しかし、客側にしてみれば、角席で不愉快な感覚で飯が食える訳もなく、
立ち食い蕎麦のほうが数段ましと思うのである。 

チンギス・ハーンの番組を見た印象

2006-11-18 | エッセー(雑文)
チンギス・ハーンを英雄視する傾向が
現モンゴルで、盛り上がっているのか
たぶんモンゴルのTV局が制作したと思われるドラマを
挿入しながら、語られたそれらしき歴史観。
なかなか面白かったが、旧ソ連に組み込まれていたときの
モンゴル自治体の話のほうが興味津々。
しかし、ほとんど、その点は踏み込んで説明されていなく、
なおかつ、チンギス・ハーンからフビライに継承され
中国文化に侵食された元帝国についても何も語れなかった。

歴史的に一番重要な点に触れず、情報ネットワークを
いち早くきずいた偉大な人物というところばかり強調していたが、
それは、チンギス・ハーンの専売特許ではない。
狼煙もすでに、アレキサンダー王の侵略戦でも使用されていた
という報告もあるし、駅伝のシステムも存在していたらしい。
(日本の壬申の乱の時代においてさえ、巧妙なスパイ合戦、
張り巡らされた情報網を駆使して戦われていた。)
戦争は戦略を整えることで、実際に戦う前に決着がついている
といわれるほどの情報戦なわけであり、常勝不敗の英雄は
ほとんど、情報を戦争の重要なファクターとし、
生物である情報を、いち早く選択できることを可能とする
システムに多大な人力・費用をかけている。
さらに、戦争の本質が侵略であり、なぜ侵略という行為に
駆り立てられなければならなかったという考察もなかったのは
残念であった。
同盟・契約によって成立した国家は、その契約に見合った報酬を
与えなくては維持できないというルールに縛られる。
そのため、自国の生産性によって供給できない場合、
侵略、略奪という手段に及ばざるを得ないという歴史が
展開していたわけであり、その積み重ね中に現在の
社会体制があるのであって、
チンギス・ハーン、フビライの言葉も、倫理的な「人との融和」
ということではなく、
政治的な意味合いでは人臣(人心)掌握術というものと考えたほうが
自然だろう。

結局、ユビキタス社会というイメージを、より身近に感じて
もらうためのプロパガンダ的にまとめているのがあざとらしく、
格差社会化し、その反映ともいえる子供のイジメ問題を
突きつけられている現状には(ネットイジメも考慮するなら)、
ユビキタス社会が人に優しい便利な社会に直結するとは
限らず、安直な姿勢に、無理があると思わざる得なかった。 

過熱するイジメ

2006-11-14 | エッセー(雑文)
「いじめ隠し」謝罪の翌日、小学校長が自殺 北九州(朝日新聞) - goo ニュース

最近の報道のネーミングセンスは何でもイジメとつけたがるが
小学5年生の女児が6年生の女児から『2万円を渡すように』たかられていた
事件をイジメとすることに問題があると思われる。

「あいまいなイジメ」という概念に犯罪行為を含めるような報道の姿勢は
ある意味「金銭のたかり、ゆすり」さえ道徳的に低俗なことであり、
犯罪スレスレの行為であると錯覚させてしまう。
それでなくても、犯罪スレスレの行為でお金をもうけ、勝ち組になりさえすれば
世の中を牛耳れるという幻想が青少年に蔓延しているというのに・・・。

人を貶める行為としてのイジメと、犯罪を行なった児童をかばうのではなく、
イジメと犯罪を明確に区別し、早急に警察、教育関係者の連携、
情報交換機関をもうけ、ガイドラインを示す必要があるのではないだろうか。
特に小中学校の児童には、厳格に指導すべきだろう。
犯罪行為を行ったもので反省なきものは、鑑別所という措置もやむをえない
事態まできているのではないだろうか。

村落社会であったころは、児童のゆすり、たかりなどの犯罪行為は、
まず親が徹底的に罰し、正したものだが、そうしなければ村八分というような
制裁がまっていたわけなのだが、隣人との希薄な地域住民になりさがった
市民では、その親の子供とのかかわりは、その当人さえ不透明であり、
最低限の役割分担によって、子供と関わっているに過ぎない。
そして、今回の校長の自殺という事件は、役割分担的な責任追及における
スケープゴートいえるのではないだろうか。

ネット上における無責任な児童の中傷記事にたいする対策は、
地域住民の義務として、ネット喫茶経営者に、児童がネット喫茶を利用する場合、
児童は会員登録をしなくては利用できなくさせる。
何時何分にいかなるサイトに繫がっていたかという
記録を管理できるようなシステムを導入するよう協力をあおぐ。
既に一部のネット喫茶で導入しているようであるが、
そのシステムを18歳くらいまでの未成年に適応させるべきだろう。
さらに児童のイジメと思われる記事には、早急に削除する
掲示板管理者の義務化を徹底化する必要があるかもしれない。

