ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植ものがたり(6)Xデー】

2014-09-22 13:03:01 | 修復腎移植ものがたり
【修復腎移植ものがたり(6)Xデー】
 運命の1977(昭和52)年12月21日がやって来た。
 腎移植を受ける患者(レシピエント)は30代の男性で、糸球体腎炎から来た腎不全のため透析を受けていた。ドナーは50代の母親だった。ドナーからの腎臓摘出には広島大卒の福田が執刀にあたり、岡山大卒の廉介と山口大卒の土山が手術野を拡げておく「鈎引(こうひ)き」をつとめた。別の手術室では土肥が執刀し、男が介助してレシピエントの小骨盤腔に腎臓を植える準備手術が進んでいた。
 福田が、摘出した腎臓を潅流して内部の血液を洗い流した後、第二手術室へ届けると、すぐに移植手術が始まった。ドナーの傷口を縫合し終わると、3人は第二手術室に移動した。廉介と土山は鈎引きを手伝いながら、生まれて初めての腎移植を見学した。
 正常の腎臓は脇腹の位置で背中の後方にあり、大動脈から出る腎動脈につながっている。しかしレシピエントの同じ位置に移植することはできない。透析により血液濾過の仕事を免れた残存腎は「廃用性萎縮」に陥り、繊維化して小さくなっている。腎動脈や腎静脈も同様で、細い線維性の索になっているから、短い腎動脈をつなぐことができない。このため移植腎はレシピエントの小骨盤腔の中で、総腸骨動脈の枝につながれる。古くは鼠径部の皮下に植えられることもあった。
 男にとって腎臓摘出の経験は沢山あったが、腎臓を別の部位に植えるのは初めてだった。
 第一例の手術は成功した。移植された腎臓は免疫抑制剤イムランとプレドニン(ステロイド)の使用により4年以上生着した。しかし慢性拒絶反応のため、その後再透析が必要となった。
 四国で初の腎移植だったが、院長にも副院長にもマスコミに宣伝する気はなかった。大学教授の嫉妬心を恐れていたのだ。宇和島腎移植の報が男の出身教室に伝わると、夜間に助教授のTから男の自宅に抗議の電話がかかってきた。助教授は怒りで声を震わせていた。
 「うちの教室も腎移植は1例やっている。教室に一言の相談もなく、広島大と組んで腎移植をやるとは何ごとか。教室に恥をかかすのか!」
 うかつにも男はS教授とT助教授ほか8名の連名で、山口大から73年に発表された腎移植の論文を読んでいない。前任の田尻科長は知っていたかもしれないが、彼から聞いた覚えもない。
 翌朝、男は院長の西河に電話の内容を伝えた。男自身はこの電話を「教室からの破門」と受け取っていた。助教授の電話は当然ながら教授の代理と受け止められる。西河は、腎移植計画のプロデューサーである副院長近藤に相談した。S教授も西河も近藤も京大卒である。S教授は先輩の西河の顔を立てて、宇和島に初代の泌尿器科部長として田尻を送ってくれていた。
 近藤は「破門通告」を無視するように進言した。先進的な試みだから及ばずながら教室をあげて支援しよう、というのならともかく、「勝手なことをするのは許さん。今後は医師の派遣もしない」というのはどう考えても筋が通らない。そんな教室から人が来なくなってもいいではないか。それが近藤の言い分だった。
 そこにS教授から電話があった。院長に事情を説明に来てほしい、という。「行く必要はない」と近藤は反対した。行けばプロジェクトを潰される恐れがある。大阪・北野病院の院長から宇和島にやって来た西河は、神経内科が専門の温厚な人柄で、腎移植の続行では副院長に同意した。しかし、礼をつくすために宇部市の山口大学医学部を訪れ、S教授に会って病院の実状を報告し、腎移植を続行することを伝えた。大先輩がわざわざ宇部までやって来て頭を下げたことにより、教授の自尊心は大いに満足させられた。
 こうして宇和島の地に蒔かれた一粒の種は枯れることなく、芽を吹いた。
「あの神主がいうた『男の嫉妬』いうやつかのう…」、騒ぎが終わった後で、病院の窓から和霊神社の方向を眺めながら、男はつぶやいた。
 翌78年には4例の腎移植が宇和島でおこなわれた。いずれも広島大福田による支援を受けている。福田は検査技師の宮本や看護師に検査法や移植後の患者管理の指導を行うだけでなく、病院が独立して腎移植を行えるようになっても、しばらくはHLA検査を引き受けてくれた。
 そのうち泌尿器科に新人が加わった。やはり山口大卒の平尾博である。男の5級ほど下だが、学位問題をめぐり泌尿器科の教授と喧嘩になり、教室を飛び出した。男の同級生で、泌尿器科に一緒に入局した仲間があっせんして、市立宇和島病院に勤めることになったのだ。こうして泌尿器科の常勤医は4名になった。生体腎移植を続けるのに必要な最低限の医師数である。
