四国遍路の旅記録  平成28年秋 その3

 

平成27年5月以降(5巡目以降)の記事の目次

     ●平成27年春 その後   藤井寺から柳水庵へ、そして樋山地(H27.5.9)
      ●平成27年夏       
かも道、いわや道、平等寺道を歩く(H27.7.8) 
                                                     
      ●平成27年冬         弥谷寺から丸亀までの小さな遍路(H27.12.10)

      ●平成28年春  その1  大坂を越えて阿波へ
                その2   観音道を上って大山寺へ
                 その3   地図遊び、阿波の昔の遍路道
                 その4   旧土佐街道の道、月夜から薬王寺まで
                 番外  続地図遊び・・阿讃国境の峠道  
     ●遍路道地図の案内(1)
     ●遍路道地図の案内(2)

     ●平成28年秋  その1   内子から大洲そして金山出石寺へ
               その2   宇和町上松葉から宇和島へ
               その3   篠山の麓から宇和島まで(下の記事)
 


四巡目までの目次はこちら

 

 

篠山の麓から宇和島まで

私は、篠山神社にこれまで二度お参りしています。最初は、平成20年3月(二巡目 第4回 その3)愛南町広見の札掛から往復しました。二度目は、平成22年4月(三巡目 第4回 その2)、祓川温泉近くまでコミュニティバスを利用して、逆打ち方向で、やけ滝から登山道を経て神社に参り、札掛に下っています。
最も古くからの参拝道といわれる、神社から北側の尾根を下り湯屋に出ることは、私の長年の夢でありました。
この尾根道、満願寺のご住職の他(山屋さんはいざ知らず)遍路として通行した人はおそらく数少なく、相当荒れていて危険な個所もあると聞きます。加齢の私には無理です。諦めました。
そこで、湯屋付近の参拝道下り口の様子を探ること、祓川温泉の西側を通る旧道の途中にあるという裏参道二の鳥居を見ること、飛大師堂のある少林寺に参ること、その後県道4号を歩いて、馬ノ渕、満願寺、岩松を経て宇和島まで行くことにしたのです。(往路は、朝一番のコミュニティバスで祓川温泉まで行きます。)

バスを降り湯屋に向かいます。嘗ては祓川の河原から豊富な硫黄泉が湧出していたといいます。今も少々ながら・・祓川温泉の泉源はおそらくここ。
建物があり人が居ます。「そこに橋が見えるじゃろう。そこが篠山への上り口じゃ。その先は荒れとって通れんじゃろ・・」
祓川に架かる石橋が見えます。これが聞く「金前橋」と呼ばれる橋かも。
添付の地図をご覧いただきたい。私は尾根道からの出口の道筋を細赤点線のように想定していました。
湯屋の下で祓川を渡った道は北に上り、現在の車道のガードレ-ルが切れた所、(赤い標識がある。)そこはトイレの向かい側。
トイレの横付近を上がるのがおそらく旧道。篠山が見通せる高所はここ以外にはありません。強引に上ります。
少し行くと樹間に小尾根にある鳥居が見えてきます。篠山神社二の鳥居です。信じられないほど美しく堂々とした鳥居です。
柱に二つの年号が刻まれています。安政六巳末十一月、明治三十六年十一月。建立年と再建年でしょうか。
北側に下り祓川温泉の西側に出る道は通行に苦労します。しかし車道へのエスケープルートはあります。


祓川に架かる石橋


車道への出口

 トイレ


樹間に鳥居が・・


篠山神社二の鳥居





篠山神社二の鳥居

祓川温泉の前を通り、槇川の右岸(南側)を西に行く道に入ってみました。廃屋や廃車があり300mほどで道は消えています。
戻って槇川を渡り岩陰大師へ。(ここは以前も寄った所)
自然とも人の手が入っているとも見える巨大な岩の間に大師像と標石状の大師浮彫、右端に新しい地蔵があります。
大師浮彫の下に元禄三年(1690)の年号が読めたと思いましたが、さて・・