他者のまなざしを感じることが出来ない児童は、ある意味不幸であり、
将来、社会的に無法者という烙印を押されかねない。
他者のまなざしを内在化させることは、大人社会の責任ではないだろうか。
・・・と思ってみた。 





ナンパと買春は紙一重・・・

2006-11-13 | エッセー(雑文)
「ナンパの神様」ら3人、女子中学生買春で逮捕(読売新聞) - goo ニュース

前回多少、ナンパを擁護したようなニュアンスにうけとられるような
記事を書いたので、ちょっと反省したが・・・。

石川恭一郎(29)、鳥山翔(23)、男子大学生(18)の3人が
女子中学生をナンパし、その証拠として、ポルノ画像を撮影したということらしい
のだが、それはナンパといえるのだろうか?
むしろ、性的な判断力のない女子中学生の無知につけこんだ「ハンティング」と
いうべきものではないだろうか。
それは、力を誇示する愚か者の行為であり、ある種の「レイプ」と同じ構造といえる。

29にもなる男性が3人がかり?で、13、14の少女に「ナンパ」という
事態ありえないわけであり、それは「性的イタズラ」、「ヘンタイ」、
「レイプ」と呼称されるべきものだろう。
まして、「ナンパの神様」と自認していたなら「買春」という行為に
ふみこむべきではないはずだが・・・。

某SNSでもナンパと売春誘惑のコメント欄記事が横行しているようだが、
その場合も、私は社長で、有名人、政治家と懇意であるとか並べ立て、
地位を誇示し、それでもなびかない女性にはお金で交渉しているようである。

この石川恭一郎(29)も肩書きは社長であり、最後の手段でお金に
ものをいわせたのではないだろうか?
昨今、この手の稚拙な中年が増加している。
少し前にも某ビデオB級アイドルを抱えていた事務所社長が、
その権力を誇示し、最後は「お金」で脅して、18歳の所属女性タレントを
レイプしたらしい。
その手口の構造は、まったく同じものといえるだろう。

そして、その中年の権力誇示の姿勢は、裏返せばイジメという構造に
もとずくものであり、ひとを必要以上に貶め、その行為によってしか
自分の優位性を確認できないという「愚かさ」なのである。

こういう社会性は、格差社会を是とする体制に問題がある気がしてならない。
「正当な協定によった競争による格差」ではなく「不正な競争に居直った格差」
社会だから、なおさら始末が悪いことになる。

若者には、本来の?男女ともに楽しいナンパ「男女出会いの機会」という道程を
歩んでもらいたいものである。

エキサイトフレンズて何?

2006-11-08 | エッセー(雑文)
『使えなくなった出会い系
・エキサイトフレンズは知ってますよね?
もちろん、知ってるものとして話をさせてもらいます。
エキサイトフレンズ攻略 結論
ネットナンパの登竜門ともいえるエキサイトフレンズですが
以前のような活気はなくなってしまったのではないでしょうか?
少なくとも私はそう感じます。』
というメールが来ていた。

しかし、残念なことに「エキサイトフレンズ」というものが
わからない。
文章によると出会いサイトらしいのであるが、
どうやらナンパ目的の方には下火の傾向にあるのか
違うサイトへの誘導を目的としたメールのようである。

PCは、ほとんどゲーム機と化し、通常のPCゲームソフト
さらにエミュレータを起動させて、過去のゲーム機になった
ソフトで遊んでいるので、とても出会いサイトなど閲覧している
余裕などないし、興味もない。
最近ようやく、DVD-RWを増設し、PCでレンタルしてきたDVDを
見たりしているので、PCも過重労働と悲鳴をあげて、
このブログの更新もままならない。

それでも男だから、ちょっと調べてみたが、
女性とのコミュニケーション、それも直接会うことを目的とする
「出会い」サイトらしい。
虚実入り混じるメールのやりとりから、交渉し、デートにこぎつける。
というプロセスのようである。
もちろん男は「やり逃げ」目的らしいので、結婚など頭の片隅にあるわけも
なく、それに対する女性も「遊び、気分転換」目的のようであるが・・・。

ナンパ師は、ほとんどミクシーのようなSNSへ移動していたと
思っていたが、さすがに豆である。
いろんな手口で女性を引っ掛けて、SEX三昧の日々を送っているのであろう。
エロパワーてすごいもんだ。

