【金がなくなる法隆寺】子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は有名な句だが、日本近代文学館編『日本の近代文学』(読売新聞社, 1964)に 俳人の楠本憲吉が面白い話を書いている。
明治28年4月に新聞記者として日露戦争に従軍した正岡子規は、満州に渡ったら5月に休戦となり、帰国する途中の船中で肺結核による大吐血を来たし、神戸の病院に入院加療を受けた。
8月に退院し、郷里松山に戻り、松山中学の英語教師をしていた夏目金之助漱石の下宿に転がり込む。夏目は人がよいから、家主が「肺病はうつるから危険だ」というと、「離れの二階二間を私が借りるから、下の二間を貸してやってくれ」という。もちろん家賃は漱石持ちである。
で、子規は毎日昼には、「滋養をつけねば」といって鰻の蒲焼きを取り寄せて食う。この払いは漱石の「顔」によるつけである。
2ヶ月後、体調が回復した子規は東京に戻ることになるが、漱石にこういう。「明日東京に戻る。すまんが蒲焼き代は、君が払っておいてくれないか。それともう一つ、十円貸してくれないか」
こうして松山を発った子規が立ち寄った先が、奈良。この時、漱石のところに葉書が来て、「お借りした金子、当地にてまさに使い果たし候」とあったという。
この時できた句が、「柿食えば金がなくなる法隆寺」で、いいかえたのが「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。
さあ、どっちが本音でどっちが名句だろう。
明治28年4月に新聞記者として日露戦争に従軍した正岡子規は、満州に渡ったら5月に休戦となり、帰国する途中の船中で肺結核による大吐血を来たし、神戸の病院に入院加療を受けた。
8月に退院し、郷里松山に戻り、松山中学の英語教師をしていた夏目金之助漱石の下宿に転がり込む。夏目は人がよいから、家主が「肺病はうつるから危険だ」というと、「離れの二階二間を私が借りるから、下の二間を貸してやってくれ」という。もちろん家賃は漱石持ちである。
で、子規は毎日昼には、「滋養をつけねば」といって鰻の蒲焼きを取り寄せて食う。この払いは漱石の「顔」によるつけである。
2ヶ月後、体調が回復した子規は東京に戻ることになるが、漱石にこういう。「明日東京に戻る。すまんが蒲焼き代は、君が払っておいてくれないか。それともう一つ、十円貸してくれないか」
こうして松山を発った子規が立ち寄った先が、奈良。この時、漱石のところに葉書が来て、「お借りした金子、当地にてまさに使い果たし候」とあったという。
この時できた句が、「柿食えば金がなくなる法隆寺」で、いいかえたのが「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。
さあ、どっちが本音でどっちが名句だろう。
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