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長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

321. ローカルTV 『画家・版画家 長島充』に出演しました。

2018-02-03 18:59:01 | 日記・日常
1/29、今週の月曜日から地元ケーブルテレビのローカルチャンネルに出演している。20分強の放送時間。番組名は『-佐倉市立美術館収蔵作品シリーズ- 画家・版画家 長島充 』。作家のしての僕に焦点を絞った構成となっている。憶えているブロガーの方がいらっしゃるだろうか。ちょうど一年前に同じチャンネルの、冬のバード・ウォッチングを紹介する番組に解説者として出演した。その時も少し画家・版画家としての姿も紹介されたのだが、今回はそちらの顔がメインとなっている。

僕が暮らす千葉県佐倉市の広報課が制作している番組なのだが、出演依頼は昨年の春ごろにいただき、昨年末から数度にわたるインタビューと撮影が行われた。そして前回同様、番組放送前に確認用のDVDを受け取った。取材中、思いつくままに喋った内容をどのようにまとめられるのかとても不安だったが、そんな心配は無用となった。番組は地元の佐倉市立美術館の収蔵作品から始まり、作家紹介、幼少の頃、画家になろうと思ったきっかけ、美術学校時代、版画の師との出会い、幻想的主題による連作、神話・伝説と言うテーマとの出会い、写実的な版画作品について、ライフワークとしての野鳥観察のこと、今後の作家としてのビジョン、と順を追ってとても解り易く構成されている。これは前回もそうだったが取材と構成を担当するT女史のなせる技なのである。ここまできちんとテレビ画面を通して、作家としての姿勢やテーマについて自ら語ったり、制作状況を公開したりしたのは初めてである。

ただし、この番組はあくまでもケーブルテレビを契約している一般市民の方々を対象とするものなので取材の初めから言葉の表現には注意するように言われ、カタカナ表現や難解な専門用語はなるべく避けたつもりである。パブリックな電波というものには、そうした細心の注意が必要となるのである。

そして前回同様にケーブルテレビの放送後、You Tube jp.に公開される。放送中は地域の限られた方々しか観ることができないが、You Tube に公開されれば検索すれば誰でも観ることができる全国区のデジタル映像となるのである。時代は変わった…ありがたいことでもある。来週あたりにはデジタル・デビューをするので、その時にはまたフェイスブックやインスタグラム、ツイッッターなどSNSで友人となっている方々にも観ていただけるように投稿して行こうと思っている。どうかお付き合いをよろしくお願いします。

今回、たいへん貴重な機会をいただいた佐倉市広報課の担当者の方々、ご協力いただいた佐倉市立美術館の方々、そして僕の版画の師である故・堀井英男先生の貴重な資料の使用を許可していただいた堀井京子夫人にこの場をお借りして感謝いたします。ありがとうございました。

※地元ケーブルテレビでの放送は1/29(月)~2/4(日)までの期間限定の1週間で終了しましたが、動画は2/5(月)~ You Tube jp.にアップされていますので、検索によりどなたでも観られるようになりました。「佐倉市チャンネルさくら 長島充」と文字を打ち込んで検索して頂ければ動画が出てきます。ご興味のある方は是非、ご視聴ください。よろしくお願いします。


画像はトップが番組中でインタビューに答える僕。下が番組内に映ったさまざまな場面。



                   







317. 2018年、新年明けましておめでとうございます。A Happy New Year !!

2018-01-01 00:56:57 | 日記・日常
2018年、平成30年、新年明けましておめでとうございます。今年は大晦日のご挨拶から続けて行きます。ブロガーの皆様、SNS友達の皆様、本年もどうぞよろしくお願いいたします。今年も変らずマイブログやSNSに画像投稿を続けて行きますのでよろしくお付き合いください。

皆様にとって新たな年が明るく良い年となりますようお祈りいたします。大晦日のブログにも書きましたが、もう一度。どうかこの小さな美しい青い星の環境がすべての生物にとって良好に保たれていきますように。そしてこの地球上のすべての人々が争いごともなく平和で幸福に暮らすことができますように。

今年は僕も年間を通して展覧会の企画が入っています。秋にはひさびさに絵画作品の新作個展の予定も入っています。昨年の年末頃からギアが入ってきているので正月早々、「描画三昧」の日々となりそうです。また発表の時期が近づきましたら順番にブログにご紹介していきますので、どうぞリアルのほうでもお付き合いのほどよろしくお願いします。

今回の画像は暮れにお参りした成田山新勝寺の境内で撮影したものです。三が日の初詣はとても混雑するのですが、この時期は空いていてゆっくりとお参りできました。そしてすでに新年に備えたお飾りも観ることができました。ここは当工房に近い地元の名刹ということもあり、年間を通しときどき訪れる寺院ですが、お参りし帰宅すると頭がクリアになり、新たにセットアップされて制作に臨むことができるのです。寺院建築のディテールには大陸から日本に伝承され仏教を守護すると伝えられるさまざまな「聖獣」も数多く見られ、現在の作品のテーマにも刺激になる場所でもあります。

では、皆様、どうか穏やかで素敵な三が日をお過ごしください。

画像はトップが新年のお飾りを施した新勝寺本堂。下が境内の伽藍のようすと建築の部分装飾など。



            

316. 2017年、一年間ありがとうございました。

2017-12-31 14:54:59 | 日記・日常
2017年も今日で終了。恒例になりました大晦日のご挨拶です。毎年一年間の反省や新たな年に向けての抱負などをツラツラと書いていましたが今年からはシンプルに行きます。

ブロガーのみなさん、SNS友達のみなさん、今年一年間、僕の拙いブログ投稿、画像投稿にお付き合いいただきありがとうございました。とても感謝しております。僕はみなさんの2018年が良い年になることを願っています。この小さな美しい青い星の環境が全ての生物にとって良好に保たれますように。そしてこの地球上の全ての人々が平和で幸福に過ごすことができますように。


To my overseas friends. Thank you very much for this year.

