ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植ものがたり(9)ウィスコンシン再訪】難波先生より

2014-10-13 22:17:32 | 修復腎移植ものがたり
【修復腎移植ものがたり(9)ウィスコンシン再訪】
=修復腎移植論文=
 これについて東京西徳洲会病院の小川由英先生から「英文論文を書き上げ、国際誌に投稿した」というメールがあった。ご苦労様でした。これを受けて徳洲会の厚労省への「再申請」も始まると予想される。
 愛媛地裁の判決が10/28(火)なので、これに影響を与えることは望み薄だが、あれは「損害賠償」裁判なので、判決のいかんにかかわらず、修復腎移植問題が前に進むことが期待される。論文要旨については次号で紹介したい。各種メディアはきちんと資料調べをして、誤報のないようにお願いしたい。日本の臓器移植が普及するかどうかは、いまや修復腎移植を国が認めるかどうかにかかっていると言っても過言ではない。

[物語あらすじ] 山口大学医学部を出て泌尿器科医となった男万波誠は徳山の県立病院のすすめで四国宇和島市の市立病院に就職した。ところが科長が儲かる人工透析で開業してしまい、一人医長になるが、副院長の内科医近藤や医局に残った親友の上領の協力で医者を集め、診療を続ける。
 親譲りの性格で患者の福祉にしか関心がない男は、やがて腎移植以外に根本的解決はないと悟り、広島大医学部の協力をえて、四国で最初の腎移植を行う。が、山口大泌尿器科の教授・助教授から嫉妬と怒りをかってしまい、医局を破門される。
 男の技量と意気に感じて、弟の廉介や同窓の西、光畑など、岡山大卒の医師たちも腎移植の協力者となる。こうして「瀬戸内グループ」が自然発生的に形成される。が、初期の腎移植の成績はみじめだった。
 そこで男は移植研鑽のためアメリカに、市立宇和島病院で初めての海外留学を敢行する。
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 男は1979年に第1回目のウィスコンシン大学留学から戻り、自分で執刀して腎移植を始めた。この頃は移植腎の拒絶を防ぐのに、免疫抑制剤としてプレドニンとイムランが使われていた。プレドニンはステロイド剤でリンパ球を破壊し、免疫系全体を抑制することにより、拒絶反応を抑える。イムラン(化学名アザチオプリン)は、DNA合成を阻害することで免疫担当細胞であるリンパ球の産生を抑え、免疫反応を抑制する。どちらも免疫反応を非特異的に全部抑制することで、臓器の拒絶反応を抑えこむという戦略だ。
 臓器移植では、こういう免疫抑制剤を大量に投与しなければならない。こうなると恐いのが「日和見(ひよりみ)感染」である。健康な人体には多種類の細菌が常在しているが、人間とうまく共生関係を保っている。完全な「無菌人間」は生きて行けないのである。しかし免疫力が弱まると、普段は害を与えない細菌やウイルスが急激に増殖し、猛威をふるうことになる。帯状疱疹(帯状ヘルペス)は子供の頃に感染した水痘(水疱瘡)のウイルスが体内に潜んでいて、再活動することによる日和見感染である。
 常在菌は抗生物質に慣れっこになっているので、日和見感染ほど治しにくい感染症はない。病院というところは「太陽がいっぱい」どころか、「細菌がいっぱい」なのである。MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)は院内感染の典型だ。1968年に札幌医大で日本最初の心移植を受けた、宮崎信夫君の死因は緑膿菌感染だった。緑膿菌はごくありふれた細菌で、鼻腔に常在する細菌の一種である。宇和島第4例目の腎移植患者も日和見感染のため、悲惨な状態で亡くなった。
 この頃の男には、家族をよく海水浴に連れて行く余裕があった。宇和島に就職してから生まれた娘二人は小学生だった。素潜りが得意で、ヤスを片手に海に潜っては魚を突いて、捕った魚をその場で焼いて食べさせてくれた。しかし病院での仕事のことは家では一切口にしなかった。妻が問いかけると「男は黙ってサッポロビール」と答えたものだ。三船敏郎によるテレビ・コマーシャルの文句だった。
 妻には話さなかったが、男はコウノタダシの夢をよく見た。あの緑膿菌の全身感染で脳をやられ、「先生、助けて!」と大声で叫んで絶命した第4例目の青年だ。悲惨な最期を思い出し、「すまなかった…」と心のなかで詫びた。びっしょりと寝汗をかいていた。男の「原罪」につながる悪夢だった。「もっと良い免疫抑制剤はないものか…」といつも思った。
 1980年、移植医を喜ばす出来事が起こった。1971年からスイス・バーゼルで研究が進められていた新しい免疫抑制剤「サイクロスポリンA」が、ピッツバーグ大学のトーマス・スターツルにより肝移植に利用され、臨床応用が可能となったのだ。ノルウェイの土壌真菌(スポア)から分離され、11個のアミノ酸が環状(サイクル)になった物質なので、サイクロスポリンと命名された。この薬はイムランと異なり、拒絶反応に関与するT細胞だけを選択的に抑制するので、生着率が向上するだけでなく日和見感染の頻度が激減する。
