Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

明治天皇と山岡鉄舟

2015-02-23 23:39:45 | Weblog

 山岡鉄舟は 明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下り、慶応4年6月静岡藩藩政補翼となる。明治4年、廃藩置県に伴い新政府に出仕、静岡県権大参事となるが、西郷隆盛のたっての依頼によって、明治5年に宮中に出仕する。その時10年間の約束で侍従として明治天皇に支えることになった。彼は、国を挙げての大戦に敗れた幕臣であり、「朝敵家来」である山岡鉄舟が、明治維新でできた新政府国家の天皇陛下の侍従にと推挙したのは、西郷隆盛であった。官軍総参謀 西郷のところに、一人決然として現われ、幕府将軍 徳川慶喜の意思を伝え江戸城無血開城の筋道を説いた。これは予備会談であったが、彼の勇気と無我無私の忠胆なる鉄舟の振る舞いに感銘したことによるものだと思う。

 鉄舟が侍従になったのは30代半ばの壮年であった。剣、禅、書を嗜み精神面の修業は、常人には計り知れない大丈夫であった。まだ20代前半であった明治天皇の教育係として、彼は最適任者であると考えたのだ。彼は全身全霊を奉げて明治天皇のため尽くした。幾つかのエピソードが残っているが、その中から一つを話すと「明治天皇が鉄舟たち侍従と酒の席で、鉄舟に相撲を挑まれ、鉄舟を押し倒そうとされました。普通なら天皇に勝を譲るところですが、鉄舟は飛び掛かられた際に横にかわし、天皇は鉄舟の後ろに倒れてしまった。周囲は鉄舟に謝罪を勧めたが、鉄舟はこれに応ぜず。天皇としての振る舞いを諫言し、それでも陛下が私が悪いと仰せられるなら、謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げる覚悟であること」を決然と言った。

 明治天皇は鉄舟の言葉をお聞きになり「私が悪かった」と仰せになられた。決死の覚悟で御諫めになった鉄舟、非を素直に認めた若き日の明治天皇。このような、君臣互いに信頼の絆で結ばれていたことがうかがえる。また明治6年に皇居仮宮殿が炎上した催、鉄舟は淀橋の自宅からいち早く駆け付け、天皇擁護と跡処置にあたった。

 明治15年、約束どおり致仕いた後も明治天皇との信頼の絆は結ばれていて、山岡鉄舟が晩年胃癌に侵され食も細くなっていることを聞いた明治天皇は、何度も侍医や見舞いの品をお遣わせになった。あるとき自分も呑んでいたワインを贈り、病気に効くことを伝えた。このころワインは貴重なものであり病気に良いと錯覚して贈ったもののようだ。それに対し山岡鉄舟は陛下の優しさに感涙して「数ならぬ 身のいたつきを 大君の みことうれしく かしこみにけり」と詠んだという。 明治二十一年七月一九日、臨終には、皇居の方を向き、白扇を手にし、南無阿弥陀仏を称えつつ満場に笑みを見せ、妙然として現生の最後を遂げられた。絶命してなお、正座し、びくとも動かなかったと云う。歴史的評価は今一薄いが、幕末から明治維新を駆け抜けた一等の人物であったと思う。


最新の画像もっと見る