【吸血鬼余談】
少しネット・サーフィンをして、Vampire、東洋学者Vambery、バイロンの主治医Polidori、最初に「ドラキュラ」小説(1897)を書いたBram Stokerと南米の「吸血コウモリ(Vampire bat)」の発見について、相互関係を調べてみた。
ついでに書庫からコウモリ学の専門書G.M. Allen: ”Bats” (Dover, 1939)も見つけ出して参照した。以下は断らない限り、英語WIKIからの知見である。
南米で発見されたチスイコウモリについてのWIKIの記載は、「ナミチスイコウモリ(Common Vampire Bat)」=(学名Desmodus rotundus, Geoffroy, 1810)となっているから、ジェオフロイというフランスの動物学者が1810年に命名したものであろう。
アレンの本によると、1865年にダーウィンの友人トマス・ハックスレーが解剖を行い、胃の噴門部側が管状になっていて、吸った血の保存と消化に適した構造になっているのを見つけている。このため小腸の発達は悪く、セルロースを消化するのに重要な盲腸が欠けているという。
この記載の後に、「吸血コウモリ(Vampire bat)」という俗名が付けられたのであり、1810年にはすでにコウモリと関係なく「吸血鬼(ヴァンパイアー)」伝説が東欧に成立していた。
アレンの書によると、『健康の園(Hortus Sanitatis)』という1491年にドイツのマインツ(グーテンベルクが印刷術を発明した町)で出た本に、吊したベーコンの塊の周りに5匹のコウモリが飛び、別の1匹はベーコンにたかって囓っている絵が載っている(添付図1)。
(図1)
これはコウモリがハムやベーコンを好物とする、という当時の俗信を絵にしたものだという。
ところが19世紀の終りになって、ドイツの博物学者キュールとヘルマンが独立して、捕獲したコウモリに餌としてベーコンを与える実験をしたところ、どちらのコウモリも、ベーコンをまったく食べないで飢え死にしてしまった。
産業革命以前のドイツの農家は、ハムやベーコンやソーセージを自製しており、薫製用の煙突はネズミが入らないように独特の構造をしていた。だが、薫製肉はしばしば囓られたり、紛失したりした。そのため、昼間は煙突内に潜んでいるコウモリが犯人とされたのだ、という。
実際にはネズミは電線を伝って別の家に侵入することも、垂直な壁をよじ登ることもできる種だったのだそうだ。
15世紀のドイツに「コウモリは肉を食う」という誤解が広まっていたことが、後に「ヴァンパイアー」伝説が生まれる要因のひとつとなったと思われる。
確か18世紀末にインドの風土病だったコレラがヨーロッパに侵入し、猛威をふるった。19世紀になると、コレラ毒素に起因する重症の下痢による脱水症状のため、ショックに陥った患者が「死亡した」と診断され、「早すぎた埋葬」の恐怖がポーの小説などで強調されようになる。彼の『アッシャー家の崩壊』はまさにそれを主題にしている。
「早すぎた埋葬」の話と死体が棺の中から甦るというドラキュラの話は、どこかでつながっているように思われる。
ユダヤ系ハンガリー人のアルミン・ヴァンベリー(1832〜1913)がドイツ語、英語、フランス語、スウェーデン語、トルコ語、ペルシア語、アラビア語をマスターしたのち、最初にトルコのコンスタンチノ—プルに旅行したのは、1857年22歳の時である。この時は学校を卒業したばかりでまったく無名だった。
従って1819年の夏、スイス・ジュネーブにあった詩人バイロンの別荘で、彼の主治医だったポリドリが「ヴァンパイア—」という短編小説を創作した時に、彼が「東洋学者ヴァンベリー」から話のネタを仕入れていたということはありえない。
(ポリドリの『ヴァンパイア』は未読なので内容の詳細は知らない。これはネットのProject Gutenbergに無料の電子ブックがあったので、ダウンロードした。近々、読むつもり。)
http://www.gutenberg.org/files/6087/6087-h/6087-h.htm
