私は奈良のド田舎に生まれた。というのは「私は まむし の子」で紹介済みだ。
奈良県人が集う学校の中でも、私の日本語能力は「特殊」と言われていた。
カメラを「写真機」と言い、電話に出る時は必ず自分のフルネームを相手に言う。奈良でも割合都会から来ている友人に何度訂正されても、私の日本語は決して直らなかった。
私の日本語能力を育てた人は誰だろう。田舎の家に育った私は「人擦れ」せずに育った。両親と兄の内、誰かが私にヘンテコリンな日本語を植え付けたはずなのだ。
母は当時から大変上品な日本語を使う人だった。父は仕事で忙しくてそうそう小さい私に日本語を教える時間もなかっただろう。
ある日古いオーディオカセットが出てきて、何が入っているのか聞いてみた。
「ドーン、ドーン」という音が遠くから聞こえる。どうも小さい私と五歳上の兄がボールの投げ合いをしているようだ。
「フッチャー フッチャー」と、一歳か二歳くらいのろれつの回らない私がボールを兄に投げ返しながら言っているようだ。
「違う!! よく聞けっ!!!」 兄は強い口調で小さい私にこう言った。
「いいかっ。よく聞け、フッチャーじゃないんだっ!!」
兄はどうも私にボール投げをしながら、日本語 を教えようとしていることがカセットから聞いて取れた。
兄がボールを投げる時に言った日本語を、私が投げ返す時に真似して言う。なかなか良いアイデアではないか。兄としての責任をこの年でもうすでに実践していたわけだ。
「いいか、よーく聞け。よく聞くんだっ。それっ!! { ブッチャーは高見山っ} 言ってみろーー!!」
「 ブッチャー ブッチャー、 プッチャー は たっかみまやっ!!」
「違うーー。プッチャー は たっかみヤマっ!!言ってみろォーー!!」
「 オーーっ!! ブッチャーは たっかみやまっ」
こうして 兄は「ブッチャー」の後に色々な「新ボキャブラリー」をくっ付けて私を「教育」していった。
しばらくすると ブッチャーは「チビブタマン」になって、それからブッチャーは「あほんタレ」になった。
ようやく私の日本語能力ルーツが見つかったわけだ。
奈良県人が集う学校の中でも、私の日本語能力は「特殊」と言われていた。
カメラを「写真機」と言い、電話に出る時は必ず自分のフルネームを相手に言う。奈良でも割合都会から来ている友人に何度訂正されても、私の日本語は決して直らなかった。
私の日本語能力を育てた人は誰だろう。田舎の家に育った私は「人擦れ」せずに育った。両親と兄の内、誰かが私にヘンテコリンな日本語を植え付けたはずなのだ。
母は当時から大変上品な日本語を使う人だった。父は仕事で忙しくてそうそう小さい私に日本語を教える時間もなかっただろう。
ある日古いオーディオカセットが出てきて、何が入っているのか聞いてみた。
「ドーン、ドーン」という音が遠くから聞こえる。どうも小さい私と五歳上の兄がボールの投げ合いをしているようだ。
「フッチャー フッチャー」と、一歳か二歳くらいのろれつの回らない私がボールを兄に投げ返しながら言っているようだ。
「違う!! よく聞けっ!!!」 兄は強い口調で小さい私にこう言った。
「いいかっ。よく聞け、フッチャーじゃないんだっ!!」
兄はどうも私にボール投げをしながら、日本語 を教えようとしていることがカセットから聞いて取れた。
兄がボールを投げる時に言った日本語を、私が投げ返す時に真似して言う。なかなか良いアイデアではないか。兄としての責任をこの年でもうすでに実践していたわけだ。
「いいか、よーく聞け。よく聞くんだっ。それっ!! { ブッチャーは高見山っ} 言ってみろーー!!」
「 ブッチャー ブッチャー、 プッチャー は たっかみまやっ!!」
「違うーー。プッチャー は たっかみヤマっ!!言ってみろォーー!!」
「 オーーっ!! ブッチャーは たっかみやまっ」
こうして 兄は「ブッチャー」の後に色々な「新ボキャブラリー」をくっ付けて私を「教育」していった。
しばらくすると ブッチャーは「チビブタマン」になって、それからブッチャーは「あほんタレ」になった。
ようやく私の日本語能力ルーツが見つかったわけだ。