 祓川温泉


岩陰大師

ここから槇川左岸の道を通って日切地蔵に参ります。
道の左側に標石があります。刻字の読み取りは困難な個所がありますが「(手印)右ささ山道 これより本社迄六十丁 慶応元丑天南〇〇」のよう。
その前で向かいの大きな家のご主人と話します。
「昔は川の向いにワシの友達の家が一軒あっての、道も日切さんまで通じとった。今は木もこんなになっての(2、30cmほどの丸を示す)通れりゃせん。いつであったかの、大水で田んぼも全部流されてしもうた。その先から石に板を渡した橋があったがの、石も流されてしもうた・・」 
川までの道もあり、川の傍に地蔵があります。「えひめの記憶」には平成13年に撮影された板橋の写真が載っています。勝手にここに持ってきました。現在の川の写真と見比べてみてください。(川名は松田川となっていますが誤り、愛媛県内はその上流で槇川と呼ばれる。)
その先、道の右側山裾、岩の覆屋の中にあるのは馬頭観音でしょうか。


標石と槇川への道


昔の渡河場所


「えひめの記憶」記載の板橋


岩覆の中

日切地蔵は無住の寺ですが、御利益の確かなことが近郷に聞こえ、多くの人が詣で、多くの奉納地蔵が境内を埋めているのです。堂内は香の煙に満ちていました。
箒を持った作務衣姿の人に会います。
「御内で温熱療法師をやっとります。時々こうしてお手伝いに来ているのです。家内は店を持っていろんなものを展示しとります。郵便局の前です。寄ってください。・・」


日切地蔵


奉納地蔵

「槇川少林寺開祖古岩禅師の由来」と題した案内板があります。
「鎌倉の建長寺の九十九代管長古岩禅師は故あって寺を去って遍歴苦行の旅を続け四国路に入り土佐奥屋内より大黒山を経て槇川に入り、七峰七谷三方水流れの三角屋敷という理想のこの地に少林寺を開山。(1414年)」「その後大洪水で荒れた寺を庄屋松岡六兵衛の尽力により北側の山裾の現在の地に移された。(1721年)」およそこのように記されています。
少林寺の故地がこの日切地蔵の地という訳です。案内板はさらに続けて、古岩禅師が鎌倉を離れ求道遍歴した故が次のように記されているのです。そのまま転記します。
「・・禅師は建長寺在職中一公卿の息女と親交その徳望を慕われつつ法門の掟にしばられていました美人のさだめ哀れはかなく彼女の突如夭折するや悟る所ありて自ら管長職を退き求道悟達の遍歴を志したと云われます・・」
享保六年(1721)に現在の地に移されたという少林寺に向かいます。
素朴な石段の前に標石のような形の石(自然石)がありますが何か刻んである訳ではありません。
少林寺の境内、右に阿弥陀堂、左に大師堂、その横に六地蔵。大師堂は弘化四年(1847)の再建。
大師像は篠山飛大師と呼ばれます。篠山山上の観世音寺が無住になった折、少林寺まで飛んできたとの伝えがあります。
篠山奥の院納経所とも書かれています。「えひめの記憶」には「(昔)多くの参拝者はここに札を納めた。ここで納札した逆打ちのへんろはここから上槇(かんまき)に出て小岩道越えの道を辿ったと思われる」と記されています。(ここ下槇より中道の中間点上槇までは10kmほど。)
六地蔵越しに槇川の集落と田畑の長閑な風景がかいま見えるのです。本堂、阿弥陀如来の33年毎の開帳の日には、本堂から日切地蔵まで白い晒の布が流されるといいます。(最近では2011年4月)その賑わいを想います。


少林寺の石段


少林寺阿弥陀堂、大師堂

 大師堂


槇川の集落

寺の裏山を上って御槇神社(天満宮)に行きます。
その道は直登の荒れた細道と、その道を交差して巻くやや広い山道です。今は通る人もないようで荒れています。直登の道にあるという自然石の道標を見つけることはできませんでした。
御槇神社の鳥居はこちらではなく北東を向いています。そちらが正参道。
神額に天満宮と刻した前段の鳥居の柱には元治元年の銘。慶応銘の常夜燈も見ます。かなり広い境内です。


神社へ


神社への道、直登道と巻道


御槇神社の鳥居(前段)


