長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

195. 『佐倉モノづくり Festa2015・消しゴム版画ワークショップ』  

2015-05-30 21:11:37 | イベント・ワークショップ

今月16日(土)と17日(日)の二日間にわたり、地元のイベント『佐倉モノづくり Festa2015』に参加してきた。市の産業振興課からの依頼で、今年で4回目の参加となる。今までいろんな場所でワークショップを開いてきたが、ここ数年は作品制作やレクチャー関係が忙しくなってきたため参加する回数も少なくなった。

当工房が担当するのは『モノづくりワークショップ』という名称で、その場で老若男女、誰でも制作できる消しゴム版画をその場で制作して見せ、同じように彫ってハガキに摺ってもらうというもの。あらかじめ下絵は用意してあり、モチーフは市内で見られる身近な動植物など。早朝から準備をして会場に道具や荷物を運びこむ。今年も会場となっている公園や公共施設には多くの地元企業や商店のテントブースが立ち並んでいる。中央広場のステージではライブやアトラクションの練習が始まっていて忙しい。

老若男女とは言っても参加者の多くは親子連れである。今回も開始時間前には入り口に参加希望者がたくさん申込みに集まってきてくれた。定員を絞り、午前1回、休憩をはさんで午後2回開催する。会場に入ってくる子供たちは好奇心に溢れていて、みんな目が輝いている。制作手順を説明し、版の彫り方を実演してからいっせいにスタート。大人も顔負けの集中力で彫っていくのだ。今までの傾向としては女の子の方が集中力、持続力があり、男の子は杭月は早いが少し飽きっぽいように思う。しかし、最も集中力があるのはお父さんたちである。年少の子供の制作を手助けしているうちに自分が夢中になってしまうのだ。これも見ていると微笑ましい姿である。

今年からモチーフに市内の動植物以外に子どもたちに人気のある生物をくわえてみた。これは美大に通い絵画教室のアルバイトをしている長女からのアドバイスである。その中で1番人気があったのは「イルカ」だった。シルエットがシンプルではっきりとしているのと、親しみやすいイメージという理由からなのだろう。やはり若い人の意見は素直に聞くべきである。長女に感謝。

2日間とも満員御礼のうちに終了。小さな力作が出来上がった。展示などに活用させてもらうため摺りあげたハガキの中1枚に名前と日付を入れ提出してもらうのが恒例となっているのだが、この時、小さな頭をペコリと下げて「ありがとうございました楽しかったです」などと言われると毎度のことだが目尻が下がってしまう。2日間、心が和む時間を共有することができてこちらがお礼を言いたい。今年もこの機会を与えてくれたスタッフと多くの参加者のみなさんに感謝します。画像はトップがワークショップでの指導の様子。下が向って左から同じく指導の様子とイベント会場の風景。

 

      

 


194. 谷津干潟・春の渡りのシギ・チドリ観察。

2015-05-22 21:55:31 | 野鳥・自然

今月5日。ひさびさに習志野市の谷津干潟にの渡りのシギ・チドリ類を観察しに出かけた。毎年、ゴールデンウィーク前後は繁殖地へと向かう水鳥のシギ・チドリ類が日本列島の干潟や水田などに立ち寄っていく時期にあたり観察のベスト・シーズンとなっている。この時期に1-2回は谷津干潟を訪れるのが僕自身の年間行事ともなっている。

僕が野鳥観察を始めたのは今から〇十年前、高校二年の冬に東京湾岸の干潟に友人に誘われて冬鳥のカモ類や猛禽類を観察に行ったのがきっかけである。当時はまだ『バード・ウォッチング』という外来語が耳慣れず、市民権をようやく持ち始めるところだった。ただ、この延々と広がる埋立地に泥を運ぶサンドパイプが伸び、大型ダンプカーが砂埃をたてて走り回っていたのをよく憶えている。そして、大規模な自然破壊の象徴でもあるこの地から野鳥観察を始めたことが、その後の僕の自然観を決定してしまったと言っても過言ではない。高度経済成長の真っただ中にあって、かつて渡り鳥の一大中継地として世界中の鳥類学者の注目を集めていた東京湾周辺の水辺は、「開発」の名のもと、見るも無残に破壊されていた。それでも野鳥たちはその片隅に残された水辺環境で生き続けていたのである。初めて望遠鏡越しに観た水鳥たちの美しさの虜となり、以来、ずっと通い続けることになって今日まできている。

