「母の宿題 味の素」
小中高にわたって「作文と日記」以外の宿題はほとんど母がしてくれた。(爆弾発言)
私は学校から帰るとすぐ野山に遊びに出た。日が暮れるまで遊んで戻ると、その日の出来事をおもしろおかしく「日記」に書いて、担任の先生を笑わすことに全「命」をかけていた。(今とさほど変わらない?)
私には「その他」の宿題をする時間はなかった。
ある日「奈良県の標語」を作ってくるように言われ、いつものようにそれを母に伝えてから山に出かけた。
翌朝起きると「miehfちゃん、こんなん出来たよ。」と母は私に「標語」の書いた紙を渡してくれた。
私はそれを読みもせずに学校に提出しておいた。
それからしばらくして、月曜日の恒例「朝の会」があり、いつもの校長先生の長い話が始まった。 あくびをしながら「いつ終わるんかな」と思っている時
「.....でして、今年の奈良県の標語には、何年何組のmiehfさんの標語が選ばれました。」
生徒の間から拍手が起こった。
私も一緒に拍手をしながらこう思った。「へー。どんな標語やろ」
それから、「母の標語」は 奈良県が配布するエンピツなどにプリントされた。
電車に乗っていた時、公共の建物の屋上から大きな旗が垂れ下がっていて、よく見るとそこにも「母の標語」が大きくプリントされて風になびいていた。(奈良県庁さん、あれ私の標語じゃなかったんです。もう時効でしょ。)
高校に入り、家庭科の夏休みの宿題が「自由研究」だった。
母は私が「研究」なんかする気もないことを見越して、代わりに夏休み中こつこつ何かを「研究」してくれていた。
夏休みが開ける頃、母が「こんなん出来たよ」と言って見せてくれたものは、「朝 昼 晩」の毎回の食事を写真に収めたもので、それを栄養バランスのグラフとともにいかに栄養が取れているかを研究したものだった。
それもじっくり見ることもなく家庭科の先生に提出しておいた。
高校全生徒が集まる集会で、またしても私は「表彰」されることとなった。
母の研究を家庭科の先生が勝手に「全国家庭科研究コンクール」に出しておいたらしい。それが賞を受けたという。
私は舞台に立たされて小さくなっていると、校長さんが
「miehfさん、おめでとうございます。 これは「味の素」社からの「お祝いの品」です。」 と賞状と共に渡された。
「味の素」が会場をドッと沸かせた(笑わせた)。
私の頭にはあの味の素社の「化学調味料」の小瓶が浮かび、会場の笑いが止まらない中、しずしずと自分の席に戻った。
教室に戻って恐る恐るその「品」を開けてみると、それは化学調味料ではなく、腕時計の中に時計が二つ入っているヘンテコなものだった。
さらによく見てみると、「AJINOMOTO」としっかり刻まれている。

「あーぁ、このネームさえなかったら使うのに」
などと、今思うと大変失礼なことを考えていた。
それ以降私はずっとの時計を家のどこかに閉まっておいた。
私がフランスに初めて行く日、父はどこからかこの時計を持ってきて 「これを持っていったらいいよ」 と言った。
「えー、いらん いらん、そんな変なやつ」
私は「AJINOMOTO」のネームが気になって嫌がった。それでも父はこれを持っていくように強く薦めた。
嫌がって腕につけたが、これが突如「すごく必要なもの」に変化した。
行きの飛行機で、一つはフランス時間、もう一つは日本時間に合わせればよいことに気づき、それ以降私はこの時計を肌身離さず身に着けるようになった。
「AJINOMOTO」が何か知らないフランス人達は、この時計を見ると
「うわーーーっすっごいいい時計持ってるねぇ、時計が二つ入ってるよ」
としげしげと見てうらやましがる。
時計の中に時計が二つ入っていて、それにこのネームが刻まれている超非売品のものは、もしかしたら今ではすごい「プレミア」のつく品になっているかもしれない、などと最近は思う。
味の素社さん 、この時計 フランスですごく役立っていますよ。本当に本当にありがとう!!!! miehf