I wish that your 2018 becomes a good year.

And I wish that all people on this earth can live happily and peacefully.


画像は昨日、千葉県の房総半島を回った時、鴨川市の内浦湾で観た太平洋の美しい夕景です。海辺の地方の生活には憧れます。毎日、日常として朝と夕に美しい太陽の輝きと恵みを体で感じることができるからです。

では、どうか良い新年をお迎えください。そして良い初夢を見てください。




      

311. 友、ミラノより来る!

2017-11-10 18:37:32 | 日記・日常
9月初旬の事。イタリアのミラノに住む古くからの友人である画家のS氏が帰国し当工房を訪れた。もっと早くに画像投稿しようと思っていたら個展やグループ展が集中してしまい11月になってしまった。

S氏と僕とは美大受験の頃、東京の同じ美術研究所に通っていた頃からなのでかれこれ40年来の付き合いとなる。その後、二人とも都内の美術の専門学校へ入学、お互い絵画造形科と版画科と科は違ったが同級生となった。友と書いたが氏の方が年齢は2つ上である。美術学校卒業後お互い副手(大学でいう助手)として学校に2年間残った。つまり研究所から数えて9年間同じ学校の傘の下にいたわけである。「腐れ縁」とはこういう事かも知れない。

S氏は努力と忍耐の人で学生の頃から卒業後イタリアの美術学校に留学すると決めていて語学学校などにも通っていた。こうと決めると他にはいっさいブレないタイプの人間である。副手の任期2年間が終了した美術学校の卒業制作展の時、彼の忘れられない言葉がある。銀座のギャラリーで学生たちの作品を陳列した後、打ち上げ会の会場へと向かう途中に話しながら歩いている時のことである。春からのお互いの動きなどを確認していると「俺はイタリアに骨を埋めるつもりで行く!長島は銀座辺りでウロウロしていてくれよ。ガッハッハッハ…」と豪快に笑いながら言っていた。いや、イヤミなんかじゃない。この人はいつもこういう冗談混じりの本気の言葉をかますのである。まだイタリア留学の試験も受けていない状態の頃だった。

その後、官費留学を狙い手続きをとろうとしたが「専門学校卒は規定外」と文部省にあっさり断られ、奮起したS氏は私費で直接受験しミラノの国立ブレラ芸術学院の絵画コースに主席でパスしてしまった。本当にブレないのである。イタリアのブレラ芸術学院と言えば全生徒数が約4000人、ヨーロッパでもっとも大きな芸術アカデミーである。世界中からアーティストを目指し学ぶために学生が集まってくるのだという。その後、何人かの友人知人も留学し風の便りに氏のようすは聞いていた。そして精進の末、卒業時も主席で終了した。卒業後は一緒に留学した奥さんと2人、ミラノに残って作品制作を続け発表し、作家活動を現在まで続けているというわけである。
展覧会や私用で時折日本に帰国するので何度か東京で待ち合わせて会って飲んだりした。だいたいいつもお互いに今、制作で抱えている問題やイタリアと日本のアート・シーンの情報交換になるのだが、その時も「時間の許す限り東京のギャラリーを回るのだ」といってたくさんの作品資料を抱えていた。「俺はイタリアに骨を埋めるつもりで行く! 長島は銀座辺りでウロウロしていてくれよ」の言葉が現実になり始めたのであった。

今回はひさびさの帰国である。前回会ったのは5-6年前に開催した氏の東京汐留での個展オープニング・パーティー会場だった。8月に帰国先の実家から電話があり「今回は漠然と会うのではなく長島の工房に行って版画についていろいろとアドバイスしてほしい」という。さらに「版画を教えるという枠で美術学院の教授にノミネートされそうなのだ」ということだった。珍しいな。でもおめでたい話だ。「だいたいのところは解ったので、資料やら道具を用意しておく」ということで電話を切った。

9月7日当日、工房の最寄の駅で待ち合わせ迎えに行くといつもと変わらないいでたちのS氏が待っていた。数年前に大病をしたと聞いていたので心配していたが顔色も良く笑顔の再会となった。工房に着いてしばらく世間話やお互いの現状などを話した。氏は現在、ブレラ芸術学院で講師として教鞭をとりながら作品発表を続けている。最近発表した個展の作品集(画像)2冊をお土産にくれたのだが会場の1つは古城のような雰囲気の美術館。また作家として契約しているミラノの企画ギャラリーはモジリアニやフォンタナといった巨匠を取り扱ってきたところで氏が新作の絵画の個展をするとオープン前に出品作の半数以上を画廊側が販売してしまうのだという。我が国の画廊状況とはずいぶん違うのである。深く感心するいっぽうだった。