英語WIKIにヴォルテール『哲学辞典』(1764)から「吸血鬼」の項の引用がある。「吸血鬼」はフランス語原文でも「Vampire」である。
「これらの吸血鬼は死体であって、夜になると生きた人間の血を吸うために墓から出歩き、生者の喉か腹に噛みつき、血を吸い終わると墓に戻る。血を吸われたものは、衰弱して青白くなり、やがて労咳で死ぬ。他方、血を吸う死体は太り、皮膚がバラ色になり、猛烈な食慾を示す。死者がこうした饗宴にあずかれるのは、ポーランド、ハンガリー、シレジア、オーストリアと(フランスの)ロレーヌ地方である。」
この地理分布から見ると、すでに18世紀半ばには、ヨーロッパ中央部を東西に走る山岳地帯にそって吸血鬼伝説が存在していたことがわかる。
啓蒙主義者で「百科全書派」のヴォルテールは、もちろん「吸血鬼」など信じていないが、当時の俗信を全否定せず、その流行地を客観的に(やや皮肉を込めて)記述している。
マリア・テレサ(1717〜1780)がハプスブルグ帝国の皇帝の時(1740〜80)に、「吸血鬼騒動」が多発した。この時、女帝は侍医G.ファン・スィーテン(Van Swieten: 1700〜1772)に命じて、吸血鬼の有無について調査を行わせている。
スィーテンは「全ヨーロッパの教師」と呼ばれたオランダの名医ブールハーフェの弟子で、女帝に招かれて、医師のデ・ハエン(1704〜1776)と同じく、アムステルダムからウィーンに移り住んだ。
二人は協力して、ウィーンに総合病院、教育病院を開設し、遅れていたオーストリアの医学水準を一挙に引きあげた。胸部の打診法を発明した(1761)のは、ウィーンの「聖トリニティ病院」内科のアウエンブルッガーであり、1784年開設の「総合病院」には世界初の「病理解剖部」が置かれ、A.R.フェッター(1765〜1806)が最初の病理部長になった。
(私はロンドンで英国病理学会事務局を訪問した時に、「英国病院病理学の歴史」という本を献本され、そこに<ホジキンは英国最初の病院病理医(ガイ病院)である>と書かれているのを読み、これまで<世界初>と勘違いしていた。
このフェッターがウィーンに世界最初の「病理解剖博物館」を作ったのだそうだ。)
それはさておいて、ファン・スィーテンは立派に調査を行い、「吸血鬼は存在しない」とする報告書を女帝に提出した。当時、俗信に惑わされた民衆は「吸血鬼になった」と信じられた死者の墓を暴き、死体の心臓に鉄の棒を突き刺し、首を切断するような死体損壊行為が流行していた。ブルガリアでは損壊された遺体が100体以上発見されているという。
この調査には病理学者のフェッターが協力したと思われるが、今のところ文献の上で彼の関与を示す資料を見つけることができない。
「吸血鬼調査報告」を受けて、女帝は墓を暴き死体を損壊することを禁止する法を制定した。これでハプスブルグ帝国における死体損壊行為は、やっとおさまったという。
ところが英国から始まった産業革命が次第に大陸に波及し、市民階級の台頭と共に旧秩序が崩れ始める。フランス革命(1789)の勃発は、既成の秩序や価値観への不安と不信をかき立てた。そういう時にはオカルトが流行るものだ。
19世紀初頭のヨーロッパはまさに内乱、戦乱の時代であり、奇談怪談が文学や絵画に現れても不思議でない。こうしてロマン主義芸術に吸血鬼が登場したのである。
19世紀前半の50年間は、産業革命の波及に伴い既成の社会秩序が崩壊し、都市化により社会的格差と貧困が拡大し、同時に世界貿易(グローバリズム)により次々と植民化されつつあるアジアやアフリカらから「エマージング・ウイルス(あるいは細菌)」が到来した時代でもあった。
今日ふたたび、西アフリカにエボラ出血熱が出現し、パンデミックへの萌しも見られるし、かつてクリミア戦争、露土戦争、バルカン戦争の舞台となった南ウクライナで戦争が、さらにギリシアの財政破綻問題、シリア内戦が起こり、イスラム過激派のテロも激化している。
19世紀には、アジアとアフリカの分割を終えた後で、帝国主義列強は互いに同盟を組み、世界戦争へと向かった。今また、21世紀初頭の世界情勢は不気味なほど、19世紀後半の時代に類似してきたように思われる。
