Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

清水次郎長と山岡鉄舟

2015-02-20 22:12:19 | Weblog

 山岡鉄舟を調べていると、侠客清水次郎長と懇意であったことが伺えた。以前にもふれたが、官軍に追われ由比の「望嶽亭」の主人松永七郎平が転機に助けられた山岡鉄舟は、七郎平によって海岸から櫓舟で江尻湊(清水港)に向わせた。そこから次郎長宅で匿われ、慶応4年3月8日はそこで過ごした。清水次郎長を感心するのは、彼は官軍から街道警護役を言い渡されていた。それなのに幼馴染の松永七郎平からの伝言を受け、幕臣 山岡鉄舟が官軍の参謀 西郷隆盛と、維新を実行するため直談判することをサポートしたことである。

 そして翌9日朝に、次郎長は山岡鉄舟を守り、久能海道を通って駿府に入り、無事官軍の参謀がいる松崎屋まで送り届けている。西郷と会った鉄舟は、幕臣と云っても身分は低かったが、決死の覚悟で西郷と交え、主張すべきはきちっと話し会談を成功させた。その時清水次郎長達は、山岡鉄舟を上伝馬町の松崎屋源兵衛宅に入る手前で別れ、道端にたたずんでいたとあった。また同年8月旧幕府海軍副総裁 榎本武揚が率いる艦隊の内、咸臨丸は房州沖で破船し修理のため清水港に停泊していた。それを新政府海軍に発見され交戦となり船は沈没し、乗組員全員が死亡し、湾内に浮遊する屍となった。それを集め浜辺に埋葬して葬ったのが次郎長であった。その行為が駿府藩の耳にとまり、出頭、詰問を受けたが、そこで次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もない。仏を埋葬することが悪いと云うなら、次郎長どんな罪でも喜んでおうけします」と応えた。後でそのことを聞いた駿府藩大参事の山岡鉄舟は、改めて次郎長の義侠心に深く感じ入った。鉄舟は明治21年に亡くなるまで親交は続いた。

 次郎長は自分より17歳も年下である鉄舟に心酔し「自分の親分は山岡鉄舟」と公言するほどであった。また剣・禅・書に長けた鉄舟を師とあがめ、彼から多くのことを学んだ。また鉄舟は、清水の由緒ある久能寺が荒れ果てていたのを惜しんで再興を図った。そしてたくさんの書と共に募金の趣意書を次郎長に与えた。そこには「鉄舟寺庫裡建立募縁山本長次郎簿」とあり ≪寺を建てても何にもならぬ。親を大事にしても何にもならぬ。わが身を大事にしてもなんにもならぬ。何にもならぬところをよくよく観すればまた何かあらん。山本長五郎御往時を考えここに尽力することあり、諸君何にもならぬことを諒察あらば多少の喜捨あるもまた、何にもならぬ何かがあるの異なり≫ 明治21年2月山岡鉄舟記す。これは鉄舟寺にある。

 これは、山岡鉄舟が亡くなる5カ月前に書き、清水次郎長(山本長五郎)に託したものである。現在荒れ果てた旧久能寺は鉄舟寺として蘇っているが、ここにも鉄舟と次郎長の繋がりを見ることができる。

 


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