しばらくしてから本筋である版画のレクチャー。「特に木版画と銅版画について詳しく知りたい」ということだったので、歴史的なことや技法の事、必要な道具などについて時間の許す限り伝えて行った。S氏は基本的に真面目で熱心な人なので質問も多くその都度足りない資料も出てきて2階の書棚を探すことになった。しかし制作者同士のこういうやり取りというのは楽しくもあり、あっと言う間に時間が過ぎて行った。話し合いが一段落した頃、氏がおもむろに「普通は同業の人間にはこんなに技法的なことなども教えないと思うけど、長島のおかげで版画の世界に視野が広がったよ、今回の帰国の一番の収穫だ」と言ってくれた。

夕刻、また元の駅まで見送るとこれも氏のいつもの挨拶で「じゃあまたな!お互い作品制作を続けていればまたすぐ会えるよ。一度ミラノにおいでよ、チャオ、チャオ-ッ!!」と言って笑顔で改札をくぐって行ったのだった。



画像はトップが当工房でのS氏と僕。下が向かって左から同じく工房でS氏との1カット、S氏のイタリアでの個展作品集からほんの一部。抽象画の大作(油彩画)なのでなかなか画像ではスケールや雰囲気は伝わり難い。



      

274. 2016年 一年間ありがとうございました。

2016-12-31 20:44:01 | 日記・日常
ブロガーのみなさん、facebookを始めSNSでの友人、知人の方々、その他、ホームページや作品、展覧会を通して新しく知りあった方々、2016年一年間、マイブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございました。特にブログやメールを通してコメントやいいね!をいただいいた方々にはとても感謝しています。

僕の2016年は動きの多い年となりました。3人の子供たちの節目がちょうど重なり就職や進学などで家から巣立って行きました。また大事な家族の一員を失うという悲しい年ともなりました。少し前には7人家族で生活していましたが、気が付けば3人の生活となり、年月の経過をひしひしと感じてもいます。あんまりバタバタしていたので肝心の作品制作が遅々として予定どおりに進まず、今年の大きな反省点になりました。昨年、30代、40代と比べた体力、集中力の変化についてコメントしましたが、まだまだ「もうひと暴れ」とも思ってもいて、新年からは気を引きしめて行こうと自身に言い聞かせているところです。具体的には幻想的なテーマの絵画連作では大作を描き始めようと思っていますし、版画作品では今取り組んでいる自然や生物をテーマにした連作の内容をさらに深めていこうとも思っています。

昨年から大晦日のこのブログの画像は「名画の中の夕日」をアップすると書きました。ですが、今月、ふらっと気分転換に訪れた工房に近い西印旛沼の日入りの風景があんまり美しかったので今回使用することにしました。沼を望む小高い丘から撮影したのですが、この日は風も殆どなく空気も澄みきっていて夕日の焼けた朱色がよく出ました。ここでBGMを流すとすれば北欧を代表する作曲家、ヤン・シベリウスの交響曲が似合うかと思います。

パソコンを打つ僕の後ろでは、帰省した子供たちがひさびさに揃い「紅白歌合戦」を観ながら、お互いの近況を楽しそうに話し合っています。みなさんも今晩から新年にかけて家族や大切な人と楽しい時間を持ってください。では、2017年、新しい年もどうぞよろしくお付き合いください。「良いお年をお迎えください」

画像はトップ、下ともに西印旛沼の日入り風景。



          





264.『吾輩も猫である』 その四

2016-10-22 18:12:57 | 日記・日常

吾輩も猫である。名前はタマオという。♂のキジトラで今年で14歳になる。ヒトで言えば、もう高齢者の仲間入りである。これまでご主人が4人代わったが、今の「エカキのナガシマ家」に来てから早いもので10年になる。この家がわりと居心地がいい。ここまで5回、迷子やら病気やらで死にかけたが悪運が強いらしく生き延びてきている。

今月に入って朝晩が随分寒くなってきた。他の猫族同様、吾輩も寒いのは苦手である。そういえば、ついこの間までテレビの某国営放送で吾輩の尊敬する文学者である「ナツメソウセキ先生」のドラマが放映されていた。このブログの連載のタイトルもソウセキ先生の作品からいただいたものである。もっとも「は」と「も」は1字違うのだが、みなさんお気づきだろうか?主人公となる猫は研究者によると吾輩と同じキジトラ模様の毛並に茶色味が加わったような猫だという説が有力なようである。吾輩とても光栄に思っている。

話が横道に逸れたが、今回は前回もご紹介した相棒の猫、チミヨ、♀のミケの話題である。昨年、ナガシマ家の三女の方の友人が生まれたてで死にかけていたのを救助し、家で飼えないという事情から、この家に貰われて来たことを話したが、ちょうど今月の初めで1歳の誕生日を迎えた。そのチミヨを「ネコカワイガリ」していた三女の方も今春から北海道の「ダイガク」という所に行ってしまった。月日のたつのは早いものである。

家飼いの猫ということで、ちょうど半年前に動物病院で「ヒニンシュジュツ」という大きな手術をした。しばらくの間は、へこんでおとなしくしていたが、傷がいえると以前にもまして元気になり、家の中を激しく走り回っている。それから、よく食べよく寝るのでグングンと成長し今では、その体は吾輩よりも一回り大きくなり体重もかなり重い。食欲は日に日に増しているようで、ご主人夫妻には「デブチミ」というあだ名をつけられたりしている。吾輩は最近、年のせいか食が細くなりつつあり、いただくエサも数回に分けて食べているのだが、ウカウカして自分の餌ボールから目を離すと吾輩の残した分までたいらげてしまうありさまだ。見るに見かねたご主人が餌ボールを蓋付きのものに換え、チミヨの餌の量も管理して減らし始めている。