この日は『大潮』。予報では谷津干潟は昼ごろ干潮で午後から夕方に向かって満潮となっている。干潮時に干潟全体に分散していたシギ・チドリ類は潮が満ちてくると近い距離に集まってくる。つまり、ちょうど良い観察日和ということである。昼ごろに干潟の北側に到着するといつものように時計回りに周遊路を歩き始める。双眼鏡で干潟全体をを観まわすがシギ・チドリの姿は少ない。ダイゼン、キアシシギ、チュウシャクシギが少し観られただけ。「今日は欲をかかずにノンビリと観ることにしよう」。日陰のベンチで持ってきた昼食をすませ東岸から南岸に向かってさらに歩いて行く。午後二時過ぎ、ダイゼンとキョウジョシギの60羽ほどの混群が飛んできた。東岸の干潟にはハマシギとメダイチドリの小群が近い距離で観られた。潮が満ち始めるまで、まだ時間がある。観察センターの先の淡水池を覗いて来ることにしよう。

淡水池ではたいした収穫はなかった。時間となったので南岸の四阿にもどる。干潟の中央に真っ赤な夏羽となったトウネン11羽とチュウシャクシギが31羽観られた。今日はチュウシャクシギをよく観る。四阿に集まって来ていた鳥屋さんの中にここでよくお会いするK氏を見つけた。挨拶も早々、鳥情報をお聞きすると「昨日は夏羽のオオソリハシシギ数十羽が目の前に並んだんだけど、今日は1羽も見ない」とのこと。まぁ、そーゆーことはよくあるんだよね。タカの仲間でも出現したのかなぁ。しばらく雑談をしていると水路からグングンと潮が上がってきたので、最後にシギ・チドリが集まる東岸のポイントに向かう。

東岸のポイントに集まってくるシギ・チドリを望遠鏡で観察していると、後ろからここで長く野鳥のカウント調査を続けているベテラン・バーダーのI氏と鳥類図鑑画家のT氏夫妻がやってきた。ひさびさの再会で鳥談議に話がはずんだ。いつの間にか日入りの時間も近づいていた。今日はこの辺でタイム・オーバーとなったのでみなさんに挨拶して帰路に着いた。最後に残された夕暮れの干潟ではシギ・チドリ類の哀調をおびた声が響き渡っていた。画像はトップが満潮時に集まってきたシギ・チドリ類。下が向かって左から北側から見た谷津干潟、チュウシャクシギ、メダイチドリ。

 

      


193. 水彩画・『わし座』を描く。

2015-05-16 21:04:26 | 絵画・素描

今月は絵画作品として星座の中の『わし座』をテーマとした水彩画を1点制作した。神話・伝説シリーズの星座編、第1作である。

「夏の大三角」の最後の星と言えば、わし座の1等星アルタイルである。天の川の中で、対岸の星ベガとともに輝くこの星は両側に一つずつの小さな星を従えている。少し崩れた十字形をした、わし座の姿は大きな翼を広げ、空を飛翔する鷲の姿を連想させる。アルタイルという名は砂漠の上空を飛翔する鷲の姿を想わせるということで、アラビア語で「飛翔する鷲」という意味を持っているという。古代ギリシャ神話では、わし座の鷲はゼウス神の武器である雷電を運ぶ黒鷲とされている。この鷲は神の使者であり、人間の住む地上を飛び回っては多くの情報をゼウス神に報告したとされている。

水彩画作品は天体や宇宙を想起させる「円窓」の構成をとった。この小さな円形の窓から大宇宙が広がっているような思いを込めて描き進めていった。宇宙空間を飛翔する鷲はやはり白色の羽衣がよく似合う。わし座だけでは寂しいので、同じ天の川のわし座アルタイルのすぐ東に、菱形に並ぶ小さな星座『いるか座』も画面の隅に描いた。