小中高にわたって「作文と日記」以外の宿題はほとんど母がしてくれた。(爆弾発言)
私は学校から帰るとすぐ野山に遊びに出た。日が暮れるまで遊んで戻ると、その日の出来事をおもしろおかしく「日記」に書いて、担任の先生を笑わすことに全「命」をかけていた。(今とさほど変わらない?)
私には「その他」の宿題をする時間はなかった。
ある日「奈良県の標語」を作ってくるように言われ、いつものようにそれを母に伝えてから山に出かけた。
翌朝起きると「miehfちゃん、こんなん出来たよ。」と母は私に「標語」の書いた紙を渡してくれた。
私はそれを読みもせずに学校に提出しておいた。
それからしばらくして、月曜日の恒例「朝の会」があり、いつもの校長先生の長い話が始まった。 あくびをしながら「いつ終わるんかな」と思っている時
「.....でして、今年の奈良県の標語には、何年何組のmiehfさんの標語が選ばれました。」
生徒の間から拍手が起こった。
私も一緒に拍手をしながらこう思った。「へー。どんな標語やろ」
それから、「母の標語」は 奈良県が配布するエンピツなどにプリントされた。
電車に乗っていた時、公共の建物の屋上から大きな旗が垂れ下がっていて、よく見るとそこにも「母の標語」が大きくプリントされて風になびいていた。(奈良県庁さん、あれ私の標語じゃなかったんです。もう時効でしょ。)
高校に入り、家庭科の夏休みの宿題が「自由研究」だった。
母は私が「研究」なんかする気もないことを見越して、代わりに夏休み中こつこつ何かを「研究」してくれていた。
夏休みが開ける頃、母が「こんなん出来たよ」と言って見せてくれたものは、「朝 昼 晩」の毎回の食事を写真に収めたもので、それを栄養バランスのグラフとともにいかに栄養が取れているかを研究したものだった。
それもじっくり見ることもなく家庭科の先生に提出しておいた。
高校全生徒が集まる集会で、またしても私は「表彰」されることとなった。
母の研究を家庭科の先生が勝手に「全国家庭科研究コンクール」に出しておいたらしい。それが賞を受けたという。
私は舞台に立たされて小さくなっていると、校長さんが
「miehfさん、おめでとうございます。 これは「味の素」社からの「お祝いの品」です。」 と賞状と共に渡された。
「味の素」が会場をドッと沸かせた(笑わせた)。
私の頭にはあの味の素社の「化学調味料」の小瓶が浮かび、会場の笑いが止まらない中、しずしずと自分の席に戻った。
教室に戻って恐る恐るその「品」を開けてみると、それは化学調味料ではなく、腕時計の中に時計が二つ入っているヘンテコなものだった。
さらによく見てみると、「AJINOMOTO」としっかり刻まれている。

「あーぁ、このネームさえなかったら使うのに」
などと、今思うと大変失礼なことを考えていた。
それ以降私はずっとの時計を家のどこかに閉まっておいた。
私がフランスに初めて行く日、父はどこからかこの時計を持ってきて 「これを持っていったらいいよ」 と言った。
「えー、いらん いらん、そんな変なやつ」
私は「AJINOMOTO」のネームが気になって嫌がった。それでも父はこれを持っていくように強く薦めた。
嫌がって腕につけたが、これが突如「すごく必要なもの」に変化した。
行きの飛行機で、一つはフランス時間、もう一つは日本時間に合わせればよいことに気づき、それ以降私はこの時計を肌身離さず身に着けるようになった。
「AJINOMOTO」が何か知らないフランス人達は、この時計を見ると
「うわーーーっすっごいいい時計持ってるねぇ、時計が二つ入ってるよ」
としげしげと見てうらやましがる。
時計の中に時計が二つ入っていて、それにこのネームが刻まれている超非売品のものは、もしかしたら今ではすごい「プレミア」のつく品になっているかもしれない、などと最近は思う。
味の素社さん 、この時計 フランスですごく役立っていますよ。本当に本当にありがとう!!!! miehf