このエロパワーをイジメにあって絶望している青少年に、
分け与えてもらいたいものである。
「おっぱいバレー」とかいう本が売れているようだが、
(実話を元にした話らしいが、若い赴任した女性教師が、弱小バレー部の
顧問になり、その部員に優勝したら、「おっぱいを見せてあげる」と
約束したことから、部員が奮起し、ついに優勝した話らしい。)
エロパワーが健全性を得たとき、成就されることって
性が生に、「生きる」という回路が活気づいて、
絶望感を払拭させるのかもしれない。

そう考えると、ナンパも非モラル的行動と責めるわけにもいかず、
「クレヨンしんちゃん」みたいなナンパ師なら好感度高いかも・・・
などと思ってみた。
しかし、私はどちらかといえばケロロ軍曹(ガンプラマニアじゃないが)
ナンパとは無縁w。

ちなみにエキサイトフレンズは、日本最大級のメル友探しコミュニティ
ということらしい。
以下参考
http://www.excite.co.jp/friends/

沢尻エリカのレッドカーペットファッションの批判記事を読んだ印象

2006-11-05 | エッセー(雑文)
http://www.yomiuri.co.jp/donna/do_061031.htm?from=os1
の記事をみたが、これはひどい。
貴族趣味もここまでくると笑える。

日本映画が、本来庶民の立場に立つことで、
テーマを観客と共有していることを、一時忘れ、
武器商人の投資で盛り上がっているハリウッド映画産業の本質にも
触れず、成熟した欧米社会などという詭弁をもちだして
批判するなど評論家というより、太鼓もちと評すべきかもしれない。

例えば、
ハリウッド形式の猿真似イベント「レッドカーペット披露」に
新風を吹き込むと同時に、批判的視点を導入したファッションとでも
考慮することも可能で、そういう脈絡を暗示させるのが評論家の
仕事じゃないのだろうか?
真っ先に、猿真似イベントと批判すべきだろ。
それを逆の立場で、20歳の小娘の思慮不足というような脈絡で語るべきではない。
映画の表現とは、その本質は何であるのか
もう一度初めから勉強しろと・・・思ってしまったw。

履修不足問題のズレ

2006-11-03 | エッセー(雑文)
主に高校の必修化された課目の授業が行われず、
受験に即した授業にシフトしていたことが
問題となっているようだが、
いまさらこんなことを問題にし、さらにマスコミで大げさに
取り上げるのもあざとい気がする。

進学予備校に堕して久しい、高校という実態に目をそむけ、
その矛盾に苛まれながら、現場教育で職人技を振るっている
教師にたいして、あまりにも考慮が足りない話題つくりといえる。

その結果が校長の自殺では、マスコミ報道の無責任さ、良識を
問い返さなくてはならないのではないだろうか?

高校は義務教育ではないのであるし、公立、私立とさらに進学校では
その授業内容に幅があるのは、あきらかであり、
父兄も学生も「有名大学進学」を望み、その圧力をかけている。
進学できない授業内容では、特に私立では学生は集まらないので、
当然指導要領の範囲から逸脱することになるだろう。
(地方では、伝統ある男子校、女子校が生徒不足のため、共学化している。)
進学校でなくても、かなり以前から進学組コースが3年次にはもうけられ、
必修とされる教科の内容を、教師は要点を説明したプリントなどを配り、
それを読んでおくようにとして、実際は受験に即した授業展開をしていた。
当然その授業の成果で国家公務員という試験を勝ち残り、文部省や外務省の
職員になっている彼らが沈黙しているのは解せない。

まして、それを想定しない画一教育建前の文部省、国立大学入試センターの
試験内容は、矛盾そのものといえるだろう。

このままいくならば、登校拒否、引き籠りの問題もふくめるなら、
高校進学者は減少し、直接大学入試資格取得後、
進学予備校から大学受験を行うものが増加するだろう。
格差社会化し、貧富の差が明らかになった昨今では、親にしてみても、
教育費の負担を考えるなら、効率的な大学進学は好ましいだろうw。

デスノートを見ながら・・・意識についての雑考

2006-10-28 | エッセー(雑文)
意識には、意識領域と無意識領域があるという仮説がある。
しかし、この仮説では無意識領域があまりにもニュートラルで
さまざまな空想的創作物語性にむすばれやすく、
たとえば、夢解釈などという物語性にズレこんでしまうのである。

意識は視野とか視覚の構造に近く、焦点化したものしか見えない
気づかないという特徴があるのであるが、
焦点化する機能に左右される意識のあり方は、
人間の動体認識の限界でも確認できる。
一秒間にわずかな変化が積み重なった短い動画では、
たぶん動体視野の能力が高いものには、比較的その変化を認識しやすい
とおもわれるが、見事なまでに、その変化が、意識されないのである。

