鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城西側防衛線 長窪砦と鎌倉城

2023年10月10日 | 大鎌倉城

注目は、鎌倉の街を継ぎ目なく囲った切岸です。自然の山を利用して、人工的な切岸を切れ目なく造り城壁にした。
鎌倉の市中には 古来からの巨大道路の東海道と東山道相模路が通っていたが、防衛上の理由で封鎖した痕跡もあり、ここで紹介した状態です。
下の図は、鎌倉の都を囲む城壁(青線)と長窪砦より馬を降りて鎌倉の都に入る(緑線)ルートに成ります。

この長窪の砦自体ででも、大きな城の規模です。
因みに江戸城の大手門より半蔵門迄1.4kmで 長窪砦は1.2kmと言う比較で如何に鎌倉城の規模が大きいかを考えて戴きたい。 
緑の樹木に隠された鎌倉城ですが、上の赤色地図が土壌の形状を示した図で 現地を見た時の理解に成ります。
鎌倉と言えば「イザ 鎌倉」と言う言葉が示す様に、、、、
鎌倉に事が起きたなら、日本国中の武士が先を争って鎌倉を目指して終結する!巨大な城は、兵員が無いと守れない訳です。
そのシステムは
馬を使って鎌倉に向かわないと取り残される。
その馬の数は、集まった兵の数に近いと考えられます。
馬を繋ぐ場所は、鎌倉城の大手道に在る台の馬場と長窪だけでは、不足で当然他にもある訳です。

『太平記』では新田義貞の討幕軍60万騎、鎌倉幕府軍14万騎で、話し半分で新田軍30万騎 鎌倉軍7万騎程度と考えると、新田軍30万騎+鎌倉軍7万騎=37万騎が当時の日本の総兵力であり、、、蒙古が押し寄せた時の鎌倉城を守る兵力と考える訳です。

その鎌倉城には騎馬37万頭を繋ぐ空き地が必要と成り、蒙古軍を攻撃する為の出撃基地と成ります。単なる身を守る為の城では無く攻撃基地と言う側面が有り。通常考える天守を守る城郭とは別のモノです。

その様な訳で、、後世の石垣が有り 天守の有る城の守りが主体と成る城とは異質な元寇を返り討ちにする攻撃的な城造りと成り、、、結果は城の外に馬場が有り、城を攻める元寇を背後から騎馬にて襲え、上陸した元寇に騎馬にて駆け付ける機動性を持っていたと考えて居る。

後年の戦国時代の城は、鎌倉の城造りが契機となり急に地方の士族が城を作り出したと解釈しています。

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鎌倉城東側防衛線 朝比奈切通 名越切通

2023年10月07日 | 大鎌倉城

朝比奈切通の以前は、古代東海道が鶴岡八幡宮前より朝比奈切通しを経て六浦まであり、六浦港より海路で上総へ渡る経路と考えられる。
六浦は、鎌倉幕府が外国と交易する港でもあります。
元寇が鎌倉に攻め寄せた時に海路案内人が行き慣れた六浦港が 攻め込む目標と鎌倉幕府は考えた節があり、東側の守りは堅い。
元が六浦港に船を入れ 鎌倉を攻め込むと考えた時に、最大の防御地点として朝比奈切通が存在する。
古代東海道として平塚に9m幅の道路痕跡が在り、その方向は六浦に向かっています。
更にその道路痕跡として、朝比奈切通は、鎌倉の切通としては破格の広さの7mと成って居り、これが古代東海道の痕跡である根拠です。
この古代東海道を鎌倉時代に朝比奈氏が改造して4m幅にしたと考えて居ます。
その改造の結果、古代東海道の痕跡が朝比奈切通のアチコチに残って居ます。

青色線が鎌倉城の切岸=城壁 で有り、黄色線は朝比奈切通と名越の切通と成る。
七里ヶ浜や由比ヶ浜は、外海で波が荒く遠浅の砂浜で在り、外洋船が停泊しにくい為、主船団は六浦から攻撃してくると幕府は考えた様で西側より東側の六浦面の防御は強固と考えられる。
結果は、
新田義貞は攻撃に楽な鎌倉の西側を攻めた訳ですが、、、それでも化粧坂は落とせなかった!

