高松で1泊して、翌日の朝、高速バスで大阪へ向かう。
午後1時半を少し回った時間に関空に着く。
搭乗口にある搭乗手続用の端末機にチケットを入れるが、
画面に取扱いできないと表示され、チケットが端末機から出てきてしまう。
まだ出発までの時間があるせいかと思いベンチに座り電光表示板を見ていた。
札幌への出発便に15:00発の表示がない。
おかしいなあ~と思ってチケットをよく見ると、何と伊丹と書かれてる。
どうやら空港を間違えてしまったようだ。
あわてて電車の乗り場へ向かい大阪方面への電車を探すと13:50分なんば行き
南海電車の急行があると言われそれに飛び乗った。
なんばでタクシーを拾い伊丹に向かう。
まだお正月休みで高速道路は空いているが伊丹に着いたのは3時を10分ほど
回っていた。
搭乗予定の便はすでに離陸した後なのでチケットカウンターに行って
乗り遅れたことを話し、次の便に乗れないか交渉する。
私の持っているチケットは、本来、予約変更が出来ないチケットなのだが
カウンターにいる女性がチラッと時計を見てから「本日限りの便なら
変更します。」という。
しかし、16:00の便は満席だという。
19:00関空発千歳行きの便には空席があるといわれたので、
取りあえず16:00の便でキャンセル待ちをして、それがダメなら
また関空に戻るしかないと思い、キャンセル待ちの手続きをお願いする。
キャンセル2番のチケットを持って荷物検査を終え、搭乗口のカウンターで
待機する。
妻に電話すると「あんたは肝心なところでポカッとミスをすることがある。」
と呆れられる。
妻が怒るのも無理はない。
以前、高野山へ来たときの帰りに、伊丹からの出発時間を1時間ほど
間違えて飛行機に乗り遅れそうになり、頼んでいたお好み焼きが
食べられなかったことがある。
このことを思い出したようだ。
幸いにもキャンセル待ちで16:00発の便に乗れる。
機内は満席でギュウギュウ詰めの状態だが、この便に乗れるということは、
結果的に見ると千歳到着が1時間遅れるだけの話だ。
何のことはない。(こう考えるのは私だけのようだ。)
機内で、今回のお遍路のことを考えた。
あれほど覚えられなかった般若心経が、ようやく暗記できたようだ
ということに、お遍路として体の中に何かが染み込んできたような気がした。
バイク遍路を入れると2巡目になっている。
この間唱えた般若心経は、88×2カ所(本堂及び大師堂)×2巡目=352回、
別格や番外のお寺にもお参りしているので、これらを入れるとほぼ4百回ほどは
唱えているはずだ。
これだけ唱えなければ276文字の般若心経を暗記することが出来ないとは
情けない話だが、これが現実なので仕方がない。しかし、
暗記が出来ても意味が分からない。
今度来るまでには般若心経の差し示す言葉の意味を勉強しようと思う。
1年半ほど前から歩き遍路を始めるのと呼応するかのように身近な人達が
随分亡くなっている。
義兄、妻の従兄弟、同僚など私がお世話になった人達の供養をするために
お遍路に出ているような気がするくらいだ。
それが私の勤めだというなら一生懸命に勤めさせてもらうだけだ。
生きているものの勤めとして!
「砂の器」というテレビドラマが人気になっている。
主人公をSMAPの中井正広が演じているということだが、「砂の器」は
松本清張さんの原作で30年ほど前に映画になっていたものだ。
「砂の器」と聞いて思い出した。
映画の中に主人公が子供の時に父親と故郷の石川県から出雲で保護されるまで
遍路姿で旅をしている場面だ。
特に、海岸の波打ち際を二人で歩いている姿が脳裏に焼き付いている。
私にとって、この場面が「お遍路」を意識させられた一番最初の出会いだ。
きれいな映像の中から映像とはかけ離れた悲惨さが強烈に訴えてくる。
ボロボロになった白装束、菅笠に杖、歩いている場所は四国ではないが、
私にとってはお遍路として受け止めていた。
主人公の父親役を今は亡くなった加藤嘉さんがやっていた。
台詞のない場面、美しいが厳しい風景とその風景の中を一生懸命に生きようとして
歩いている親子の悲惨さを浮き彫りにしており、これらが重なり合って
見るものの胸を締め付ける。
これが私にとって「お遍路」を意識させられた原風景なのだ。
お遍路に一歩を踏み出させたものが、ここにあったことを思い出した。
午後1時半を少し回った時間に関空に着く。
搭乗口にある搭乗手続用の端末機にチケットを入れるが、
画面に取扱いできないと表示され、チケットが端末機から出てきてしまう。
まだ出発までの時間があるせいかと思いベンチに座り電光表示板を見ていた。
札幌への出発便に15:00発の表示がない。
