ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【読書日記から20】難波先生より

2015-04-14 16:48:40 | 難波紘二先生
【読書日記から20】
 マックス・ウェーバー関係書=
 ウェーバーはハイデルベルグ大学を辞職後、1919年、59歳になるまで定職につかず、著作に専念している。
 1919年、ミュンヘン大学の「学生同盟」の依頼で行った二つの講演「職業としての学問(Wissenschaft als Beruf)」、「職業としての政治(Politik als Beruf)」が好評で、ミュンヘンに移住し、大学で社会学の講義を再開した。(教授職についたかどうかは、定かでない。)
 前者の邦訳は尾高邦雄訳が岩波文庫(1936)、後者は脇圭平による訳が岩波文庫(1980)として出ているが、尾高はドイツ語のベルーフ(Beruf)が英語のCallingないしProfession(天職)に相当し、高い倫理性を必要とする聖職者、医師、弁護士の三つが歴史的にこれに該当してきたことを、解説を読むかぎりでは理解していないようだ。
 
 ウェーバーの「病跡学(パトグラフィア)」を研究した精神病理学者がいるかどうか知らない。
しかし代表作とされる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905、岩波文庫)は、羽入辰郎『マックス・ウェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房、2002/9)により、捏造・盗用・剽窃が指摘されており、すでに「知的誠実さ」と高い倫理性を喪失していることは間違いない。つまり彼にとって「学問研究」は「ベルーフ(天職)」ではなかったのである。
 ところが、『職業としての学問』(岩波文庫)、『職業としての政治』(岩波文庫)のどちらにおいても、ウェーバーは学者・教師と政治家に高い倫理性を要求している。

 この羽入について調べていて、『マックス・ヴェバー悲しみ:一生を母親に貪り喰われた男』(PHP新書、2007)があることを見つけ、Amazonから取り寄せて読んだ。
 この人、羽入辰郎は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E5%85%A5%E8%BE%B0%E9%83%8E
 新書奥付の略歴とWIKIの記載が事実なら、1953年新潟市に生まれ、78年(25歳)に埼玉大教養学部を、翌年(26)に「社会事業学校」を卒業し、東京の精神病院でソーシャルワーカーとして働いた経験がある (P.191〜197)。
 その後83年(31)に東大教養学部に入学し、1年留年の後89年(36)に卒業して、大学院に進み倫理学を専攻して、95年(42)に博士課程を修了、文学博士になっている。4年後の99年(46)には、東京の「成城大学」非常勤講師から一気に「青森県立保健大学」の教授に採用されている。
 (両大学における彼の講義内容は、『支配と服従の倫理学』、ミネルヴァ書房, 2009/2、として出版されている。「ポル・ポト革命」のポル・ポトが「事項索引」に入っているような、明らかな間違いもあるが、全体としては良くできた教科書である。
 「ポル・ポト」は本名サロト・サル、カンボジア共産党書記長としての「組織名」である。後に共産党政権の首相として「大虐殺」を実行した。その実相は米映画「キリング・フィールド」によく描写されている。)

 妻マリアンネによる『伝記』からマックス・ウェーバーが、30代の終りに精神を病み、入退院を繰り返しながら、約20年これが続いたことがわかる。

 先に、<ウェーバーの「病跡学(パトグラフィア)」を研究した精神病理学者がいるかどうか知らない。>と書いた。羽入は精神病理学者ではないが、少なくとも臨床心理学の知識と体験がある人が書いた本が、これであろうと思った。

 羽入によると、マックス・ウェーバーの両親は愛情のない「家柄見合い結婚」をしていて、父親は俗物の資本家だったが、母親は敬虔なプロテスタントだった。夫に経済的に完全に支配されていた妻は、息子を溺愛し彼をマインドコントロールすることで、夫に対抗しようとした。その結果、息子は父を憎み、生みの母を愛するという「エディプス・コンプレックス」を抱いた。この過程で生み出された論文が、有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だというのである。

 妻と息子から憎まれていた父親が早死にした後、強大な「自我」に自分を取り込もうとする母親に反抗した息子マックスは、精神病になってしまう。
 この病理発生を著者羽入は、かつて精神病院で自分が対応した統合失調症の患者の病歴調査から判明した事実を持ち出し、以下のように説明する。
 <貴方から愛されたくて、貴方のためにあんなに頑張ってきたのに…。だったら、一生精神病院にいてやる。…貴方は精神病の息子の母親として世間に馬鹿にされるがいい。
 東大の学歴も捨てた。会社も捨てた。
 精神病院の廊下掃除の班長として、一生をまっとうしてやる。>