 いつまでも広島大の支援に頼ってはいけない。いささか泥縄的だが、内科出身で英語雑誌に詳しい土山が文献を集めてくれて、泌尿器科の4人が定期的に英語論文の抄読会を始めた。土肥講師の移植方式はワシントン州立大学の、スクリブナー、マキオロ両教授からじかに習ったものだ。論文を読むと、今はウィスコンシン大学のベルツァー教授が腎移植では最先端にいるように思えた。F.O.ベルツァーは70年代から80年代にかけて、世界的な一流誌に「移植用臓器の保存」、「有効な死体腎移植計画の組織化」、「腎保存の未来」といった題の、意欲的な総説を発表していた。
 1978年春のある日、男は突然、近藤副院長のところに現れた。
 「腎移植の勉強のためアメリカに留学したい。ダメなら病院を辞めてでも行く」という。
 聞けば留学先はウィスコンシン大学のベルツァー教授の教室で、手紙で「来てもよい」という許可をもらってあるが、グラント(奨学金)はないという。単身留学する予定だというから、本人の生活費と留守家族の生活費の両方が必要となる。田舎町の宇和島で病院から医師を海外留学させた前例はない。
 近藤の病院は市立病院で、「前例主義」のお役所の一種である。しかし手をこまねいていると、この男は本当に辞職してでも渡米しかねない。そうなったら、せっかく立ち上がりかけた「宇和島腎移植プロジェクト」は元の木阿弥になる。そこから近藤による大車輪の活動が始まった。
 西河病院長はすんなり賛成してくれたが、市立宇和島病院からの海外留学は、病院始まって以来のことである。「前例がない」と渋る事務局長を説得するのに大変苦労した。近藤が得意の殺し文句「責任は私が持つ」、を連発して何とか市に認めさせた。市が予算を付けてくれ、留学費用は病院から出せることになった。が、こうした舞台裏の苦労話は男のあずかり知らぬことである。
 ウィスコンシン州は東を五大湖のひとつミシガン湖で限られ、西をミシシッピ河で境された、合衆国北部の州である。ウィスコンシン大学は内陸部の州都マディソン市にある。
 たまたま、男の同級生で一緒に泌尿器科に入った上領頼啓が、76年8月から2年間の予定で、文部省の長期在外研究員として、膀胱がんの研究のため、ここに留学していた。上領がたくさん男に書き送った「ウィスコンシン便り」に刺激されて、男の留学意欲が目覚めたのだ。 上領は情報通で宇和島の第1例腎移植をめぐる教室とのトラブルのこともよく承知していた。上領は助手、講師、助教授とアカデミアの道を歩むつもりだった。そのためには、教授や助教授のおぼえがよくない男の支援をするのは得策とはいえなかった。それでも男には上領を引きつける魅力があった。
 思えば医学生時代からの親友で、男が病理学の単位を落とした時には、男の特技を利用して厚東川に大ウナギを捕りに行き、10匹ばかりを教授宅に届け追試をやってもらうというアイデアも出した。国家試験合格後の自主研修では男とペアーになり、半年を大学で半年を徳山中央病院の勤務医として過ごし、徳山の病院の月給を二人で折半した仲だ。上領の親は耳鼻科医なのに、男が泌尿器科に行くというのでつられて入局したのである。ウィスコンシン大学の泌尿器科で膀胱がんの研究をしながらも、男宛に書く手紙にはつい男がやりたがっている腎移植についての、ベルツァー教授の新しい試みについても書くことが多くなった。
 1978年7月、1年の約束で男は、ベルツァー教授のところに研修に出かけた。マディソン空港には上領が迎えに来てくれた。ベルツァー教授に男を紹介したのは上領なのである。高校の頃、男は外交官を夢見ていて、英語には自信があった。
 「マディソンに着いて間もなくして7月4日の独立記念日が来た。夜空に花火が盛大に打ち上げられるのにびっくりした」と男は当時を回想する。男はパリ祭は知っていたが、独立記念日は知らなかった。(続)
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-09-30 08:18:31
7月1日の結審からもう三月が経ち、あと一月で判決の日を迎えます。
万波先生の事を知るにつけ、医師というものの有り様を思わされます。
患者さん達にとっても良い結果がもたらされることを願っています。
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