絵でいえば「図と地」の構造、その反転形成の構造に無意識はあたる。
見えてはいるが、焦点化されていないために意識されない領野
それが、本来の意識野であり、ときにそれはプログラムにもなりえる。

見えないプログラムの上で、見える記号を使い、表現している。
このブログというシステムさえ、意識という構造として喩えることも
可能だろう。
このネットを成立させているプログラムは、「見えないことと、見えること」
の現象を操作し、書き込まれているのであるが、見えないことでプログラムは
通常走り、それが曝されてしまうと、加工され負荷が加えられ走らなくなる
可能性が高くなる。
そのため、プログラムをプロテクトするプログラムが過剰に積み重なる。
それは、人間社会のありさま、国家や企業の紛争と滑稽なまでに類似であり、
愚かさを露呈しているようだw。

プログラムと無意識領野の類似性は、
たぶん、これからの人間関係の抗争劇として、注目され、
互いの無意識領野に、先に記名性を与える象徴劇として展開され、
その現象を意識化し商品化し、消費を先導させるエリートを
生じさせていくのだろう。

心とネットワークの類似性・・・雑感

2006-10-26 | エッセー(雑文)
心には目に見える形があるわけもないのに、
心は「砕け散る」

心とネットワークのあり方は、とても似ている。

意識は記憶、特に想起する働きによってその特有性(個性)を
発揮する。
ネットワークでは、情報検索のリテラシー機能で、
その個性が発揮される。

心は特に意思疎通に言葉を使用するが、そのつながりは
身体性のもつ機能「共振性」といえるような繫がりによって、
保障されているのではないだろうか。

ネットワークを維持するハード面も物理的な「共振性」によって、
保障されている。

だからといって、単純に身体が機械であるということを
肯定するわけではない。

問題なのは共振とか共感とかいわれる現象に重点をおき、
考察する姿勢・スタンスをパラダイムに与えることではないか

共感や共振によって形成されたものが心だとするなら
その心が砕けるとは、自分の心であっても
<自分一人=孤立した自分ではなく>
ある意味・あるかたちのネットワークが形成されていたものが
壊れるということ、繫がりが破砕されてしまうということではないか

しかし、そのとき人は孤立感を深め、すべてのネットワークから
遮断されているかのように思うのであるが、
だが、心が痛みを感じているなら、他のネットワークに繫がっていて
他のネッワークの形を形成し続けているのだろう。

つまり心が心であるかぎり、けっして孤立はしていないということである。
必ずそのネットワークは繫がっている。

絶望は、そういう意味では、他者の悪意による陥穽に落ちた
現象であり、もしくはウィルス感染した状態と考えるべきだろう。
そういう意味では、本来、自殺ということはありえない現象なのである。
悪意というウィルス感染によって、追い詰められた状態が
たとえば、イジメということであり、そうじて自殺を選択する
理由ではないか。




DSライトをもって公園散歩・・・

2006-10-12 | エッセー(雑文)
天気が良かったので、DSライト(ソフトはポケモンとFF3)を
携帯し、公園を散歩した。
日差しが弱くなった3時ごろになると、小学5、6年か中学1年あたりの
少女が自転車で数人現れて、何を始めるのかと思えば、
DSを取り出しゲーム通信である。
ただし、日陰で・・・。

DSは液晶がGBAのような反射方式ではなく、
節電型のバックライト方式なので、
昼間の太陽光のもとでは、残念ながらほとんど画面が確認できないという
弱点がある。
屋内や電車の中では、最良に見やすい液晶画面なのだが、
健康的な屋外では使いにくいという皮肉な結果となっている。
そのため、公園などで遊ぶ男子には、DSの携帯はほとんど
見ることができない。
以前のGBAなどでは、外で遊んでいる姿を確認できたのであるが・・・。

今回ポケモン発売でDSもさらに普及したので、公園でDSで遊ぶ
姿が確認できるかとおもっていたが、髪が長くピンクの洋服が似合う
少女のイメージ漂う子にDSの携帯、ゲーム通信という姿を確認できたことは
予測範囲外であった。
ゲームソフトもポケモンではなく「動物の森」らしかったが・・・。

DSは携帯ゲーム機であっても、オシャレアイテム的な屋内向けで、
少女&女性向けという適正条件に適合しすぎたゲーム機なのかもしれない。
ゲーム機の色もピンクが人気あるという話を聞いたことがあるが、
ようやく女性にゲームが「解放された?時代」を迎えたのかもしれない。
となるとDSも携帯電話のようにネールアートのようなカスタム仕様グッズが
売れるのだろうという印象が残った。