夏以降、細かい版画を集中して彫る毎日が続いている。銅版画や木口木版画の彫りというのはとても集中力の必要な工程である。こうした時間が長く続くときには、自然とBGMをかけたくなるものだ。いつ頃からだったかはっきりとは覚えていないが、バロック系の音楽を聴くことが多くなっていた。
声楽や宗教曲などいろいろと聴いてみたが、中でも長く聴いてきたのはバッハの無伴奏器楽曲である。『無伴奏ヴァイオリン組曲』 『無伴奏リュート組曲』 『無伴奏チェロ組曲』 がその代表的なものだが、やはり彫りにシックリくるというとチェロである。低音の奥深い響きは集中力を向上させるのにちょうどいいのである。クラッシックフアンの間では、このバッハの無伴奏チェロ組曲のことを「チェロの旧約聖書」、ベートーヴェンのチェロソナタのことを「チェロの新約聖書」というのだそうだ。比べると後者はピアノとの共演で、ずっと華やかな印象を持つが、僕は俄然、旧約派である。もちろん、ベートーヴェンも素晴らしいが、バッハのチェロ1本で豊かな音を奏でるというところに強く惹かれるのである。
初めて聴いたのは20代だったが、ヨー・ヨーマ演奏によるLP盤を薦めてくれた絵描きの友人が、「この曲をかけていると、画室の隅に神様がいるような気配がしてくるんだよ」と言っていたのを思い出す。別にオカルト的な意味ではなく、じっくり聞いていると確かに深い精神世界へ誘われるような気がしてくるから不思議である。音楽の力というのだろうか。
以来、LP時代からいろいろなチェリストによるアルバムを聴いてきた。ヨー・ヨーマに始まって、パブロ・カザルスの古い演奏、ピエール・フルニエ、ミュッシャ・マイスキー…その中でずっと聴き続けてきたのは巨匠カザルスの演奏。その後の全てのチェリストに多大な影響を与えた「無伴奏」の永遠の名演である。最近のお気に入り盤は昨年88歳で他界したハンガリー出身の天才チェリスト、ヤーノシュ・シュタルケルによる演奏が高い精神性を表していて繰り返し聴いている。もう1つはオランダのバロック・チェロの名手、アンナー・ビルスマによる古楽器演奏。ただでさえ渋いチェロの低音がバロック・チェロの枯れた音によってさらに、燻し銀のような音を奏でている。版画の彫りに集中する中、しばらくはバッハの無伴奏チェロ組曲をかけることが多くなりそうである。画像はトップがチェロ演奏中のパブロ・カザルス。下が左から同じくパブロ・カザルスとシュタルケルのCDジャケット、ビルスマのCDジャケット。