吾輩たちは、ヒトのように年齢の差による「ジェネレーションギャップ」などは無く、けっこう仲良く、遊んだり、闘ったり、寝たりしている。チミヨは吾輩から見ればまだまだ仕草もあどけなくカワイイものである。そして美人でもある。が、ボクシングの時、爪を思い切り立ててくるのだけはいただけない。これからは、お年寄りをいたわり、お手柔らかに接することを覚えてほしいと思っている。画像はトップが写真目線の吾輩。下が向かって左から吾輩の画像2カット、チミヨの画像5カット。

 

                    


261. 自己流健康法 その①

2016-09-30 20:23:00 | 日記・日常

今回、このブログを始めてから、初めての健康の話題。僕のように絵画や版画の仕事を毎日のように続けていると当然こことながら運動不足となる。一年中、インドア生活で机やイーゼルにへばり付いているのだから仕方がないと言えばそれまでだが、若いうちはともかく、ある年齢を超えると深刻な問題になってくる。

40代の半ばを過ぎた頃、毎年続けている市の健康診断で引っかかったことがあり、大学病院で詳しい検査をしてもらったことがあった。引っかかったのは「尿酸値が高い」ということでほおっておけば「痛風」になると脅されてのことだったが、詳しい検査の結果は「高血圧症」と「脂質異常」であった。これはまずいと言うことで担当の医師にどう対処していけば良いか相談したところ食生活を見直すための「食事指導」と「有酸素運動」を勧められた。つまり、サッカーで言えばイエローカードを切られたのである。

医者の指導に対しては昔から素直にできている僕は、検査結果の翌日からさっそく「有酸素運動」を開始した。まずは、器具も準備もなにも要らずに手軽に始められるウォーキングから。初めのうちはかなり張り切っていて毎日、工房の周辺を1時間強歩き、週に二日は遠出をして16㎞ぐらい歩いていた。3か月続いて再度、大学病院での検査。結果が出て医師の問診のとき担当の先生が驚いたような顔でカルテを見ながら「どーしたんですか、これ!?」と尋ねてきた。「えっ、どーしたって何がですか?」と切り返すと「血液、尿、血圧、心電図など、どれをとっても標準値かそれ以下です。正常です。どーしたら、たかだか3か月でこんな値になれるんですか?」と不思議そうに言うのだった。事情を話すと納得し、これからもがんばって続けるように励ましてくれた。ところが、ご多分に漏れず、こうした短期間で無理やり集中したような方法は続かなかった。1年もたたないうちに値がすべてリバウンドである。

その後、焦りがあったことを反省し、自分の体力に合った毎日続けられる量も見えてきた。外出やカルチャーなどの授業がある日、大雨や雪の日などを除き、ほぼ毎日軽いストレッチの後、40-50分のウォーキング(途中、短いランニングも組み合わせている)を今日まで続けている。その結果、血圧やコレステロール値も安定し、平均値を維持することができている。

ちゃんとジムなどに通い鍛えている人から見れば、たかだかウォーキングと言われるかもしれないが、最近観た健康番組で興味深い結果が出ていた。長年、ウォーキングを県民全員に推奨し続けているある県でアンケートをしたところ、1日6000歩以上歩いている人では「痴呆症」となる人がなく、1日7000歩以上歩いている人では「数種類のガン」の発症者がなく、8000歩以上歩いている人では「高血圧症と脂質異常症(メタボ)」がないという結果が出ているのだという…ばかにならない。

ウォーキングにしろ何にしろ、毎日続けるものは楽しんですることが長続きさせるコツである。僕の場合、家の周囲にコースを5コースぐらい設定している。「里山コース」、「田園コース」「住宅地コース」などと呼び、その日の体調や季節、気候によって使い分けている。真夏の炎天下の日は熱中症の危険があるので木陰の多いコースを設定したり、「ナイト・ウォーキング」と称して日が暮れて涼しくなってから住宅地内を中心に歩いたりしている。運動用具などはあまり必要ないが、歩数を測る万歩計とペットボトルの水、夜間は足元が暗くて見えなくなるので登山用のヘッドランプなどを小さなザックに入れ持参している。そして靴だけはグレードではなく、毎日歩いて疲れないものをとこだわって選んでいる。そして、1年間を通して里山環境の自然や動植物の変化も合わせて楽しむことも忘れてはいない。

運動不足解消に悩む方々、どうか手軽にできて効果に期待が持てるウォーキングあたりから始めてみてはいかがでしょうか。画像はトップがウォーキングシューズを履いた僕の両足。下が向かって左から玄関で靴ひもを縛って準備中の僕、本日歩いた「里山コース」風景6カット、コースで出会った季節の昆虫ハラビロカマキリ、常時持参しているペットボトルの水。

 

          

 


235.高校の生物部OB会に出席する。

2016-03-07 21:38:57 | 日記・日常

先月某日。高校の生物部のOB会に出席した。場所は千葉県内の某飲み屋でここもOBの経営するお店。

高校時代、僕は美術部と生物部の二つに入部していて美術部は部長だった。僕が通う千葉県内の私学の高校は男子校で進学校だった。一学年13クラスあり一クラスに40名ほど生徒がいた。マンモス校に近い。進学校だったので1年次から都内の予備校に通う人も多かったが、男子校ということもあり割合自由な校風でクラブ活動は体育系、文化系共さかんだった。