御槇神社

11月の祭礼では、ここで宇和島藩の祖仙台より伝わった五ツ鹿踊りが演じられるといいます。その日、街中では勿論牛鬼が出ます。
ここから山道をくだってその御内の街に出ます。
郵便局の前、温熱療法の看板と立派な店がありましたよ・・寄りませんでしたが。
県道4号を1kほど行くと右側に道の川観音堂。十一面観音を祀ります。
左手の山に狩場林道が伸び、左直下は横吹渓谷の深い谷。道を行くに従ってその谷は深さを増しやがて見えなくなります。
県道の旧道は右の急な山裾を走っていたようです。転落事故も多かったとか。高い所に電柱が並んでいるのでそれとわかるのですが入り込む気にはなりません。それは正解だったようで、旧道が県道に繋がる馬ノ渕ではその出口は塞がっているようでした。

 道の川観音堂


横吹渓谷


高所の旧道

馬ノ渕の田畑と家並みが見えてきます。
県道は高い所を通っており、家並の道(旧道)には県道の側壁に設けられた階段を下りなくてはなりません。
見当をつけて降りた所、近くに馬ノ渕の大師堂。
大師像の台座に元文元年(1736)銘。様々なものが供えられ信心の厚さを伺わせます。
堂前に徳右衛門標石「右ささ山道 これよりいなりへ六リ」が立ちます。


馬ノ渕


馬ノ渕の大師堂

徳右衛門標石「いなりへ六り」

馬ノ渕の澱み。旧道は川を二度渡り老健施設の傍を通り県道へ。


上芋地谷

上芋地谷では県道から左折、家が密集した道が旧道。大師堂でもある集会所があると聞いていましたが尋ねられませんでした。上芋地谷橋を渡り、清重に入り熊野神社の参道前を通り颪部(おろしべ)へ。
数えれば、馬ノ渕を過ぎてから三度川を渡っています。
颪部の喫茶店の前に以前にも記した道標。(四巡目 平成25年秋 その10)
「みぎへんろみち ひだりまんぐあんじ ぜんどうだいし三めうかう」と刻んであるらしい有名なもの。何しろ下部が土に埋まっている上、苔の繁殖が進んで以前より更に読み難くなっています。もう何の石だか・・
コーヒーをいただいて、女主人にこの石のことを話すと「社会科のセンセイ・・?」とからかわれる始末。


喫茶店前の標石

昔、満願寺へ寄らない遍路はここから川を渡り、寺の下を経て野井口に行っていたようです。
私は左、満願寺に行きます。
満願寺では二重柿が実っていました。
門前にいたおじさんが「ワシがとってやる」「いいんですかい」自分の胸を指し「ワシは特別じゃ」の表情。
境内上段にある木を接ぎ木した門前の二代目柿の枝を落とす。シブ柿だというので食わず、写真を撮らせていただく。確かに柿の中に柿がある。


満願寺





二重柿の木

 二重柿

さて、ここから津島町高田まで行き、松尾峠を越えて宇和島へ行きます。
津島から宇和島に向かう宿毛街道の道としては松尾峠越と野井坂越があるのですが、最近道の整備が為されたこともあってか、どうも野井坂の方に人気が偏っている感じがします。松尾峠を越えた祝森で産業廃棄物の処理場の建設が進められていることも影響しているのかもしれません。
松尾峠を歩くのは、私にとっても二巡目の平成20年3月以来8年ぶりになります。
道の整備の手もあまり入っていないようで、通行に支障があるというほどではありませんが、倒木が放置された箇所が数か所あります。
旧国道のトンネル越えの道と遍路道の分岐点にある昭和八年十月の道標。懐かしい・・
「(大師像)(手印)岩松町へ一里 四十番へ八里一丁/(手印)宇和島四十番奥の院へ二里二十丁」。納札入れの塩ビパイプもそのまま。
峠を越えた所にへんろ小屋「わん屋」。
どこか薄汚れた感じです。小さな毛布が一枚、ここで夜を明かした人もいるのでしょう。


松尾峠への道


道分岐点の道標

 道標


峠のへんろ小屋

建設中の産業廃棄物処理施設の騒音をぬけて、山際の荒れた山道。それを抜けた所に庚申堂。


山裾の道


柿の木庚申堂

ここから宇和島までのこと、近い過去の日記にすでに記しました。省略しましょう。


遍路道地図「祓川温泉付近」
遍路道地図「御内付近」
遍路道地図「満願寺付近」
遍路道地図「松尾峠、野井坂付近」
遍路道地図「祝森付近」

                                          (10月24日)

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