さて、ポリドリの小説『吸血鬼』(1819)の成功に続いて、『吸血鬼ヴァーニィ』(1849)という英語の三文小説が出ている。その間にオペラもいくつか製作されているようだ。
1872年には女吸血鬼が登場する『カミーラ』が出ている。
1897年になってアイルランド出身の作家ブラム・ストーカーが、東洋学者ヴァンベリーと知り合った後、ルーマニアのワラキア公国の君主ドラキュラ伯爵を主人公にした小説『ドラキュラ』を発表した。
吸血鬼を研究しているヘルシング教授は、ヴァンヴェリ—がモデルであり、ドラキュラの城もカルパチア山脈中に実在する。これは大ヒットになり、ここで現代でもよく知られている「ドラキュラ物語」が出来上がった。
つまり19世紀初頭にポリドリが創作した「吸血鬼」物語は、ほとんど100年かけて、ストーカーの「ドラキュラ」として完成したといえよう。
その一般への普及には戦前は映画が、戦後は映画とテレビドラマが大いに貢献した、とまあ、こんなところであろう。
「死んでも生き返る」吸血鬼伝説が世界中に広まったのは、単なるホラー譚以外に、人間の不死願望も背景にあったのではなかろうか。
荒唐無稽な「STAP細胞」神話が、このところタレントの急死が相継ぐテレビ芸能界では、まだ受け容れられている(「週刊文春」2/26号は、「それでも小保方晴子を擁護するオトコたち」という記事で、古館伊知郎、小倉智昭、古市憲寿の名前をあげている)。
どうせ多くは「電波芸者」だから、視聴者が擁護していると思えば、それに逆らわないで擁護発言をしないといけないのだろう。
私から見ると「STAP細胞はあります」と「ヴァンパイアはいます」とは、等価な発言としか思えないのだが…。もちろん「新大陸の南米にはヴァンパイア・バットがいます」という発言なら正しい。だがあれは動物の血を吸うが、人間を襲わない。
旧大陸の付属島嶼である日本で実験した以上、日本にいるか(あるか)どうかが問題となるにすぎない。そういう論理が分からない人が、意外に世の中には多いようだ。
少しネット・サーフィンをして、Vampire、東洋学者Vambery、バイロンの主治医Polidori、最初に「ドラキュラ」小説(1897)を書いたBram Stokerと南米の「吸血コウモリ(Vampire bat)」の発見について、相互関係を調べてみた。
ついでに書庫からコウモリ学の専門書G.M. Allen: ”Bats” (Dover, 1939)も見つけ出して参照した。以下は断らない限り、英語WIKIからの知見である。
南米で発見されたチスイコウモリについてのWIKIの記載は、「ナミチスイコウモリ(Common Vampire Bat)」=(学名Desmodus rotundus, Geoffroy, 1810)となっているから、ジェオフロイというフランスの動物学者が1810年に命名したものであろう。
アレンの本によると、1865年にダーウィンの友人トマス・ハックスレーが解剖を行い、胃の噴門部側が管状になっていて、吸った血の保存と消化に適した構造になっているのを見つけている。このため小腸の発達は悪く、セルロースを消化するのに重要な盲腸が欠けているという。
この記載の後に、「吸血コウモリ(Vampire bat)」という俗名が付けられたのであり、1810年にはすでにコウモリと関係なく「吸血鬼(ヴァンパイアー)」伝説が東欧に成立していた。
アレンの書によると、『健康の園(Hortus Sanitatis)』という1491年にドイツのマインツ(グーテンベルクが印刷術を発明した町)で出た本に、吊したベーコンの塊の周りに5匹のコウモリが飛び、別の1匹はベーコンにたかって囓っている絵が載っている(添付図1)。

これはコウモリがハムやベーコンを好物とする、という当時の俗信を絵にしたものだという。
ところが19世紀の終りになって、ドイツの博物学者キュールとヘルマンが独立して、捕獲したコウモリに餌としてベーコンを与える実験をしたところ、どちらのコウモリも、ベーコンをまったく食べないで飢え死にしてしまった。