二つのクラブに入部していたことからも解るように、この頃、自分の進路に迷っていた時期でもある。美術室ではゴッホやセザンヌにあこがれて油絵具にまみれて印象派まがいの絵を描き、かたやアンリ・ファーブルや牧野富太郎といった生物学者を尊敬しつつ生物室で熱心に標本の同定などをしていた。この高校の生物部は伝統的にさかんであり、多い時は部員数が40名以上いて専門分野の班に分かれて研究していた。たとえば思い出される順に列挙すると帰化植物班、シダ・コケ班、水生昆虫班、蝶班、鳥班などなど…。そして僕はというと、その中でもかなりマニアックな「夜間甲虫班」というグループに所属していた。小学生頃から昆虫少年だったのである。

夜間甲虫班というのはその名のとおり、夜行性の甲虫を調査研究するのである。種類としてはゴミムシ、オサムシ、シデムシ、エンマムシ、ハネカクシといった仲間である。名前をあげただけでは地味できたない感じがするかもしれないが、種類も多く宝石のように美しい種もいる。調査方法としては放課後、高校のある市内の自然公園などに行ってトラップ(わな)を仕掛けたり、公園内に大きなシーツを張って夜間その前でブラック・ライトをつけて集まってくる甲虫を吸虫管という採集用具で吸い取ったりしていた。この夜間調査は楽しく先生もいなかったので当然、タバコとアルコールは常習だった。そして翌朝トラップを回収。標本として集めた甲虫たちを大きなシャーレに入れて図書室で分厚い図鑑を見ながら1頭1頭(昆虫はこう数えます)種を同定するのである。これがとても楽しかった…そして2年生の冬、同級生の影響で昆虫から現在も続けている野鳥観察に目覚めることになる。考えてみれば生物学と美術の「二束の草鞋」をずっと今まで引きずってきていて全く進歩がないのかもしれない。

3年生になって生物系に進むか美術系に進むか真剣に悩んだ時期があった。夢は生物系に進んで公立の自然保護区内のレンジャーとなり動植物調査のフィールドワークがしたかった。ところが生物系の受験の必須科目である理数系の成績が悪かった。さんざん悩んだ挙句、画家を目指す道を選んだのである。今にして思うとどちらが良かったのか。生きもの相手に自然環境の中で過ごす人生だってあったのかもしれない。どちらにしても「お金儲け」には縁は無さそうである。

今回、同窓会ではなくOB会である。歴史と伝統のあるクラブなので、夏の信州、浅間山合宿はOB会の人たちといっしょだった。いろんな年齢の先輩たちとの交流も有意義であった。こうしていい年齢になって改めて集まってみると一般企業の研究員となった人、生物系に進み南の島に通い昆虫学者をしている人、博物館の学芸員になった人、テレビに出演するような園芸家になった人と多種多様であるが、みなさん優秀である。理科系の落ちこぼれは絵描きの僕と僧侶を経て飲み屋の親父になった同級生のTぐらいかなぁ…。5-6時間もいただろうか、よもやま話に花が咲き楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。最後に先輩の一人がポツリと言った。「男子校の同窓会は花が無い、次回の課題は女の子同伴で来よう!」 おいおい気持ちは解るけど、いったいどうやって連れてくるの。まさか奥方や娘なんて言うんじゃないでしょうね。ここでお開き。次回は花見をしながら一杯ということに決定した。画像はトップがこの日の集合写真。下が向かって左から会のようす2点、お店の中の札など2点、会場となった飲み屋。

 

            

 


231.『第64回 東京芸術大学 卒業・修了制作展』を観に行く。

2016-01-30 20:32:36 | 日記・日常

29日午後から東京都美術館で開催中の『第64回 東京芸術大学 卒業・修了制作展』を観に行ってきた。実は長女がこの3月で美術学部デザイン科を無事卒業することとなり卒業制作の作品を出品しているのである。長島家に古くから伝わる家訓の一つに「家族の大切な節目の行事にはどんなに忙しくても出席すること」というものがあることもあり、午前中のカルチャー教室での指導を終え、昼食を済ませるとまっすぐに上野に向かった。

日暮里から谷中の墓地を抜けて速足で歩いて行くと約20分ほどで会場である東京都美術館に到着した。なんの因果かロビー階の展示スペースは僕が秋に出品している版画の公募展と同じ場所となっていた。受付を入ると週末ということもあり来場者が多い。先端芸術科の会場を過ぎて隣が娘の所属するデザイン科のスペースだった。すぐに娘の姿を発見、4年間の集大成の作品を前に説明を受ける。平面作家の子どもなので、美大のデザイン科に進学してからは、てっきりグラフィック的なものやイラストレーションに興味を持つものかと思っていたら、そちらにはほとんど興味を示さずにスペース・デザインに興味を持ち続けていた。この時点で空間系のデザイン会社に就職も決まっている。

ところが、DNAがそうさせるのか卒業制作は立体ではなく平面作品である。但しその内容は「古い建築物の表面のエイジングと色彩をテーマにしている」のだそうだ。30個ほどの小さいパネルに建築物の表面の肌合いや色彩をイメージした作品を一つの壁に並べ構成した作品となっていた。娘とは表現分野も違うし、美術の予備校に通う頃から余計なアドバイスはなるべくしないようにしてきたが、ここで一言、「おまえは色感がいいんだなぁ」と感想をもらした。うれしそうな笑顔を見せて、このフレーズが気に入ったのか「今日のブームだね!」と言うので、会場で他の作品を観ても「これは色感がいい」と繰り返し言い続けてしまった。

