四国遍路の旅記録  平成28年春  番外 

 

平成27年5月以降(5巡目以降)の記事の目次

     平成27年春 その後 藤井寺から柳水庵へ、そして樋山地(H27.5.9)
      ●平成27年夏 
       かも道、いわや道、平等寺道を歩く(H27.7.8) 
                                                     
      ●平成27年冬         弥谷寺から丸亀までの小さな遍路(H27.12.10)

      ●平成28年春  その1  大坂を越えて阿波へ
                その2   観音道を上って大山寺へ
                 その3   地図遊び、阿波の昔の遍路道
                 その4   旧土佐街道の道、月夜から薬王寺まで
                 番外  続地図遊び・・阿讃国境の峠道 (下の記事) 
     ●遍路道地図の案内(1)
     ●遍路道地図の案内(2)


  

 


四巡目までの目次はこちら


続地図遊び・・阿讃国境の峠道

阿讃国境を越える道の最東端に位置する大坂越の道を歩き、その後に大山への道を歩き、これらの道の西に連なるという多くの峠道への関心、いや魅惑は抗し難いほどのものでした。それらの道のうちの一つでも二つでも、この足で歩き越えてみたいという気持ちは強いのですが、おそらく私にはもう無理でしょう。せめてもと、ネットで入手できる古地図などの資料を手元に集め、江戸時代以降多くの人が通ってきたそれの道の状況、道傍の生活と人の思いを想像してみることにしました。 
そう・・また「地図遊び」ですよ。
記事の内容は、私自身の足で歩いて確かめたものではありませんから、頭の中だけの独断による誤りも多くあると思います。「・・みてきたような嘘・・」になりませんよう・・
また、遍路日記の中に納めましたが、遍路道とは直接関係のない内容も多くなりました。私の備忘のための書き留め、お許しください。
結論みたいなものを先に端的に言ってしまえば、これらの道が阿波、讃岐それぞれの国の為政の壁を越えて、互いに不足する物や技術や労力を補い会うという、まさに人々の生活のなかで機能した稀有の道であったのではないか・・と思えるということです。 
さて・・

阿波の国の主要道、おそらく・・往還とか・・大道と呼ばれ、後に街道の名を冠して呼ばれた五つの道が整備されたのは、江戸時代前期といわれます。
徳島を起点に大坂越を経て高松に通ずる讃岐街道、淡路に通じる淡路街道、土佐高知に繋がる土佐街道、吉野川の南岸に沿って伊予松山にまで通ずる伊予街道。そして、鳴門の撫養から池田へ、吉野川の北を通る道が撫養街道です。
この撫養街道から讃岐の村や町に直接繋がっていたのが、阿讃国境の峠道でした。

表ー徳島県と香川県の県境を越える峠道


徳島県と香川県の間の峠道を表にして示しました。この他に最近通じた新しい道もけっこうあると思いますが、古くからの主要な道はこの表に網羅されていると思います。
道が経由する地もできるだけ古くからの地名を尊重しました。一部、私の想定による間違いがあるかもしれません。ご寛容のほどを。
江戸期の主要な峠道を探るに参考とした文献、古地図を示しておきましょう。
 文献① 「阿波国海陸道度之帳」(正保4年(1647)):江戸初期の交通調べで幕府に提出されたもの。
 古地図②「阿波国大絵図」元禄版(元禄13年(1700)頃):(徳島大学図書館所蔵)
 古地図③「阿波国大絵図」天保版(天保9年(1838)):(国立公文書館所蔵)
 古地図④「阿波国図」  古地図⑤「讃岐国地図」 :以上(聖心女子大図書館所蔵) 古地図⑥「讃岐国絵図」:(香川県立図書館所蔵)
(④⑤⑥の
年代は不詳ですが④は明和7年(1770)の阿波国絵図と類似しており、あるいはその写図かも。⑤は宝暦12年(1762)の絵図に類似。また⑤と⑥は書き込みに若干の相違がありますが、同一原図の写しと見られます。)
なお、阿波国大絵図の慶長版、寛永版もネットで見ることが可能ですが、国境の峠道に関する記述は粗く、採用しませんでした。また、讃岐国大絵図、天保版の国境峠道に関する記述は③と一致しています。
これらの資料に見られる江戸時代の峠道を表に併記しました。これを見ると、古地図④の記述は文献①と極めてよく整合されていること、古地図③は江戸末期のものですがその内容は古地図②を踏襲していること、などが目に付きます。(文献①では、峠道名に主として出発地名が付されていますが、古地図②③では道の記述は「○○村より讃岐国△△村迄×里・・」のような表記で峠名として石造物、村名、通称などが記されています。これは大絵図作成が隣国とも歩調を合わせたものであり、その整合性を図るためと思われます。)

