ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植ものがたり(11)絶望の深き淵より】難波先生より

2014-10-23 19:00:20 | 修復腎移植ものがたり
【修復腎移植ものがたり(11)絶望の深き淵より】
 男の親友、上領頼啓は83年2月に山口大講師から済生会下関病院に移り、泌尿器科部長をしていた。上領が男に助け船をよこしたのだ。
 「ウィスコンシン腎一対を下関に輸送する。成田に引き取りに行くのは下関の済生会病院が行う。成田から羽田を経由して博多空港に運び、新幹線で下関に輸送し、上領の病院で止めておく。1個は上領が移植に使用し、残りの1個は宇和島から病院まで取りに行く」という相談が二人の間でまとまった。
 下関病院ではUW腎の輸入基地となることを名誉なことと受け止め、病院をあげて支援することになった。上領には男と違って治験依頼がいくつかあり、自由になるお金もあった。
 86年10月、宇和島で「腎移植100例記念 宇和島シンポジウム」が開かれ、日本の腎移植の大御所太田和夫東京女子医大教授が記念講演をした。東京の大病院にいる太田すら100例達成に10年以上かかったが、男は四国の片隅にある病院にいて9年で達成した。ボブ・ホフマンもシンポジストとして招待された。上領はその後、ボブに依頼して下関で講演会をやってもらった。ボブは下関で大歓迎され、日清戦争の和平交渉が行われた春帆楼で、腎移植について医師を対象とした講演を行った。歓迎の晩餐会の後は、昭和天皇も泊まられた特別室に宿泊した。ボブの下関滞在中、上領は「日本では移植用の腎臓が足りないから、余ったのがあったらぜひ回してほしい」と頼み込んでおいた。
 下関病院の上領部長から連絡がある度、成田空港に出迎えに行き検疫、入管、税関の手続きを迅速に行い、国内輸送時間の短縮に協力したのが、下関市内で医療機械販売業を営む森若敏雄だ。彼は元もと三菱海運の社員で船乗りだった。64年に会社が日本郵船と合併し、郵船の社員となった後に独立した。貨物船に乗って世界各地を訪れていたから、英語は達者だった。それに会社を経営しているだけに、突発的な問題への対処能力もあった。そこを病院に見込まれたのだ。
 通算3回目のウィスコンシン腎輸送は87年1月6日に行われた。森若は到着予定日の前日に成田空港に行き、到着時にトラブルが発生しないように、あらかじめ検疫、入管、税関の3カ所に話をつけておいた。当日、特別に空港内車両を出してもらってタラップの下で待ち受けていると、クーラーボックス一つを肩にかけた若い大男が降りてきた。それが医学生ヴィクター・ホフマン(25)で、ボブの長男だった。ヴィクターはそれ以外の手荷物も、別送品もまったくなしなのには、さすがの森若もあきれた。おかげで予想したようなトラブルは一切なしで入国できた。二人は羽田に移動し、博多空港へ飛び、新幹線を使って新下関駅へ移動し、車で済生会下関病院に到着した。
 森若も上領も、腎臓は攪拌装置の付いた容器に入って来るものとばかり思っていた。ヴィクターが持参したクーラーボックスの蓋を開けて、ふたりは仰天した。砕いた氷の上に腎臓2個が載っているだけだった。4年間に保存液が大きく改良されていたのだ。下関の腎臓は1月7日、透析歴12年の検査技師植村求(37)に移植された。術後経過は順調で2月24日に退院した。
 宇和島からは泌尿器科の医員大岡啓二が来て待機していた。大岡は新幹線で博多に出て、博多空港から松山空港に飛び、松山駅から特急列車で宇和島まで腎臓を持ち帰った。
 この時のマディソン市の旅行会社インボイスがのちに見つかった。往路はマジソン=シカゴ=成田ともファーストクラスを利用。腎臓を引き渡した帰路はビジネスクラスを使っている。旅費総合計は1,965ドルだった。当時の為替レートは1ドルが145円で、約30万円かかっている。時代は急速な円高に向かっていた。
 ベルツァー教授の腎臓提供はその後も2回続いた。日本への輸送は合計5回10個に及んだ。うち7個が宇和島で使用され、3個が下関で利用された。森若は結局3回、成田空港へ出迎えに行った。
 この空輸実験にも助けられてベルツァー教授の「臓器保存液」の開発は進み、80年代の末には「ウィスコンシン大学液(UW液)」が開発された。UW液は、現在「ヴァイアスパン」という商品名のもとに世界中で広く臓器の保存・輸送に使用されている。