そう言えば僕の工房のある町は少しはずれると、人家もまばらで大気の澄んだ夜には星がクッキリとよく観られる。朝から制作をつめて疲れるとベランダや外に出て星空を見上げるのが、日課となっている。天体に詳しいわけでもなく、星座を観察するわけでもない。ただなんとなく見上げるのだが、気が付くと次から次へと空想が膨らみ、けっこう時間が経っている。その時、この太陽系の小さな塵のような青い星に奇跡のように生きている自分自身をいつも想う。宇宙の広大な空間と気の遠くなるような時間的なレベルから観れば、この小さな星の人間の一生もシャクトリムシの一生も誤差範囲のわずかな時間でしかない。『一刹那』ということに何の変わりはないのである。それなのにいつまで経っても自分たちの小さな物差しで測っては、どっちが長いの、優れているのとワイワイ騒いでいる。なので、紛争は絶えない。いったい、僕たち人類はなんのために、この一瞬の生を授かっているんだろうか。答えなど出るはずもない問い、一瞬一瞬の思いを形にするために、しばらく『星座編』を描き続けることにするか。画像はトップが制作中の水彩画作品『わし座』の部分。下が同じく作品の部分、仕事机の上の使用した画材など。

 

   


192. 開創一千二百年・高野山滞在記 (六)最終日・塔巡り 

2015-05-08 21:18:59 | 旅行

6回に亘ってつづってきた高野山滞在記も今回でようやく最終回となった。それだけ旅の内容が濃かったということだねぇ。最終回は4月12日の最終日、この開創1200年の年、日曜日でもあり帰りの電車の混雑が予想される。情報では午後は電車のチケットが購入し難くなるという。お昼前後に高野山を出発したい。と、いうわけで、壇上伽藍を中心とした塔巡りをすることにした。

仏教建築の中で塔ほど魅力的で象徴的な存在は他にない。『塔』は古代インドの言語であるサンスクリット語ではストゥーパ(Stupa)という。あの日本のお墓にある卒塔婆(そとば)はその音写である。その起源は仏教以前に遡り、王などの供養塔であったとされる。モニュメント的な性格が強かったようである。仏教に取り入れられたのはブッダの入滅後、その帰依者だったアショーカ王によって建立されてから広まったとされている。全インドに8万4千の塔を建立したと伝えられている。主な素材は泥土や石材で作られ、初めはブッダの仏舎利(遺骨の一部)を収めていたのだが遺骨はいくら細分化しても限りがある。時代が下って、それが経典や仏像へと変化していった。日本では大規模な塔はすべて木造で現存するものでは三重塔、五重塔などが多い。奈良・法隆寺の五重塔、京都・東寺の五重塔などは代表的なものである。

朝食後、宿坊でチェック・アウトを済ませてから観光地図で塔の位置を確認し、真っ直ぐ壇上伽藍へと向かった。蛇腹道から歩いて行って最初に出会う塔は『東塔』である。もともと1127年白河上皇の御願によって創建されたが1843年に焼失。1984年、弘法大師御入定1150年を記念して140年ぶりに再建されたものである。さほど大きくはないが端正でよくまとまったデザインの塔である。伽藍内のいくつかの小さな御堂を見ながらさらに進み、中央の広場上になった場所まで来ると大きくそびえ立つ朱色の『根本大塔』が現れる。弘法大師・空海が高野山を開創する際に「高野山上に曼荼羅世界を」と構想し、胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅に基づいて諸建築を配置したと伝わっているが、その中心部にシンボリックな存在となっているのが、この大塔である。この塔も何度かの火災で焼失し再建されたが、現在の塔は1937年に建てられたものである。塔の正面に立つとその大きさとダイナミックな形態に圧倒され、首が疲れるまで見上げてしまう。堂内には本尊・大日如来と金剛界の四仏を中心に立体曼荼羅を擁し、周囲をお参りすることができる。ここでゆっくりと本尊と対峙し、お参りした。根本大塔を出て少し西側に進んだ鬱蒼と木々が茂った場所まで来ると『西塔』に出会う。この塔も開創当時から構想されたもので、根本大塔と一対をなすように、そびえ立っている。現在の建物は江戸時代、1834年に再建されたものである。堂内にはこちらも本尊・大日如来を中心に胎蔵界四仏(重要文化財)を配している。とても大きくてどっしりと存在感のある塔だが、ほどよく年代を感じるせいか、周囲の木々とよく調和している。個人的に僕はこの西塔が好きである。

話は塔から離れるが、この根本大塔と西塔の中間に『御影堂』というお堂が建っている。ここのご本尊は弘法大師・空海の御影(肖像画)なのだが、この御影を描いたのが空海十大弟子の一人、『真如法親王』である。この人は平城天皇の第三皇子で俗名を高丘親王という。出家後、862年、唐(中国)に渡り、さらに天竺(インド)を目指すがシンガポールあたりで消息不明となってしまった…ここまで書くと文学好きにはピンと来た人もいるだろう。そう、澁澤龍彦の晩年の歴史幻想小説『高丘親王航海記』の主人公その人なのである。