家に来たことがあるデザイン科の友人に合わせてくれたり、同級生の作品を一通り観終わったので、他の会場を案内してもらうことにして異なる科ごとに順番に観ていった。先端芸術科、工芸科、建築科、日本画科、油絵科…どれも若いエネルギーに満ち溢れていて見応えがあったが僕の個人的な感想を言えばデザイン科、工芸科と日本画科に完成度が高く充実した作品が揃っていたように感じた。都美館での展示を一巡すると遅れてきた家内と合流し、もう一巡。第二会場である東京芸術大学の学内展示作品を観に行った。こちらは学部の作品以外に修士コースの作品もあり見応えがあった。ここまで観てくると結構疲れた。両足も棒のように硬くなっている。ただ、いやな感じではなく若い表現に触れ、さわやかで心地よい残像が網膜に焼き付いた。時間的にもリミットに近くなったので娘と別れて元来た日暮里駅へと向かった。

毎年多くの美術家希望者が美大を卒業し社会に出て行くがここからは厳しい道のりとなる。今後のフレッシュなアーティストやデザイナーとしての活躍を祈りながら帰路に着いた。画像はトップが長女の卒業制作作品の前でのスナップ。下が向かって左から展覧会受付、長女の作品の全体像、同級生の作品2点、デザイン科会場内風景、同級生の参加型作品の中に入った僕。

 

          

 


230.『吾輩も猫である』 その三

2016-01-22 20:52:05 | 日記・日常

吾輩も猫である。名前はタマオである。クロトラの♂である。ご存知、エカキのご主人の「長島家」に厄介になっている。かかり付けの獣医の話では人間に例えて70才代なんだそうだ。つい最近、年甲斐もなく激しい縄張り争いをして下腹部に大けがをしてしまった。たくさん、出血もして死にかけたので、この時だけは長島家の人々はとても優しかったのだが傷が治るといつものように部屋のあちこちにマーキングをしたのでとたんに態度が冷たくなった。吾輩の直せない悪いクセである。

そうそう、言い忘れていたが、昨年秋にビッグニュースがあった。これまでこの家の猫族は吾輩一匹だったのだが、新しい仲間ができたのだ。それがこのブログのトップ画像の♀のミケである。まだ生後3か月である。名前は長島家ですったもんだした挙句、次女の方が考えた「チミヨ」と決定した。みんな「チミ」と呼んでいる。またしてもご主人の推す名前は却下されてしまった。どうやら「リン」とつけたかったようだが、ありきたりだということだったらしい。いつまでもブツブツと悔しがっていた。

このチミ、高3になる三女の方の友人の家の前の空き地で親と生き別れて何日も鳴き続け死にかけていたそうだ。見かねたこの友人が拾ってきてしばらく面倒を見ていたようだが、家の事情で飼えなくなり、ここにやってきたということだ。10月10日に来た時には、体重がわずか184gしかなく眼も見えていなかった。それが次女の方の献身的な養育により、あれよあれよと大きく成長し今では吾輩とほとんど大きさが変わらないほどにまでなっている。健康に育ったおかげでとてもヤンチャである。朝早くから部屋中を素早く走り回り、壁を忍者のように駆け登る。寝ている吾輩の顔を鋭い爪でかきむしり、大事な尾っぽに牙で咬み付いて来るのであるからたまらない。毎日、体中に傷が絶えないのである。おまけに吾輩のエサにまでちょっかいを出してくる。

しかし、親のぬくもりや優しさを知らないせいなのか、やたらとすり寄って甘えても来るのである。まぁ、これはこれでかわいいところもある。ようやくできた猫族の仲間でもあるし、なるべく仲良く暮らしていくつもりである。それに近頃、美人いや美猫になってきた。そー言えばこの間、ご主人たちが不吉なことを言っていた。ミケの♀というのは統計的に気性がとても荒いのだそうだ。くわばらくわばら。ちょっと自信が持てなくなってきたなぁ。画像はトップが最近のチミ。下が向かって左から最近のカットもう一枚、一か月ぐらい、家に来て2-3週間ぐらい、吾輩と仲良く寝るようす、吾輩。

 

            


226. 2016年 新年あけましておめでとうございます。

2016-01-01 09:19:37 | 日記・日常

ブロガーのみなさん、SNSのみなさん、2016年、新年明けましておめでとうございます。本年も変わらずくよろしくお願いいたします。

今日は朝から絵に描いたような元旦日和の晴天で、抜けるような青空が広がっています。みなさん、どんな朝を迎えましたか。毎年この日に思うことですが、普段何気なく生活している当工房のある平凡な町の風景もどことなく輝いて見えてくるのが不思議です。

さて恒例の年頭の誓いの言葉ですが、今年はシンプルにします。 それは『再挑戦』です。

大晦日のブログのご挨拶で視力、体力、集中力が確実に衰えてきているとネガティブなことを書きましたが、むしろ、それだからこそ『再挑戦』なのです。〇〇才の大台を前にして新しいこと、今までやろうと思い続けていてできていなかったことをこの一年というよりはこの何年かで始めようと思っています。何事もまずは自分自身を鼓舞していくことから始まります。内容はここではあえて書きません。追ってブログに更新していきたいと思っていますのでご期待ください。