 これがウェーバーの精神病発症の機序であり、彼は気づかぬまま、その精神的一生を母親に貪り喰われた哀れな息子だった、というのが著者の結論だ。
 統合失調症の発症機序の説明として、これは大変面白い仮説である。ただ、残念ながら著者の記述には実証的な裏付けが乏しい。マックス・ウェーバーを「マザコン」=エディプス・コンプレックスの塊として位置づけた著書は、はじめて読んだ。著者にはぜひこれを実証的に裏付けるような次作を期待したいものだ。

 この羽入による新書を読んで「羽入・折原論争」なるものが行われたこと、民間の歴史学者網野善彦の甥、宗教学者中沢新一を、東大教養学部にスカウトしようとした人事案件が潰されて、西部邁が東大を辞職した、1988年の「中沢人事・東大駒場騒動」で、反西部の策謀の中心にいたのが、大学紛争の時に「造反教官」だった折原浩だということを初め知った。
 それで、
 ①西部邁『剥がされた仮面:東大駒場騒動記』, 文藝春秋, 1988/7、
折原が羽入に対して人格攻撃まで含めて、彼の著書を批判した、
②折原浩:『学問の未来:ヴェーバー学における末人跳梁批判』(未来社, 2005/8)、
それに対して羽入が、数年間の沈黙のあと、「乾坤一擲」の完膚無き反撃をおこなったのが、
 ③羽入辰郎:『学問とは何か:<マックス・ヴェーバーの犯罪>その後』(ミネルヴァ書房, 2008/6)
である。
 以上の3冊を追加で取りよせて読み終えた。

 札幌出身の西部は、現在の思想的立場は右派で私の立場とは異なるが、知的には誠実な人である。「60年安保全学連」の委員長唐牛(かろうじ)健太郎は北大教育学部出身であり、親交があったことは、西部の回想録『六〇年安保:センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋, 1986/10)にも書いてある。
 西部が「義侠のひと」であることは、『友情:ある半チョッパリとの四十五年』(ちくま文庫, 2011/5)で、中学の同級生で、ヤクザになり組長にもなった男との交流を、その死に至るまで書いていることでもわかる。東大教授を辞めたから書けたのかもしれないが、俠気(おとこぎ)がなければこんなものは書けない。

 西部は「中沢人事」について、上記①で
<要するに、中沢新一君を東大教養学部に迎えるべく、激論を経ながら、きちんと全員一致で手続きをクリアしてきたのに、事後になった、ルーマー・ポリティックス(噂の政治)によって(教授会の投票で)くつがえされたということです。…表だっては、全共闘のときの造反教師たちが、東大のアンシャン・レジーム(旧体制)を守るべく、騒ぎ立てた。>と述べている。

 私が入手した②の折原浩の本は、定価(¥5800+税)の半値の新本だったが、なんと「著者献本」のしおりと「2005/8/11付の折原浩ワープロ書簡」が挟み込まれていた。
 その一節に「1980年代ころから、若い世代に、学問に謙虚に取り組もうとする姿勢が薄れ、俗受けを狙う軽薄な身振りが目立つようになった。…そうした風潮をたしなめる<大人>たち、とくに<識者>が、<見て見ぬふり>をするばかりか、なかには<賞>を与えて煽(おだ)て上げ、本人を初め、若い世代を広くスポイルする、という無責任が横行し始めた…」とある。

 これは羽入辰郎の『マックス・ウェーバーの犯罪』が、山本七平賞や日本倫理学会賞を受賞したことを指している。前者の賞選考委員は、山折哲雄、養老孟司、中西輝政、竹内靖雄、加藤寛、江口克彦である。つまり折原はこれらの選考委員に「見識がない、若い世代をスポイルする、無責任だ」と述べているわけである。
 折原は1935年生まれで、1996年に東大定年退職(当時、定年60歳)の後、名古屋大文学部教授を3年(定年63歳)、椙山女学園大教授を3年勤めたあと、年金生活に入っていたはずだ。6000円近い本を100部も謹呈できるとはちと思えないので、この「手紙入りの献本」はとんだ掘り出し物だった。

 本書の後にある出版社の広告をみて、折原は
 1)『ヴェーバー学のすすめ』(2003)、2)『ヴェバー学の未来』(2005)、3)『大衆化する大学院』(2006)(いずれも未来社刊)と、すでに3冊も「羽入批判本」を出していて、入手した②は4冊目だとわかった。まあ、かなり「偏執狂(パラノイア)」的な人物である。

②折原浩:『学問の未来:ヴェーバー学における末人跳梁批判』という本自体は、索引も引用文献リストもないクソ本である。学術書と自称しているが、読者が内容を検証できないような本は「学術」の名に値しない。第三章「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか」で、旧石器捏造を繰り返していた藤村新一と「ウェーバーの犯罪」を書いた羽入を同列に扱い、比較批判しているが噴飯ものだ。