 87年1月に輸入された2個のUW腎のうち、宇和島に運ばれ一個はある数奇な運命につながった。
 1983年の1月、市立宇和島病院の泌尿器科に入院中の二人の女性患者が知り合いになった。一人は松本里子といい26歳の女性で腎不全のため入院して透析を受けていた。彼女に腎臓を提供してくれる身内はいなかった。もう一人は三好篤子(36歳)で、血尿が出るため検査入院したのだが、いくら調べても原因がわからない。いわゆる「特発性腎出血」で、まれな病気である。
 「治療はわるい方の腎臓を取るしかないんよ」、と篤子が若い女に話して聞かせた。すると里子が、
 「とった腎臓を私にちょうだい。万波先生に移植してもらうから」といった。
 たまたま二人とも血液型はAB型で一致していた。
 篤子も「ひょっとしてうちの体質に合わんから血尿が出るんかも知れん。このひとの体内なら前のようにまともにはたらくかも知れん」、と思った。ふたりはこのアイデアを何度も話し合った。こうしてドナーとレシピエントがそろって男に手術を依頼するという、前代未聞の事態が起こった。
 この時点で男は、約30年前の1956年に、新潟大学で楠教授が特発性腎出血の腎臓を移植に用いたことを知らなかった。二人が合意して手術を頼んでくる以上、臨床医としてこれを拒否する理由は見つからない。そこで2月14日に篤子の腎臓を摘出し、里子に移植する手術を行った。「特発性腎出血」という病気の腎臓を、他の腎不全患者に移植するのだから「病腎移植」そのものである。
 楠移植の時代と違ってサイクロスポリンAがあるから、この腎臓は生着した。だが患者と医師が望んだのとは違って、症状も移植されてしまった。里子がトイレに行く度に、真っ赤な尿がほとばしるのだ。気味が悪くてたまらない。血尿が嫌なら腎臓を取り出すしかない。そしたら、あのつらい透析に戻らなくてはならない。
 結局5月30日になって、この腎臓は摘出され里子はまた嫌な透析生活に戻った。
 彼女の悲惨な最期を覚えている関係者は多い。けれどもこの移植が「病腎移植」の宇和島第1号であり、その改良されたものが「修復腎移植」だと理解している人は少ない。
 里子はその後3年間、人工透析を続けた。男の脳裏には絶えず彼女のことがあったが、ドナーがいないので打つ手がなかった。里子のHLA抗原はA2-24というまれなものを含んでおり、主要HLA抗原であるこの部分が一致しないと、どうにもならないのである。
 87年1月、大岡が下関から宇和島に持ち帰った42歳白人女性のUW腎が同じ抗原を持つことが判明した。こうして再開1回目のUW腎は急遽1月7日に村木里子に移植されたのである。この腎臓は脳死体から摘出されたものだった。これは正常腎だから「病腎移植」ではない。手術は順調に行き、急性拒絶反応も免疫抑制剤で乗り切った。だが今度は慢性拒絶反応が出てしまった。前のように血尿こそ出ないが尿量は日毎に減少して行った。
 「このままこの腎臓もダメになって取り出されると、またあのつらい透析に戻らねばならない。結婚もできないし、子供も生めない人生。それが私の一生なのか…」
 彼女は頭が混乱してきて、どうしたらよいのか分からなくなった。
 深夜だった。そっと病室を抜けて、引き寄せられるように5階建病棟の屋上に登った。もう人も車も出入りがなかった。下は真っ暗だった。女は夜の冥い淵を見つめているうちに、衝動的に柵を乗り越え闇に身を投げた。
 だがそこには高いコンクリート塀があった。女の身体は塀に叩きつけられ、背骨が折れ、身体が二つ折りになった形で塀に引っかかり、内臓が破裂した。高い塀から遺体を降ろすのは警察の手では無理で、消防のはしご車が来た。パトカーに消防車が出動し、照明灯が現場を照らした。遺体を降ろし、検死する作業は一晩中続いた。サイレンと照明で、患者や野次馬が集まり大騒ぎになった。院長の近藤も男もずっと作業に立ち会った。
 こうして83年2月におこなわれた里子への「特発性腎出血」の腎移植が最初の「病腎移植」になった。男は長らく落ち込んだ。だが里子の死は無駄にならなかった。里子と篤子が蒔いた種は4年後に、広島県の呉市で別の医師により別な疾患腎でちゃんと芽生えたのだ。移植手術をおこなったのは呉共済病院の光畑直喜である。(続)
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