Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

母の思い出(9)

2016-03-20 22:22:27 | Weblog

 父は、実直で、まじめな人間であり知識も豊富で粘り強いがリスクを冒してもやり抜くことはあまりしなかった。それに比べ母は、明るく社交的な性格であり、父を立て家庭を守もっているが、どこか余裕を持ったところがあった。困難に直面したときは母のほうが落ち着いて対処できる人間であると思った。そこには、女ながらも武士のDNAを持っているのかと思った。それを感じたのは、私が高校2年の夏休みの出来事であった。

 高校2年2学期は、自分の進路を決めなければならない時期であった。大学に行くにしても、文系か理系かを決め、将来はどのような方向に進むかを決めなければならない。父は同じ理系に進むことを願っているようであった。母は何も言わなかったが、お前が好きなことをやりなさいといった感じであった。私は高校に入っても学業は低迷していた。しかし、ひそかに音楽の道に進みたいと思っていた。その意思は中学2年後半ぐらいからあったが、父の期待もあり、そのことはずっと言えなかった。高校2年の夏休みに両親に初めて自分の進みたい方向を話した。父はそのような道に行くことは反対であり、我が家にはそのような余裕はないことをいった。母は黙っていたが父と同じであると思った。その後駄々をこねる子供のように、2日間誰とも口を利かずにふて寝して過ごした。しかし高校2年まで音楽の勉強もしていない人間が急にそんなことを言ったら、その答えしかないことも分かった。それに4人の妹や弟のことを考えるなら絶対に無理だとも思った。

 しかし母は違った。高校の担任の先生のところに行き実情を話し、どのようにしたらよいか相談に行った。そのことを祖父にも話したのか、祖父は家にきて私を諭すように話した。「まだ若いし遅いことはない。お前がやりたいなら、おじいちゃんはいつでも応援するから」このような話であった。担任の先生も動いてくれた。高校には音楽の先生がいなかったので、音大出で別の高校の先生のところに行くよう話してくれた。私もその先生のところに行って受験するまでのことを聞いた。それは2年間以上東京の先生にレッスンを受ける等厳しい内容であった。母は「父を説得するから、家族のことは心配しないで、自分の行きたい道に行きなさい」と言ってくれた。父も少しずつ認めてくれるようになっていった。しかし、私の気持ちは段々萎縮していった。自分に本当に音楽の才能があるのかといったことや、今でも家族はぎりぎりの生活をしているのに私のわがままを通せば妹、弟はどうなるのか等考えた。それでも自分の意思を貫く勇気は出てこなかった。2週間ほど考えたすえ音楽への道は諦めることにした。

 母は「何ごともしっかりした意思をもって行えば、必ず道は開ける。後のことは何とかなるものだ」といった考え方を持っていた。それ故、母は私が考え変わったことを残念に思ったようだ。しかしその反面、私が、この挫折から立ち上がれるかハラハラしながら見守ってくれた。私はその後も長い期間悩み続けた。両親は、私の気持ちが早く切り替わり、次のステップに進むことを願っていたが、切り替えは高校3年生になってもできず、ほぼノイローゼに近い状態になっていった。私が高校を卒業するとき、父は沼津に転勤することになり家族も引っ越した。私は浪人し沼津の予備校に通うことになった。

 


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