 他方日本では、透析患者が4万人に近づいた1980年3月、「角腎法」がやっと施行された。すでに78年から腎移植に健康保険の適用が認められていた。角膜だけでなく、「死体から腎臓を摘出して、移植に利用する」ことが合法化され、臓器移植をめぐる状況が一変した。けれども利用できる腎臓は限られている。脳死体が最もよいのだが、1968年札幌医大での「和田心臓移植」は深い爪痕を残していた。幸い、角膜と腎臓は酸素需要度が低いので心臓停止後の遺体からでも移植が可能である。そこで「角腎法」がまず制定されたのだ。だれもがつらい透析をやめ腎移植を受けたいと思う。腎臓不足は年ごとに深刻度を増していた。
 男は新薬サイクロスポリンのことを泌尿器科の勉強会で知った。また「瀬戸内ネットワーク」で提供された死体腎を僻地の宇和島まで運ぶには、特別な臓器保存方法が必要なこと、その研究をやっているのがウィスコンシン大学のベルツァー教授であることも知っていた。移植成績を向上させるには、イムランとプレドニンだけではダメで、サイクロスポリンが必要となる。臓器保存方法の知識も必要になる。
 男は81年に、近藤院長に2度目のアメリカ留学を願い出た。今回は短期で3ヶ月の予定である。幸い院長は事務局長と相談して、心よく病院から「出張」の扱いにしてくれた。留守をバックアップする廉介、土山、平尾がいてくれたせいもあった。
 その後も男は移植に行き詰まると、気軽にウィスコンシン大に出かけた。全部で何回行ったかは本人も覚えていない。パスポートも保存されていないので書類確認もできない。1988年7月、ウィスコンシンにいた男のところに、西光雄が見学がてら遊びに行ったという証言がある。
 男は81年1月に宇和島を発ち、真冬のマディソン市へ、ベルツァー教授の教室へと行った。移植コーディネーターのボブも教授も、喜んで迎えてくれた。前回はお客さんだったが、宇和島での腎移植の実績を聞くと、今度は「仲間」として扱ってくれた。移植手術への立ち会いはおろか、メスも握らせてくれた。サイクロスポリンについての情報も入手できた。
 腎臓保存の研究はまだ完成しておらず、あらかじめ保存液で潅流した腎臓を、保存液と氷を満たした装置に容れ、モーターで保存液を時々攪拌するという方式だった。実験的には74時間つまり3日間、腎細胞が生きていることを確認してあるが、実地でのテストは2日間までしか行われていなかった。北米大陸の中なら、2日間もかかることはまれだからである。ベルツァーの心に「マコトのところに腎臓を送れないか」というアイデアが生まれたのは、両手利きで見事なメス使いをする男の腕前に感心したからである。
 西海岸では、日系二世でUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)移植外科教授のポール・テラサキが中心となって、米国内にはHLAが適合するレシピエントのいない(したがって廃棄される)腎臓を日本に供与する計画が、81年5月から始まっていた。いわゆる「US腎」である。この腎臓は仙台や東京など東日本の大きな移植施設で使用され、とても宇和島までは回ってこなかった。
 ベルツァー教授にはアイデアがあった。ウィスコンシンから宇和島へ、この装置で腎臓を送ってテストしてみたいと思ったのである。マコトの移植の腕が確かなことは自分の眼で確認していた。しかしベルツァーの「ウィスコンシン腎」供与は、テラサキ・プロジェクトに先を越された。3ヶ月の研修は実り多く終わった。近藤院長への帰国報告は新しい免疫抑制剤サイクロスポリンの話が中心となった。
 翌82年6月のある深夜、万波家の電話が鳴った。相手はウィスコンシン大のボブ・ホフマンだった。
「ハロー、マコト。いいニュースだ。ボスが、余った腎臓を保存液と保存装置に入れて、宇和島に送るから移植に使ってくれ、というんだ。」
 男は息をのんだ。
 「装置に付き添う技師には俺の部下の技師アーモンド・マカティーをつける」、という。
 翌日、男は市立宇和島病院の院長室に弾んでやってきた。
 近藤院長との間にこういうやり取りがあった。
 「先生なあ、ドクター・ベルツァーが、余った腎臓、ただでやるいうんじゃ。ただじゃぞな」
 「ただねー。ただほど高いものはない、というよなあ。で、いったい、この辺鄙な宇和島まで何時間かかるのよ、ウィスコンシンから?」
 「うーん、二日、三日はかかるじゃろなー。じゃが、ドクター・ベルツァーが、腎臓を長う生かしておくシステムを開発しとるんで、それは大丈夫。向こうのコーディネーターが責任を持って運んでくれる」
 「それは大丈夫としても、飛行機代やタクシー代、ホテルの費用、滞在費なども入れると、結構高い“ただ”だよ」
 アメリカの腎臓を輸入して移植に使いたいというのだから、院長も驚きかつあきれた。
 だが前例はあった。81年に日本国内の臓器不足を聞いて、ポール・テラサキが、脳死体から取りだした腎臓で、アメリカ国内で余ったものを有償で日本に提供するという計画を推進し、費用患者負担で81年5月から1995年5月に中断されるまで、約190個の腎臓が輸入され、移植に使用されている。
 「はじめに言葉ありき」が新約聖書「ヨハネ伝」のはじまりなら、「はじめに行いありき」が万波聖書のはじまりである。こんな田舎町の病院へアメリカ中西部の大学から腎臓を空輸したら、メディアが大騒ぎし愛媛県内の大きな病院や大学から嫉妬されるにきまっている。が、もう後には引けない情勢になっていると知ると、近藤院長も「打って出る」腹をかためた。ためらう事務局を説得し、受け入れの用意を整えた。(続)
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