峠道の略図を作成しました。東から西に向かって少々のコメントを付してゆきましょう。

図ー1 阿讃国境峠道略図(1)板野~阿波



大坂峠については前記事「大坂を越えて阿波へ」で書きましたので省略します。
次の黒谷越(400m)、一本松越(380m)についても以前の記事で少々書きました。
何れも古い時代からの伝説を伝える古道と思われますが、どういう訳か江戸期の地図には黒谷越(古地図②③⑤⑥では峠名「元結(鬠結)」として)のみが登場します。⑥には「難所但荷不負馬通行有」とあります。4番札所大日寺への道をそのまま北上、鉢伏山(439m)の直西を越えて川股に通じます。長らく廃道になっていましたが、今はどうにか道筋は確保されているようです。
大山越(510m)は神宅から大山寺に上る現在の遍路道がその一部に当たっていると思われます。大山畑から峠を越えてやはり川股に通じます。
宮河内(現表記は宮川内)を発する三つの道、宮河内越(610m)、鵜の田尾(380m)、上畑越(650m)。それぞれ狩井川、兼弘、與田山に通じます。宮河内は承久の乱(1221)に係わって土佐、阿波に流刑となった土御門上皇に因んだ地で宮川内谷を遡った鵜の田尾への道に御所神社があり、御所、太鼓橋など雅な地名が残ります。古地図②③⑥では峠を佐牟風(サムカゼ)と表記しています。
今は土成から国道318号が鵜の田尾の西方をトンネルで抜け讃岐白鳥へ通ずる道となりました。

図ー2 阿讃国境峠道略図(2)阿波~美馬



境目峠といっても標高220mで峠道というほどのものではありませんが、日開谷川に沿った道で昔は日開谷越と呼ばれました。阿讃を繋ぐ幹線道の一つで、88番大窪寺から1番霊山寺へ戻る遍路の多くが採る10番切幡寺を経由する経路の一部でもあります。
この地は庚申信仰が盛んであった地で、ある調査では江戸前中期の銘のあるものを中心に400基を越える庚申塔が確認されているといいます。境目峠より北は大坂峠を経て田面(現大川町)へ繋がる道です。
清水峠(295m)は曽江谷越と呼ばれていました。古地図②③では讃岐側の最初の村名より中山と表記されています。基本的には曽江谷川に沿った道筋ですが、峠より南の旧道は今の道(国道193号)より西の山裾を通っていました。この道も庚申塔や馬頭観音の多く残る道ですが、これらの多くは旧道を通らないと出会うことができません。峠の南300mほどに一際立派な馬頭観音があるといいます。大窪寺から大瀧寺に上る道、夏子道や阿讃国境尾根道を目指すときは、立ち寄ってみたいものです。
峠は借耕牛(かりこうし)の受け渡し場として有名だった所といわれますが、これについてはまた後に纏めて記すことにしましょう。
大瀧寺越(930m)は脇町より大谷川に沿って上り、岩倉山村(大谷、鼓尾)を経て山頂の直西を越えて板倉山、椛川(現塩江)に至る道。昔より難所であったようで古地図②③には「牛馬不通」と注記があります。古地図⑤⑥には更に詳しく「・・難所但数合村ヨリ椛川樵馬通有椛川ヨリ大瀧寺マデ牛馬通ナシ」と記されます。
脇町からの上り道は峠近くに通行困難な個所があり現在利用されていませんが、大瀧寺からの下り道は塩江温泉への道として今の遍路道ともなっています。