おかしいなあ~と思ってチケットをよく見ると、何と伊丹と書かれてる。
どうやら空港を間違えてしまったようだ。
あわてて電車の乗り場へ向かい大阪方面への電車を探すと13:50分なんば行き
南海電車の急行があると言われそれに飛び乗った。
なんばでタクシーを拾い伊丹に向かう。
まだお正月休みで高速道路は空いているが伊丹に着いたのは3時を10分ほど
回っていた。
搭乗予定の便はすでに離陸した後なのでチケットカウンターに行って
乗り遅れたことを話し、次の便に乗れないか交渉する。
私の持っているチケットは、本来、予約変更が出来ないチケットなのだが
カウンターにいる女性がチラッと時計を見てから「本日限りの便なら
変更します。」という。
しかし、16:00の便は満席だという。
19:00関空発千歳行きの便には空席があるといわれたので、
取りあえず16:00の便でキャンセル待ちをして、それがダメなら
また関空に戻るしかないと思い、キャンセル待ちの手続きをお願いする。
キャンセル2番のチケットを持って荷物検査を終え、搭乗口のカウンターで
待機する。
妻に電話すると「あんたは肝心なところでポカッとミスをすることがある。」
と呆れられる。
妻が怒るのも無理はない。
以前、高野山へ来たときの帰りに、伊丹からの出発時間を1時間ほど
間違えて飛行機に乗り遅れそうになり、頼んでいたお好み焼きが
食べられなかったことがある。
このことを思い出したようだ。
幸いにもキャンセル待ちで16:00発の便に乗れる。
機内は満席でギュウギュウ詰めの状態だが、この便に乗れるということは、
結果的に見ると千歳到着が1時間遅れるだけの話だ。
何のことはない。(こう考えるのは私だけのようだ。)
機内で、今回のお遍路のことを考えた。
あれほど覚えられなかった般若心経が、ようやく暗記できたようだ
ということに、お遍路として体の中に何かが染み込んできたような気がした。
バイク遍路を入れると2巡目になっている。
この間唱えた般若心経は、88×2カ所(本堂及び大師堂)×2巡目=352回、
別格や番外のお寺にもお参りしているので、これらを入れるとほぼ4百回ほどは
唱えているはずだ。
これだけ唱えなければ276文字の般若心経を暗記することが出来ないとは
情けない話だが、これが現実なので仕方がない。しかし、
暗記が出来ても意味が分からない。
今度来るまでには般若心経の差し示す言葉の意味を勉強しようと思う。
1年半ほど前から歩き遍路を始めるのと呼応するかのように身近な人達が
随分亡くなっている。
義兄、妻の従兄弟、同僚など私がお世話になった人達の供養をするために
お遍路に出ているような気がするくらいだ。
それが私の勤めだというなら一生懸命に勤めさせてもらうだけだ。
生きているものの勤めとして!
「砂の器」というテレビドラマが人気になっている。
主人公をSMAPの中井正広が演じているということだが、「砂の器」は
松本清張さんの原作で30年ほど前に映画になっていたものだ。
「砂の器」と聞いて思い出した。
映画の中に主人公が子供の時に父親と故郷の石川県から出雲で保護されるまで
遍路姿で旅をしている場面だ。
特に、海岸の波打ち際を二人で歩いている姿が脳裏に焼き付いている。
私にとって、この場面が「お遍路」を意識させられた一番最初の出会いだ。
きれいな映像の中から映像とはかけ離れた悲惨さが強烈に訴えてくる。
ボロボロになった白装束、菅笠に杖、歩いている場所は四国ではないが、
私にとってはお遍路として受け止めていた。
主人公の父親役を今は亡くなった加藤嘉さんがやっていた。
台詞のない場面、美しいが厳しい風景とその風景の中を一生懸命に生きようとして
歩いている親子の悲惨さを浮き彫りにしており、これらが重なり合って
見るものの胸を締め付ける。
これが私にとって「お遍路」を意識させられた原風景なのだ。
お遍路に一歩を踏み出させたものが、ここにあったことを思い出した。
「砂の器」、業病を背負って浜を彷徨う加藤嘉の映像、私も印象に残っています。
巡礼していても、札所のこと、宗教のこと、殆ど頭に残りませんよね。(やたらと道中の風物や人との出会いが印象に残る。)私も戻ってきてから、遍路の意味、宗教のこと、少しは考えるようになりました。
では、また。失礼します
お陰様で、あと数日分で奥の院までお礼参りをして私のお遍路が終わることになります。
北海道と四国は見かけ上の距離は遠いのですが、気持ちの上では繋がったような気持ちでいつも暮らしております。
四国でお世話になった方々のお顔が忘れられません。
このお遍路日記も、薄れていく記憶を呼び戻すために書き留めたものです。
感謝の気持ちをいつまでも忘れないために!