トップ画像は大晦日と対になるように、僕の敬愛する19世紀ドイツロマン派の画家、カスパール・ダヴィット・フリードリヒの油彩画『朝日の中の婦人』としました。小さな作品ですが、日の出のスケール感を感じさせてくれます。この絵はフリードリヒが31才の時、素描の展覧会でゲーテに認められ創作の中心を油彩画へと移行し始めた時期の出発点となる代表作だそうです。弱く低い朝日に向かって立つ婦人は何を想っているのでしょうか。

2016年がみなさんにとって素晴らしい一年となることを祈念しております。今晩は良い初夢を見てください。

 

 

 

 


225. 2015年 一年間ありがとうございました。

2015-12-31 20:34:00 | 日記・日常

ブロガーのみなさん、facebookを始めSNSでの友人、知人の方々、その他作品や展覧会を通じて知り合った方々、2015年一年間、当ブログにお付き合いいただきありがとうございました。特にブログやメールを通じて励ましのコメントをいただいた方々にはとても感謝しています。

自分事ではありますが、今年は旅行や個展などで関西方面にご縁のある年でした。そしてSNSを通じて海外の多くの友人を得ることができました。反省点としては、制作での視力、体力、集中力がじわじわと落ちてきたことに気付かされる年でもありました。30代、40代に、ごく普通にできていたことができない。確実にペース・ダウンしてきています。それから野鳥をテーマにしている版画作品の制作のための取材が思うようにできなかったこと。やはりフィールドに出て常に自然の気配に触れることの大切さを感じています。あまり反省点ばかりあげるとネガティブになりますのでこの辺でやめておきます。

大晦日のブログの画像は今まで撮影した夕景としていましたが、今年から名画の中の夕景をピックアップしてみました。一年目としては僕の敬愛する19世紀ドイツロマン派の画家、カスパール・ダヴィット・フリードリヒ(1774-1869)の油彩画『宵の明星』を画集から選んで転載してみました。この絵のBGMとしてはアントン・ブルックナーの『交響曲第4番・ロマンティック』が合いそうですね。画像は絵の一部分となっています。また下にはそのまた部分図をアップしました。

そろそろ紅白歌合戦も佳境となってきています。2016年まで秒読み状態です。では、みなさん,来年もどうぞよろしくお願いします。良い新年をお迎えください。

 

 


207.『吾輩も猫である』 その二

2015-09-06 20:58:03 | 日記・日常

黒虎のタマオである。このブログ、二度目の登場である。そもそもご主人がネタに詰まった時にしか出してもらえないのである。そして、ご主人夫妻には相変わらずひんしゅくを買っている毎日である。もっともひんしゅくを買うのは吾輩の習性…というよりも猫族の習性である「狩り」のことである。

以前にもお話ししたが、この家のご主人夫妻は「日本野鳥の会会員」とやらで、鳥だけでなく生き物全般が好きなのである。今までも野鳥ではスズメ、メジロ、アオジ、ジョウビタキなどを狩ってはリビングまで持ってきて自慢してきた。そのたびに大目玉を食らうので、このところ鳥たちとは仲良くしてきた。鳥以外なら良いだろうと、春先に「ヤモリ」と人間たちが呼んでいるトカゲに似た小さな生きものを狩ってきたのだが、ご主人曰くこのヤモリ「害虫などを捕ってくれるので人間に益をもたらす生きもの」なのだそうで、さらに「現在、減少している貴重な生き物」なのだそうだ。この時も前足を掴まれて「お仕置き」のポーズをとらされ、説教をされた。最近、ご主人は、とみに説教が長くなった…年のせいなのかなぁ。

それでは、猫の狩りの定番であるネズミなら良かろうと少し遠出をしてハツカネズミを捕ってきたのだが、こちらは奥さんの方が「ネズミ属のつぶらな瞳が好き」ということで、リビングに置いておいたところ甲高い悲鳴を上げられてしまった。昔から猫がネズミを捕るのは小説や漫画にも登場する日常茶飯なことなのである。だいいいち連中に大きな顔をさせておいたら、旺盛な繁殖力で町中がネズミであふれ、天井や床下などに入って来て運動会を始めるので、うるさくてしょうがないと思うのだが。それこそ人間にとって益をなさないのではないだろうか。しかし奥様曰く「わかっているけど、感情的な問題」なのだそうである。そして最後に二人そろって吾輩を叱る決め台詞は「食べるわけでもないのに、また無益な殺生をしてっ!!」である。

こうして付き合っていると人間というのは自分たちの小さな物差しを基準に益があるとかないとか、甚だ自分勝手な動物である。おっと、アトリエで絵を描いていた主人がコーヒーを飲みにやってきた。おとなしく従順な顔をして寝たふりをすることにしよう。画像はトップが主人に説教をされている吾輩のアップ。下が向かって左から同じく説教をされているようす。狩ってきたハツカネズミ、お気に入りのクッションの上で休む吾輩。

 

      


206.『愛犬がマムシに咬まれた』の巻

2015-08-29 21:29:27 | 日記・日常

今年の夏はほんとに暑かった。特に梅雨明けからお盆ぐらいまでは酷暑で仕事に集中できず、すっかりまいってしまった。そんな中、日課の愛犬との散歩もとても朝昼には出られず日が暮れてからのナイト・ウォーキングとしていた。今回の事件はこのことが原因でおこった。