図ー3 阿讃国境峠道略図(3)美馬~三好



相栗峠(580m)は相栗峠休場と、峠道は郡里越と呼ばれていました。貞光から野村谷川に沿って北上、郡里山から峠に至り内場、塩江に下ります。厳しい山道ですが、庚申塔も多く残る道といいます。古地図②③では「牛馬通」と記しますが、⑤⑥には「・・嶮路但樵馬通有・・」とあります。
三頭越(790m)。峠に「大門まで七里半」の道標、安政4年(1857)建立の明神鳥居、猿田彦大神と天鈿女命の像があり、金毘羅参詣の街道として知られました。阿波側に少し下った立見山にも峠と同様の鳥居があります。
この道、生活物資の搬入や借耕牛の道としても繁盛したといわれます。現在は、香川県西部と徳島を繋ぐ幹線、国道438号が峠の下をトンネルで抜けています。
江戸時代の文献、地図にこの峠の名が見られないのはちょっと不思議な気もします。金毘羅詣が盛んとなるのは、讃岐の金毘羅社が宝暦3年(1753)朝廷より「日本一社」の綸旨(ろんじ)を受けた以降であることと関係しているのでしょうか。
二双峠(860m)にはモグラやカイコの神様二双神社があります。讃岐では立石峠ともいわれ、阿波では重清越と呼ばれていました。古地図②③⑥では前者の峠名を採用しています。
重清、重清山村、いずれも現在の町名には残っていないようですが、重清は小学校名などにそれを留めています。この道も古地図⑤に「嶮路但樵馬通有」と記されます。
滝奥越(640m)。加茂野宮、滝ノ奥と勝浦、明神を結ぶ古くからの道。旧道上に滝寺と鴨宮番所跡があります。
三頭越の道と後に記す太刀野山越の道とを結ぶ峠道があります。北から笹ノ田尾(杵野(くぬぎの)越)(980m)、大川越(山頂に大川神社がある。)(940m)、白井(しろい)峠(845m)、真鈴峠(635m)です。前三者は太刀野山越の枝道と見做し、峠道の一覧表からは除きました。
樫ノ休場(850m)。この峠を通る阿波側の道は二筋あります。一つは太刀野(三野)より明神、中屋、井久保から峠に至り、塩入に下る道。もう一つは山口(三好)、中屋、笠栂、寒風を経て峠そして塩入に下る道。交通が盛んであったのは、前者の道で次の東山峠の道とともに借耕牛の道、物資搬送の道そして金毘羅参詣の道でもありました。道中には金毘羅常夜灯が5基、金毘羅道標が2基残るといわれます。文献①古地図④には太刀野山越または太刀野越と記されます。

東山峠(650m)。昼間より打越峠、内野、小見、中村、男山を経て峠に達し、讃岐塩入に下る道で、現在の県道4号(丸亀、三好線)はこの付け替え道です。
現在の峠の西方に四国写し霊場の道を辿り800mのピ-クを越え、久保(旧山脇村内)に通ずる道があります。これが旧峠道であったと伝えられており古地図③に「昼間村よ里讃岐国山脇村迄弐里弐拾四丁四拾間、牛馬不通」と記される(②④もほぼ同様、但し④は「牛馬道」と)「昼間越」の道であると思われます。
嶮しい地形で旧道には石仏も多く、人馬の安全を祈って立てた不動尊もあるといいます。峠付近の道の改良も進み、現在の東山峠付近を越えて塩入に通じる道が開かれて輸送力も大幅に上昇し、讃岐と阿波を繋ぐ重要な道になったと思われます。
樫の休場を越す太刀野山越の道とこの東山峠越の道は、塩入の地名が示すように讃岐の塩を阿波へ運搬する道であり、塩のほか讃岐の鮮魚・海産物などと阿波の薪炭、煙草、黍などとの取引が盛んに行われ、阿波藩の流通統制政策の時代も塩だけはこの道を通って阿波に入っていたとも伝えられます。明治時代に入って交易の自由化に伴い煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになり、東山峠越の重要性を増幅させ道路改修が進められ県道化の基となったと思われます。
差出山(887m)。昼間から東山峠への道を小見より分岐して東山を経て差出山を越え財田へ通ずる道で差出の地蔵越と呼ばれた道。借耕牛も多く通った道で石仏も多く見られるといいます。 現在、峠に文化13年、明治19年の地蔵尊が残りますが、古地図②③に記される峠名「石佛」がこれ(むろん代替わり前の)を指すのかもしれないと迷わされます。古地図③の「東山より讃岐国財田上村迄弐里三丁」の記述からこの道のようにも思えるのですが。