 副題の「末人跳梁」における「末人」とは、折原ははっきりと書いていないが、ニーチェ『ツアラトストラ』(中央公論社『世界の名著46:ニーチェ』, 1966)の第一部第5章に出て来る「超人」に対比しての「末人」のことであろう。ニーチェは「大衆化社会」における一般民衆を「末人」として軽蔑している。
 『ツアラトストラ』第4章の冒頭に、有名な「人間は、動物と超人のあいだに張りわたされた一本の綱である …深淵の上にかかる綱である」という言葉が出てくる。が、これはニーチェ独自のものではなく、フォイエルバッハ『残された箴言』(岩波文庫『ヘーゲル哲学の批判・他一篇』所収)に同趣旨の文言がある。
 ニーチェは、最後は脳梅毒で気が狂って死んだのだが、重症の鬱病からの回復期にマックス・ウェーバーが「資料改ざん」をおこなったと同様に、ニーチェが盗作をしていたとしてもおかしくはない。

 偶像破壊をおこなうのが真の学者であり、羽入以前にもデレク・フリーマン(オーストラリア国立大名誉教授)の『マーガレット・ミードとサモア』(みすず書房, 1995/5)のように、女性文化人類学者でフェミニズムの唱道者ミードの著作の虚構性を暴いた本が出ている。
 さらに2002年には、ヒラリー・ラプスリー『マーガレット・ミードとルース・ベネディクト:ふたりの恋愛が育んだ文化人類学』(明石書店, 2002/7)が出されて、『菊と刀』のベネディクトと『サモアの思春期』のミードとが同性愛関係にあったことも明らかにされている。
 (著者のラプスリーはレスビアン、訳者の伊藤悟はゲイであり、出版社の明石書店はこういう本が専門である。それはいいが、これらの本自体は「原注不十分、索引、参考文献なし」という手抜き本である。)

 羽入は③『学問とは何か』で、「東大紛争中に学生をアジり、講義放棄と教授会ボイコットを三年続け、そのくせ月給は妻に取りに行かせていた折原助教授は、<転向>して何食わぬ顔で講義を再開し、教授に昇任した後は、鼻持ちならない<権威主義者>になった」という意味の批判をおこなっているが、「マックス・ウェーバーの権威」を疑う学者に対して、批判というか非難の書を4冊も出すとは、まさに「権威主義」の塊といってよいだろう。
 ちなみにウェーバーは、『職業としての学問』の中で、「自分の知識や学問的経験を学生に語る代わりに、立場を利用して自分の政治的見解を押しつける大学教師は、無責任きわまりない」(岩波文庫, p.50)という意味の批判を述べている。
 「転びバテレン」ほど、切支丹狩りに積極的であったという例もあり、折原の行動も愛煙家がタバコをやめたら、とたんに熱心な「反喫煙運動家」になるようなものだろう。

 羽入本は600ページ近い大作で、折原の批判に対して5年近い準備期間を置いているだけに、きわめて緻密に論駁=反批判がおこなわれている。もう法廷陳述書を読むような感じで、頭が痛くなるが、それをやわらげるように六つの「随想ないし回想」が含まれている。

 1983年4月15日未明の1:30、山中湖で自主的な「オリエンテーション・セミナー」を開催していた東大新入生と指導的2年生の一部が、泥酔して3人乗りボートに6人乗って湖にこぎ出し、ボートが転覆して5人が水死・凍死するという事件が起こった。
 この事件発生時、羽入は「文科3類」の新入生としてセミナーに参加しており、事故発生を知るやすぐに「救助隊」の指揮をとったという。これまで東大側が積極的に明らかにしてこなかった真相が、「エピソード4:東大山中湖事件」(P.155~170)できわめて詳細に報告されている。
 ここに「市川芳孝」(仮名)という新入生が出てくる。6人のうち唯一の生存者で、救助された後、羽入に対して「俺が足で水をバシャバシャさせたので、ボートがひっくり返った」と風呂場で告白したと書かれている。
 この人物はいま東大教授として「医療社会学」を教えている。東大に反旗を翻した小谷野敦が、ブログで実名を公表している。『優生学と人間社会』(講談社現代新書)という著書もあり、有名な人なので驚いた。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20081202/1232693969
 図書館でこの部分だけをコピーして読むだけで、「報道された事実」と当時31歳の新入生羽入辰郎による「羽入調査報告」とがいかに違っているかよくわかり、有益であろうと思う。

 折原は②『学問の未来』で、「マックス・ヴェーバーが重い精神疾患に罹り」(p.21)と書いている。つまり、10年近く後に、精神病から回復する過程で『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫,上・下)を書いたという点で、折原と羽入の意見は一致している。
 つまり、ウェーバーの「精神病」を認めた時点で、論争はもう決着したといえる。
 作家の「病跡(パトグラフィア)」を知らないで、その作品が論じられないように、社会科学や自然科学でも、業績を評価するにはその学者の「評伝」が重要となる。結局、折原やその同調者は「論語読みの論語知らず」であることを自ら告白してしまった、と思う。

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