帰りの時間と相談しながらの今日の行動である。時計を見るとまだ少し余裕がある。あと、一つだけ再会しておきたい塔があった。伽藍を出て速足で目的の寺院に向かった。中央道を東に向かい千手院橋の交差点を過ぎたあたりで右折、小田原谷という地区の緩いが少し長い坂道を上り詰めると金剛三昧院という宿坊寺院に到着する。ここに国宝の『多宝塔』がある。門をくぐり拝観料を払って境内に入ると左手に小さな塔が見えてくる。1223年、鎌倉時代、源頼朝の妻、政子が源氏三代の菩提を祈り建立し臨済宗の祖、建仁寺の栄西を招いて落慶法要を行ったとされる由緒ある塔である。高野山で現存する最も古い建立物で国宝、世界遺産となっている。この日は幸運にも堂内の秘仏で重要文化財の『五智如来』が特別に御開帳となっていた。薄暗い堂内の秘仏をゆっくりと鑑賞し、お参りさせてもらった。少し離れたところから写真を撮影していると野鳥のミソサザイが屋根の下に下がる小さな鐘を出たり入ったりしている。ザックから双眼鏡を取り出して良く観察すると嘴に巣材のコケをくわえている。「こんな小さな鐘の中に営巣しているんだ、国宝の中で巣立った若鳥はさぞやりっぱになることだろう」。ここでタイム・リミット。境内を一巡し、バス停までの道を急いだ。ここからケーブルの駅に向かい、さらに南海電鉄の特急に乗り継いで帰路に着く。3泊4日。充実しきった旅となった。最後に6回の連載にお付き合いいただいたブロガーのみなさん、感謝します。画像はトップが金剛三昧院の多宝塔。下が向って左から東塔、根本大塔、西塔、金剛三昧院境内でのスナップ。

 

         


191.開創一千二百年・高野山滞在記(五)高野三山登山 

2015-05-04 21:11:33 | 旅行

4月11日。今回の高野山行、三日目はメイン・イベントとなる奥の院御廟の北方に位置する高野三山の登山を行った。高野山の町は海抜850m前後の盆地だが、その周囲はさらに高い山々に取り囲まれている地形から内の八葉、外の八葉の蓮華の花びらのような峰々に取り囲まれた、この世の浄土であるという信仰が古くから伝えられてきた。外の八葉は西の弁天岳と東の摩尼山(まにさん・海抜1004m)、楊柳山(ようりゅうさん・海抜1009m)、転軸山(てんじくさん・海抜930m)の高野三山がその代表格となっている。この日は、その高野山を代表する山岳の『高野三山』を登山道沿いに結んで登り、女人堂へと下山するコースをとった。大きな法会で賑わう伽藍空間も良いのだが、せっかく山間部に宿泊しているのだから山の霊気も感じたい。

朝食後、8時11分に宿坊を出ると昨日からの雨天がまだ続いていた。予報では昼頃にはやむことになっている。小雨の降る中、雨具にザックと身をつつみボチボチと歩き始めた。街中を通り過ぎて中の橋に到着。ここから北に進路をとり登山口に向かう。家並みが少なくなってきたが、摩尼峠に向かう登山口が、なかなか見つからない。地元の男性が歩いてきたので尋ねると「摩尼峠?そりゃ、あんた山ん中ですよ」という返事。結局登山口は知らないとのこと。日本全国地元に住む人々というのは地元の山には興味がないし登らないんだよね。トンネルの手前まで歩いて来て周囲を見回すと「ツキノワグマに注意!」の小さな看板が視界に入った。良く見るとその横にこれまた小さな「摩尼山登山口」の看板が並んで立っていた。狭くて見つけにくい登山口だった。「それにしても最初からクマに注意ですかぁ…」ごていねいに「子連れには特に注意!」とも書いてある。でも、だいじょうぶクマに出会ったら「視線を逸らさずにゆっくり後ずさりしていく」。北海道のタクシーの運ちゃんに教わった方法。死んだふりをするというのは効き目がないそうだ。念のために持参したクマよけの鈴を腰に着けた。「クマちゃん仲良くしてください」。