図ー4 阿讃国境峠道略図(4)三好



二軒茶屋(640m)。箸蔵寺に通ずる道(後に箸蔵街道と呼ばれた)の途中にある地名ですが、生活道としては昼間(三好)から柳沢、馬除、二軒茶屋を経て財田上へ下りる道を通ることが多かったようです。ここでは峠名を二軒茶屋としましたが、国境の最高点はさらに北のピーク(750m)で、そこには天保15年の薬師如来や地蔵尊もあり石仏と呼ばれる場所です。そうすると古地図②③に記される峠名と一致します。尾根道を辿れば差出山とも遠くない場所です。資料①古地図④では箸蔵山越、箸蔵越と表記される道です。
この道、後には二軒茶屋手前から猪鼻峠(550m)を経て財田に至る道が使われるようになったと思われます。
中蓮寺峰(750m)と六地蔵越(610m)は吉野川に沿う撫養街道からではなく、支流鮎苦谷川に沿う道から讃岐へ越える道です。資料①、古地図④ではそれぞれ「西山越」、「野呂内越」と記されます。西山越の道は古地図に「難所牛馬不通」と記される道。
私は中蓮寺峰から猪鼻峠もまた鮎苦谷川に沿う道も雲辺寺と箸蔵寺を繋ぐ道として阿讃国境峠越の道とは直行する方向で歩いたことがあります。いずれも極めて印象深い道でした。
曼陀峠(550m)は阿讃国境西端の道です。池田から峠を越えて海老済(えびすくい)へ。その先は雲辺寺道や金毘羅讃岐街道と交差し観音寺へ向かう今の県道8号の道筋です。私は峠道と直行する雲辺寺への尾根道を歩きました。舗装された尾根道に交わる峠道は、通る人もなく草木に覆われているようでした。

徳島県と香川県の間の古くからの峠道について、乱雑に一応コメントしてきましたが、その中でも何度か出てきた「借耕牛(かりこうし)」について改めて付言しておきましょう。
阿讃国境に接した阿波の山村では、水田の立地に恵まれず米が不足していた。また草生地が多く水田の広さに比べて多くの耕牛が飼育されていた。一方、讃岐では平地が多く稲作が盛んでしたが、夏の田植えと秋の麦蒔きの時期に耕牛が不足していた。そこで、農繁期の間、讃岐が阿波から牛を借り入れる風習「借耕牛」が生まれたと伝えらています。それは江戸時代の中期、文化年間(1804~)の頃からといわれます。
讃岐の農家は、この借耕牛を飼って田の代掻きや田畑を耕したり、砂糖締めの臼を廻す動力に利用したといわれます。牛を借りたお礼は夏の約一ヵ月間で米約60キロ(1俵)、秋の約二カ月で米約130キロであったと。
すでに記したように徳島県の美馬郡、三好郡を中心に供給された牛たちは、阿讃の国境の峠を越えて讃岐へと向かったのです。その通過点は、東から五名口(日開谷越)、清水口(曽江谷越)、岩部口(郡里越)、美合口(三頭越、重清越等)、塩入口(太刀野山越、昼間越)、猪ノ鼻口(猪ノ鼻峠)、野呂内口(野呂内越)、曼陀口(曼陀越)です。その総数は、昭和5~10年頃の最盛期には夏、秋合わせて年8000頭以上にも及んだといわれています。内訳は、郡里越2000頭、三頭越、重清越等で2000頭、猪ノ鼻峠で1500頭、曽江谷越で1350頭、太刀野山越で1000頭などと記録されています。

塩をはじめとする、讃岐、阿波それぞれの特産品の流通については、東山峠越の道のところで記してきました。また、板野と引田、上板と白鳥・三本松の間での農産物、製塩・製糖技術などの交流については、別記事「大坂を越えて阿波へ」と「観音道を上って大山寺へ」のなかでも記しました。
「讃岐男に阿波女」のことばが暗示するように、峠道を介した阿波、讃岐の村は婚姻圏を形作っていたようです。物だけでなく人の交流も為されていたと言えるでしょうか。
三頭越、太刀野山越、昼間越を中心とした峠道は金毘羅参詣の道とも呼ばれました。それは江戸時代後期以降のこと。信心は日々の生活と一体となったものであり、また生活の潤い、楽しみでもあったと思わせられます。そのために峠道を歩いて越えるという行為そのものを含めて。
流通量の増大と流通手段の発達は、利便の向上を目指して峠道の改良、拡張、舗装化を進展させ、そしてトンネル化。そして、忘れられた峠道は(たまに探検心?のハイカーしか通らない)草木に埋もれた道跡になってゆきました。それはもうどうしようもないこと・・それはそうでしょうけれど、そのことによって何かとてつもなく大事なものが忘れられ、失われていったのではないか・・と憂慮しているのは私だけでしょうか。

                                               (平成28年 5月記)
           

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