産業革命以前のドイツの農家は、ハムやベーコンやソーセージを自製しており、薫製用の煙突はネズミが入らないように独特の構造をしていた。だが、薫製肉はしばしば囓られたり、紛失したりした。そのため、昼間は煙突内に潜んでいるコウモリが犯人とされたのだ、という。
実際にはネズミは電線を伝って別の家に侵入することも、垂直な壁をよじ登ることもできる種だったのだそうだ。
15世紀のドイツに「コウモリは肉を食う」という誤解が広まっていたことが、後に「ヴァンパイアー」伝説が生まれる要因のひとつとなったと思われる。
確か18世紀末にインドの風土病だったコレラがヨーロッパに侵入し、猛威をふるった。19世紀になると、コレラ毒素に起因する重症の下痢による脱水症状のため、ショックに陥った患者が「死亡した」と診断され、「早すぎた埋葬」の恐怖がポーの小説などで強調されようになる。彼の『アッシャー家の崩壊』はまさにそれを主題にしている。
「早すぎた埋葬」の話と死体が棺の中から甦るというドラキュラの話は、どこかでつながっているように思われる。
ユダヤ系ハンガリー人のアルミン・ヴァンベリー(1832〜1913)がドイツ語、英語、フランス語、スウェーデン語、トルコ語、ペルシア語、アラビア語をマスターしたのち、最初にトルコのコンスタンチノ—プルに旅行したのは、1857年22歳の時である。この時は学校を卒業したばかりでまったく無名だった。
従って1819年の夏、スイス・ジュネーブにあった詩人バイロンの別荘で、彼の主治医だったポリドリが「ヴァンパイア—」という短編小説を創作した時に、彼が「東洋学者ヴァンベリー」から話のネタを仕入れていたということはありえない。
(ポリドリの『ヴァンパイア』は未読なので内容の詳細は知らない。これはネットのProject Gutenbergに無料の電子ブックがあったので、ダウンロードした。近々、読むつもり。)
http://www.gutenberg.org/files/6087/6087-h/6087-h.htm
英語WIKIにヴォルテール『哲学辞典』(1764)から「吸血鬼」の項の引用がある。「吸血鬼」はフランス語原文でも「Vampire」である。
「これらの吸血鬼は死体であって、夜になると生きた人間の血を吸うために墓から出歩き、生者の喉か腹に噛みつき、血を吸い終わると墓に戻る。血を吸われたものは、衰弱して青白くなり、やがて労咳で死ぬ。他方、血を吸う死体は太り、皮膚がバラ色になり、猛烈な食慾を示す。死者がこうした饗宴にあずかれるのは、ポーランド、ハンガリー、シレジア、オーストリアと(フランスの)ロレーヌ地方である。」
この地理分布から見ると、すでに18世紀半ばには、ヨーロッパ中央部を東西に走る山岳地帯にそって吸血鬼伝説が存在していたことがわかる。
啓蒙主義者で「百科全書派」のヴォルテールは、もちろん「吸血鬼」など信じていないが、当時の俗信を全否定せず、その流行地を客観的に(やや皮肉を込めて)記述している。
マリア・テレサ(1717〜1780)がハプスブルグ帝国の皇帝の時(1740〜80)に、「吸血鬼騒動」が多発した。この時、女帝は侍医G.ファン・スィーテン(Van Swieten: 1700〜1772)に命じて、吸血鬼の有無について調査を行わせている。
スィーテンは「全ヨーロッパの教師」と呼ばれたオランダの名医ブールハーフェの弟子で、女帝に招かれて、医師のデ・ハエン(1704〜1776)と同じく、アムステルダムからウィーンに移り住んだ。
二人は協力して、ウィーンに総合病院、教育病院を開設し、遅れていたオーストリアの医学水準を一挙に引きあげた。胸部の打診法を発明した(1761)のは、ウィーンの「聖トリニティ病院」内科のアウエンブルッガーであり、1784年開設の「総合病院」には世界初の「病理解剖部」が置かれ、A.R.フェッター(1765〜1806)が最初の病理部長になった。
(私はロンドンで英国病理学会事務局を訪問した時に、「英国病院病理学の歴史」という本を献本され、そこに<ホジキンは英国最初の病院病理医(ガイ病院)である>と書かれているのを読み、これまで<世界初>と勘違いしていた。
このフェッターがウィーンに世界最初の「病理解剖博物館」を作ったのだそうだ。)