狭い登山道を登り始めるとすぐに周囲の森林は霧に包まれてきた。まるで長谷川等伯の水墨画『松林図屏風』の世界そのものである。朦朧として幽玄、視界は悪い。「クマに霧かぁ、単独登山だし先が思いやられるなあ…遭難しないようにしよう」。 霧の中、真っ白な世界を40分ほど登ると神変大菩薩(役行者)の小さな石像が現れた。傍らの木の解説版を見ると「高野山奥の院と大峰山山上を結ぶ古道の道しるべ」と書いてある。ということはここは修験道の修行道でもあるわけだ。そういえば弘法大師・空海も若い頃、都の大学の出世コースを中途退学し、私度僧(国家の免許のない僧侶)として近畿や四国の山中を一山岳修行者として歩き回っていたという説がある。役行者のような孤高の修行者を目指していたのではないだろうか。遣唐使として唐の長安を目指す以前の7年間は研究者に「謎に包まれた空白の7年間」などと称されている。ここから人登りで摩尼峠に到着。霧はますます濃くなってきたようだ。先を急ぐことにしよう。

濃霧の中、一人登っていると不安もよぎる。チリン、チリンというクマ避けの鈴の音だけが大きく響く。しばらくすると谷筋から”キョロイ、キョロイ、キョコキョコ…”と渡ってきたばかりの夏鳥クロツグミの囀りが聞こえてきた。こういう状況ではこうした鳥の声が勇気づけてくれるものだ。30分弱で摩尼山頂上に到着。祠に祀られる「如意輪観音菩薩」に合掌し、山行の無事を祈願してから大休止。コーヒー・タイムとする。ガス・コンロでお湯を沸かしコーヒーをすすっていると”ツイッ、ツイッ、ツツッ、ジェージェー”という鳥の声。見上げるとすぐ近くの木の枝に森林性のコガラが4羽とまっている。こちらがじっと動かないでいると、さらに近づいて来て手が届きそうな距離まできてくれた。なにか大切なメッセージを伝えようとしているようにも見えた。霧の中、僕と4羽のコガラしかいない。周囲には、ようやく枝先に芽が出始めた木々が無言で囲んでいる。こうして自然の中に包まれているとすべての命は繋がっているのだと理屈ではなく肌で感じることができる。一汗かいて休憩したら少し体が冷えてきた。次のピーク楊柳山に向かう。

東摩尼山から黒川峠を過ぎて一時間弱で楊柳山ピークに到着。時計を見ると12:25になっていた。ここで昼食。準備をしていると山ガール2名と3名のグループが登って来る。みなさんスナップなどを撮影して先へ進んで行った。お湯を沸かしてカップ・ラーメンを食べていると今度はアトリ科の野鳥、ウソが3羽、”フイッホ、フイッホ”と鳴きながら近づいてきた。これもとても近い。クロツグミ、コガラと今日は野鳥たちが仲良くしてくれる日である。そうこうしているうちに空を見上げたら雨脚も弱くなり明るくなり始めていた。13:18最後の目標、転軸山を目指して出発。転軸山へのアプローチはいったん下山したところからさらに登ることになる。昼食を食べて身体が重くなっているところに、この登りは少々きつい。14:36転軸山頂上に到着。頂上は見晴らしはなくうっそうとした樹林に包まれていた。ここでまたティー・タイム。しばらく腰を下ろして休んでいると地元、関西方面の山岳会と思われる男性5名が登ってきた。その中の一人が第一声「高野三山を制覇っ!!」と明るく元気に叫んでいたのが印象に残った。ちょっと時間がかかっている。のんびりしてはいられない。ここからは一気に下山路に入る。

森林公園、鶯谷の集落、女人道を通って、高野七口の一つと言われる『女人堂』にたどりついたのは17:12になっていた。ここまでくるとすっかり雨も上がっていて気持ちも晴れてきた。霧に迷って遭難もせず、熊に襲われもせず無事下山できてよかった。高野山は厳しい修行で知られていたので明治時代までは女人禁制を布いていた。山の七ヶ所に、そこまでは女性が登山し、お参りしてもよいという御堂が建てられていた。現在、その当時の御堂が残っているのはこの『女人堂』だけだという。そうした説明をうけてこの御堂を見ていると昔の信心深い女性の思いが伝わってくるようだった。本尊の『大日如来』にお焼香をしてから千手院橋を通って宿坊へと向かった。画像はトップが濃霧の中の山林。下が向かって左から濃霧の登山道、摩尼峠でのセルフタイマーによるスナップ、熊の注意板、女人堂から振り返った転軸山?、ゴールとなった女人堂。