愛犬のサチヲ(雑種、11才♀)との出会いは11年前、娘たちがカヌーを習っていた頃、近所の川のカヌー練習場に兄弟たちといっしょに捨てられているのを見つけたことから始まった。柴犬を飼っていたので反対したのだが娘たちの「絶対飼ってほしいっ!!」の連打に根負けして飼う羽目になった。だが、しばらく経つと案の定、犬の世話はせず散歩などはこちらがすることとなった。猟犬の血が混じっているようで小さなころから動く生きものには過剰反応する。夏の夜散歩のときなどはアブラゼミをジャンピング・キャッチする芸当を見せたりしてくれる。

さて、梅雨が明け猛烈な暑さが始まった頃、絵の仕事が一段落して、いつものように連れ合いとサチヲの夜散歩に出かけた。コースは住宅地内から里山の水田地帯を30-40分程ぐるっと周る。水田きわの車道にさしかかった時、サチヲが道の端の暗い草薮に何かを発見したらしく前足で猛烈にアタックしている。「どうせ、場所からしてカエルかキリギリスだろう」と思っていた。ところが2回アタックしてしばらく歩き始めると尾を下げてビッコを引き始めた。どうしたんだろう?あれこれ想像していると連れ合いが「もしかしたらマムシに咬まれたんじゃないの!?」と言い出した。家まではすぐそこだったので一旦帰ってサチヲをつなぎ、急いで懐中電灯を持って現場に確かめにいった。先ほどの草薮辺りを探していると「いたいた、マムシ!!」体に銭型斑点(ぜにがたはんてん)と呼ばれる独特のもようの蛇がニョロニョロと移動していた。僕は今までにこの周辺で何度も遭遇しているのでその場で種を判断することができた。

この近くはマムシが多く「マムシ谷」などと名づけられた場所もあり、知人がキノコ採りの時に咬まれて大変なことになったこともある。急いでお世話になっている動物病院に連絡をとり、車にサチヲを乗せて向った。病院に着き事情を話して応急処置をしてもらいながら先生と話していると「人間の場合は免疫がないので血清の投与などが必要となるが犬は犬種に限らず、マムシの毒への免疫があるので、それほど心配することはない」とのことで、一先ず安心した。しかし、そうは言っても咬まれた方の脚がかなりパンパンに腫れてきていてうまく歩けなくなっている。治療後、抗生物質(飲み薬)と傷口への塗り薬をもらい、首には傷口を舐めたり噛んだりしないように「エリザベス・カラー」というプラスチックの襟巻をつけてもらった。

最初の2週間ぐらいは足の腫れがひかなかったが、抗生物質の投与と傷薬を塗り続けているうちに腫れも引き、それ以前よりも元気に歩けるようになった。「この犬は捨てられて生き残っていた経験があるので丈夫である」 ただ、途中、エリザベス・カラーの長さが短く、傷口を舐めてしまったので、カラーを段ボールで継ぎ足して長くされ画像のように不便そうな状態となっている。ここまで快復するのに一か月近くかかっている。愛犬をお持ちのブロガーのみなさん、マムシに咬まれたら慌てずに迅速な対応と処置を!画像はカラーのせいで小屋に入れず玄関につながれるサチヲ。下が画面向かって左から同じく玄関から出たサチヲ、ようやく良くなってきた傷口。

 

   


198. 〇6回目の誕生月。

2015-06-30 22:17:48 | 日記・日常

今月21日。〇6回目の誕生日を迎えた。普段から自分のほしいものは勝手にセッセと買っているので、家族からのプレゼントはなかったが、この日の晩は好物の鰻のかば焼きとケーキで祝ってもらった。この齢になってくると誕生日と言われてもなんだか気恥ずかしく、自分で忘れている年もある。

先日、外出したついでに生まれ故郷となる町を歩く機会があった。少し足を延ばして自分の生家があった辺りまできた。このあたり、最近は首都圏の外環道路の建設工事が進んでいて雑然としている。子供の頃、ザリガニやカエルをとった広い水田、カブトムシを捕まえに行ったクヌギの雑木林、それから多くの同級生の家も建設途中の広い道路によって跡形もなくなっていた。唯一、ベーゴマやメンコの道場となっていた小さな寺院だけが開発の難を逃れ、昔の姿そのままにひっそりと残っていた。「無常」というのか、なんとも寂しい限りである。

終戦から14-5年たった昭和30年代半ばから後半は「もはや戦後ではない」などと言われていたが、町のあちこちにはまだまだ戦争中の影が残されていた。中学校の裏の崖地に掘られた多くの防空壕跡、高射砲連隊の跡地に残されたボロボロの兵舎。こういう場所は僕らワルガキにとっては最高の遊び場所で、大人たちからの隠れ家だった。近所の神社に自転車でやって来る紙芝居のおじさんは傷痍軍人で両手首が無く、口を使って紙芝居の頁をめくっていた。そしていつも「裸の大将」のような助手を連れていた。放課後は真っ先に駄菓子屋に向かい、母親に「体に悪い」と言われていた派手な色の駄菓子をしこたまむさぼってから、草野球をするか仲間と野山を駆けずり回って遊ぶ毎日だった。

この頃は生まれた当時のことを憶えている人が次々にいなくなってしまうのが寂しい。幼い日々のことを思い出していると、なんだかセンチメンタルになっていけない。「四十、五十は鼻たれ小僧」という言葉もあるのだから、ここから奮起して進んで行こう。誕生日を迎える度に考えさせられる年齢になってきた。画像はトップが0歳の時、家で撮った写真。下は生まれて間もない頃、母親の実家で祖母に抱かれる僕。いずれも古いアルバムから。