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鎌倉城北側防衛線 小袋切通より八幡宮北側

2023年08月01日 | 大鎌倉城

鎌倉城北側防衛線ですが、小袋切通しより大平山に向けた尾根道の状況です。

赤色地図は、故意に峰の兵員移動の道を紫色破線にしています。
白い処は、傾斜が少ない処で移動が楽に出来る場所です。
赤い場所は傾斜の場所、強い傾斜は黒っぽくなり崖状態に成った場所=切岸です。

更に
防衛ラインより張り出した峰の下も切岸と成っており、複雑な構造と成り この峰を使い敵の背後を攻める構造でもあります。
これらの樹木の茂った峰は単なる山に見える訳ですが、、、人が登れない様に人工的に切岸は作られている。= 「三方を山に囲まれた天然の要塞!」では無い!!
実態は、自然の山裾を切岸にして作り上げた人工的な城です。
種々の城を見て詳しい人ほど、、、世界でも指折りの広大な城を、見破れない!っというより広過ぎて調べてない!

鎌倉市内を囲む今回示した切岸は、源頼朝時代から鎌倉を囲む城壁と考える。
其の後
元寇の対策として、鎌倉市内の防衛ラインより外部に張り出した峰も切岸を作り、攻撃の拠点としても使える馬場なども作られたと考えて居ます。
当時、鎌倉に居住した南宋の僧より元寇の情報を得て 鎌倉幕府は対策を取って城を作り上げたと考えられる。

その脇で日蓮が「私を信じなければ、国難が起きる!」と布教して捕まった訳で、精神的な問題じゃなく物理的な防禦体制を取らないと話に成らない事を、鎌倉幕府は南宋の僧から聞かされ危機意識を持っていたと考えて居ます。
実際の国難は、武力と博多湾の元寇防塁及び神風に依って排除され、、日蓮の警告は意味を為さなかった。
鎌倉城は単純な専守防衛の城では無く、攻撃基地の性格も併せ持つ構造と考えて居ます。

新田義貞の時、幕府側は兵力が足りず、今回紹介した防衛ラインを守るのが限界で在った訳です。
日本全国の武士が鎌倉に集まり元寇を倒す為の城を作った訳ですから、幕府側の兵員だけで守るには兵員が足りない とはいいながら、 新田義貞が化粧坂の防衛ライン正面突破を仕掛けたが、、、幕府側より数倍の兵士で攻めても、不可能だった訳です。

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世界一大きな城は何処?2

2023年06月02日 | 巨城対モンゴル

江戸城の話です。通常は下の図を江戸城と考えると思います。

天守閣がお城と考えるのは、筋が違います。天守は権力を誇示する為の建築で、そこ迄攻められたら中で自決する為の時間稼ぎの場所です。

外敵が襲ってきた時に防禦する堀や壁(土塁)に囲まれた範囲が古来よりの城です。その想定で江戸城を考えると、、、

上図を見ると、、、

江戸の下町迄堀が囲い巻貝を連想する構造です。

外堀の防御に対し、、一番攻めやすい場所が芝口見付けと考えられますが、その脇には「浜大手門」現在の浜離宮が有ります。品川、銀座と攻め入り、城の周囲を一周して虎ノ門、日比谷に行き着き江戸城の核心を攻撃できる訳です。

上掲載の古地図はWikipediaより引用。

 

上のgoogle地図より、
江戸城総構えの面積は 16.6㎢
外堀の距離は 16km
南北4.7㎞  東西5.6㎞
と言う規模の巨大な城です。Wikipediaの理屈で考えれば世界一ですが、、、

京都では、羅城門なんて言う話はありますが、外部から攻められた時にその羅城で戦った話は無く、常に京都市内の屋敷に踏み込まれた話となる。
実質は羅城が無いと考えていましたが、江戸時代前に、羅城が造られていた。
その京都の羅城の名は御土居堀で、
御土居堀の面積 21㎢
御土居堀の距離 21㎞
南北8.2㎞  東西3.5㎞
このデータは、江戸城より大きい訳です。

更に古い鎌倉城はモット大きい城で在る訳です。
しかし、これ等の城が城郭資料に無いのは何故???
単なる「天守閣が無いから!」程度の理屈でしょうね!


