375's MUSIC BOX/魅惑のひとときを求めて

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名曲夜話(35) シベリウス 交響曲第6番、第7番、交響詩『タピオラ』

2009年07月03日 | 名曲夜話② 北欧編


シベリウス 交響曲第6番ニ短調(作品104)、第7番ハ長調(作品105)、交響詩タピオラ(作品112)
オスモ・ヴァンスカ指揮 ラハティ交響楽団
録音: 1997年(BIS-CD-864)
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素晴らしい音楽を言葉で説明するのは至難の業、とシベリウスの後期の交響曲を聴くたびに思う。特に最高傑作の第6番第7番ともなると、とても日常的な言葉では追いつかない。前作の第5番をさらに深化させた大自然の神秘。いや神秘以上の何者かが、ここには宿っている。

前回に引き続き、ヴァンスカ指揮/ラハティ交響楽団のディスクを紹介してみよう。第6番、第7番のほかに、交響詩タピオラを加えた最晩年の傑作3曲が1枚で聴けるという組み合わせも有難い。シベリウスはこれらの傑作を生み出してから、亡くなるまでの約30年間、ほとんど目ぼしい作品を残さず、「謎の沈黙」と言われているのは有名な話だ。

しかし、この3曲を聴いてみれば、「謎」への回答は自ずと明らかだと思う。シベリウス自身にさえ、これ以上の作品は書けなかったのだ。行き着くところまで、行ってしまっている。似たような作品ならいくらでも書けたかもしれないが、自己に厳しいシベリウスは、巷の流行作曲家によく見られるようなヴァリエーションの繰り返しに陥ることを許さなかったのだろう。

書き残す作品はすべて、唯一無二のオリジナリティがなければならない。その信念を守り通すことによって、シベリウスの交響曲は打率10割の高い芸術アヴェレージを維持することができたのである。

1923年に完成された、交響曲第6番。あえて言葉でイメージするとしたら、北極圏を踏み越えていく音楽。第1楽章、2分余りの導入部に続くアレグロ・モルト・モデラートの主部は、あたかもロヴァニエミ郊外の雪の深い道を、サンタクロースの橇に乗せられて疾走していくような爽快さがある。そして、終結近くのティンパニの一撃。忽然と吹雪の中に消えていくような終わり方も、印象的だ。

寂寥感あふれる第2楽章アレグレット・モデラート、斬新で荒々しい第3楽章ポコ・ヴィヴァーチェを経て、クライマックスの第4楽章アレグロ・モルト。音楽の流れがほとんど断ち切られることなく、一気に結末に向かっていく構成の見事さは、筆舌に尽くしがたいほど。ドイツ系の伝統的な交響曲を遥かに凌駕する、前人未到の完成度といえよう。

そして1924年に完成された、交響曲第7番。ここでは、もはや楽章の概念すらも超越し、1個の小宇宙とも呼べる領域にたどり着いた。あえて言えば交響曲以上の音楽。シベリウス自身、もともと従来の交響曲として構想していたわけではなかった、といわれる。

曲想も、この世の情景描写はすでに超越している。楽園と呼ぶべきか、天国と呼ぶべきかわからないが、少なくとも現世では部分的にしか垣間見ることのできない別世界を、ついに目の当たりにしてしまったような驚き。カトリック教会用語で言うところの「ベアテフィック・ヴィジョン(至福直観)」に出会ったような音楽。ともかく、普通に生活していたのでは、到底得ることができないような霊感にあふれている。

あまりにも超越しているがゆえに、第5番、第6番に比べると、個人的にはまだまだ親しみきれていないところもあるのだが、この曲がシベリウスの音楽的総決算であり、究極の作品であることは間違いないだろう。もしかすると、この世の人生が終わる頃になって、ようやく第7番の真の素晴らしさがわかるのかもしれない。

最後に収められた交響詩タピオラは、1925年の作品。文字通り、最後の傑作であり、シベリウスが若い頃から取り組んできた一連の交響詩シリーズの大トリに相当するものだ。

「タピオラ」とは叙事詩カレワラに登場する森の神タピオの領土という意味だが、内容的にはシベリウス版神々の黄昏みたいな趣きがあり、神秘的な森のテーマが繰り返される前半部から、破滅的なクライマックスに至るまで、異様な迫力にあふれている。決して長い曲ではないのに、まるで大交響曲を聴いているような充実感。これほど密度の高い音楽も、そうざらにあるものではないだろう。