Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

築山殿のこと

2016-02-11 23:59:35 | Weblog

 徳川家康の正室であり、非業の死を遂げた築山殿のことを調べた。築山殿は駿河今川氏の有力家臣で、駿河持船城主の関口親永の娘であり母は今川義元の妹であった。つまり義元の姪にあたり、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引いている。温厚で優しい築山殿の話があったとき徳川家康は直ぐ決めた。築山殿は今川義元が養女となり、人質となっている松平元信(後の徳川家康)と結婚した。今川義元は、家康を将来今川家の家臣となり支えてほしい願った。

 この結婚は、弘治3年(1557年)共に15歳のときで、2年後の永禄2年(1559年)に信康を、同3年に亀姫を生んでいる。家康にとって嫁は、今川家に繋がる名家の出身であり頭が上がらないことが想像できる。永禄3年5月19日桶狭間の戦いで伯父の今川義元が織田信長に討たれた。すると元康(元信から改名)は、駿河に帰らず岡崎に帰還してしまい永禄5年には信長と清州同盟を結び今川家と決別する。、これに怒った今川氏真(義元に跡を継ぐ)は築山殿の父親である親永と正室を自害させる。今川館に残った築山殿と2人の子は今川氏に人質になったが、今川義元の妹の夫である上ノ郷城主・鵜飼長照の2人の遺児との人質交換によって家康の根拠地である岡崎に移る。しかし岡崎城には入ることが許されず、郊外の総持尼寺で幽閉生活を強いられた。この地が築山は云い築山殿の名前の由来となった。

 永禄10年(1567年)信康は織田信長の長女徳姫と結婚するが、依然として郊外に住まわされた。元亀元年(1570年)やっと岡崎城に移るが、同年、家康は浜松城に去った。その後信康、徳姫と共に岡崎城にとどまり、徳姫は天正4年(1676年)長女を、5年(1677年)次女を産んでいるが男子でなかった。心配した築山殿は、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となった浅原昌人時の娘および日向時昌の娘を信康の側室に迎えさせる。築山殿にすれば家康が今川を見捨て織田信長に組したこと。そのため両親が自刃させられたこと。また自分の子信康の嫁は、今川の宿敵信長の娘徳姫であることから、仲がいいわけがない。天正7年(1579年)徳姫は、築山殿と信康の讒言を父信長に訴状を送り付け、それにより信長は家康に信康の処刑を命じたとされる。築山殿は岡崎から家康のいる浜松城に信康の処刑を止まるよう嘆願に行く途中、小籔村(佐鳴湖の畔)で野中重政らによって殺害される。その半月後、信康は二俣城で切腹している。

 以上が通説であるが、近年、築山殿の殺害と信繁の切腹は、家康と信繁の対立が原因ではないかと云う説も出ている。戦国時代、生きるため、如何に対処したかに掛かっている。昨日の敵も今日の味方になるかもしれない。その中で徳川家康は勝者であったが、正室の築山殿の生き方は哀れとしか言いようがない。享年38歳であった。


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