それはさておいて、ファン・スィーテンは立派に調査を行い、「吸血鬼は存在しない」とする報告書を女帝に提出した。当時、俗信に惑わされた民衆は「吸血鬼になった」と信じられた死者の墓を暴き、死体の心臓に鉄の棒を突き刺し、首を切断するような死体損壊行為が流行していた。ブルガリアでは損壊された遺体が100体以上発見されているという。
この調査には病理学者のフェッターが協力したと思われるが、今のところ文献の上で彼の関与を示す資料を見つけることができない。
「吸血鬼調査報告」を受けて、女帝は墓を暴き死体を損壊することを禁止する法を制定した。これでハプスブルグ帝国における死体損壊行為は、やっとおさまったという。
ところが英国から始まった産業革命が次第に大陸に波及し、市民階級の台頭と共に旧秩序が崩れ始める。フランス革命(1789)の勃発は、既成の秩序や価値観への不安と不信をかき立てた。そういう時にはオカルトが流行るものだ。
19世紀初頭のヨーロッパはまさに内乱、戦乱の時代であり、奇談怪談が文学や絵画に現れても不思議でない。こうしてロマン主義芸術に吸血鬼が登場したのである。
19世紀前半の50年間は、産業革命の波及に伴い既成の社会秩序が崩壊し、都市化により社会的格差と貧困が拡大し、同時に世界貿易(グローバリズム)により次々と植民化されつつあるアジアやアフリカらから「エマージング・ウイルス(あるいは細菌)」が到来した時代でもあった。
今日ふたたび、西アフリカにエボラ出血熱が出現し、パンデミックへの萌しも見られるし、かつてクリミア戦争、露土戦争、バルカン戦争の舞台となった南ウクライナで戦争が、さらにギリシアの財政破綻問題、シリア内戦が起こり、イスラム過激派のテロも激化している。
19世紀には、アジアとアフリカの分割を終えた後で、帝国主義列強は互いに同盟を組み、世界戦争へと向かった。今また、21世紀初頭の世界情勢は不気味なほど、19世紀後半の時代に類似してきたように思われる。
さて、ポリドリの小説『吸血鬼』(1819)の成功に続いて、『吸血鬼ヴァーニィ』(1849)という英語の三文小説が出ている。その間にオペラもいくつか製作されているようだ。
1872年には女吸血鬼が登場する『カミーラ』が出ている。
1897年になってアイルランド出身の作家ブラム・ストーカーが、東洋学者ヴァンベリーと知り合った後、ルーマニアのワラキア公国の君主ドラキュラ伯爵を主人公にした小説『ドラキュラ』を発表した。
吸血鬼を研究しているヘルシング教授は、ヴァンヴェリ—がモデルであり、ドラキュラの城もカルパチア山脈中に実在する。これは大ヒットになり、ここで現代でもよく知られている「ドラキュラ物語」が出来上がった。
つまり19世紀初頭にポリドリが創作した「吸血鬼」物語は、ほとんど100年かけて、ストーカーの「ドラキュラ」として完成したといえよう。
その一般への普及には戦前は映画が、戦後は映画とテレビドラマが大いに貢献した、とまあ、こんなところであろう。
「死んでも生き返る」吸血鬼伝説が世界中に広まったのは、単なるホラー譚以外に、人間の不死願望も背景にあったのではなかろうか。
荒唐無稽な「STAP細胞」神話が、このところタレントの急死が相継ぐテレビ芸能界では、まだ受け容れられている(「週刊文春」2/26号は、「それでも小保方晴子を擁護するオトコたち」という記事で、古館伊知郎、小倉智昭、古市憲寿の名前をあげている)。
どうせ多くは「電波芸者」だから、視聴者が擁護していると思えば、それに逆らわないで擁護発言をしないといけないのだろう。
私から見ると「STAP細胞はあります」と「ヴァンパイアはいます」とは、等価な発言としか思えないのだが…。もちろん「新大陸の南米にはヴァンパイア・バットがいます」という発言なら正しい。だがあれは動物の血を吸うが、人間を襲わない。
旧大陸の付属島嶼である日本で実験した以上、日本にいるか(あるか)どうかが問題となるにすぎない。そういう論理が分からない人が、意外に世の中には多いようだ。
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