城の本質を理解しない城郭研究者の為せる技と考えています。
それだけではなく、余りの広さに調べきれない! 何て言うのもアリかな??
場合によっては、、
鎌倉時代には世界一若しくは二を争う巨大な城と考えられます。
日本には、、更に巨大な羅城が在ったが、、、城郭研究者は調べようとしなかった。

 

その名は??

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世界一大きな城は何処?

2023年05月12日 | 巨城対モンゴル

このタイトルの意味は、、、
鎌倉城が世界のベスト10に入る規模の大きな城と思えるからです。

Googleで「世界一の城」と探すと、
一位 マルボルク城(0.14㎢)ポーランド
二位 メヘラーガル城塞(0.081㎢)インド 
三位 プラハ城(0.066㎢)チェコ 
四位 ウィンザー城(0.054㎢)イギリス
    等と表示されますが、、
上記の順位は権力者が自身の身を守る為の城と考えられます。
守る主体は何か?の問題です。
守る種類は、権力者、一般の住人、街等の構造物、土地、生活空間等があります。

日本の城は、権力者の命と身分を守る城と考えられます。
自分の屋敷=天守閣=権力の誇示
結果は 城=立派な天守閣 っと言うイメージが有ると思います。
しかし、城を趣味にする人は天守閣に目が行くし、権威を示す見た目が重要と成る。
その様に設計されたのが日本の城です。
城の目的は『外敵から身を守る為のモノ!』が本筋考えとすれば、
天守閣は防禦の本質を外した添え物となります。天守を囲まれたら、それは負け戦で、城主が自決をする為の、時間稼ぎの建築物に過ぎない。

鎌倉城は、権力者の保身の城では無く、日本と言う国の人民とその生活を含めた存亡を賭けた城です。

地図中の赤い面積は91.9㎢の広さと示されこれが鎌倉城の規模で、 世界一大きいと称するマルボルク城(0.14㎢)等問題外です。

鎌倉城は東西16km 南北10kmの大きさです。

世界には鎌倉城に並ぶ規模の城は有り、日本では江戸城が肩を並べますが、、、その紹介は次回へ!

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鎌倉城西側防衛線 大仏より小袋切通

2023年01月30日 | 大鎌倉城

  鎌倉城の切岸に就いては、、、
■鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8 (2016/02/24) 
■鎌倉に城は無かった!なんてね、9~12(2016/02/24)
■日本城郭大系  (2015/06/22)
■日本城郭大系2 (2015/06/26)
■鎌倉城の 成り立ち(2015/06/15)
■武家屋敷跡     (2014/10/10)
  以上に書かれていますが、

 これ等の切岸をどの様に感じるか?と言う問題がある。
城としての実感を持感じたくても、樹木に隠された現風景と、60年前の景観は別なモノで、当時の景観を再現したら巨大な防禦施設を実感できます。
モットも 巨大過ぎて視野に入るのは 城全体の数パーセントですから、後世の城郭研究者の常識で鎌倉城を見た時には単なる山に見える為に、鎌倉城を語る文献は無いも同様です。
権威の有る「日本城郭大系」が地方の豪族の作った城を基準に鎌倉城を見て、決定的な間違えを犯した。世界最大の軍隊を迎え撃つ為に、日本の総力を挙げて作った城を巨大過ぎて城とは見抜けなかった訳です。
 鎌倉の山の斜面は人工的に直線的な加工をされ、直登が困難な山肌に成っている全容が見えたのが、今では樹木に隠された山です。 
モットも 50年前の再現を望むなら、、、空中写真の立体視が在ります。

バーチャルながら、国土地理院地図(電子国土Web) ⇒「地図の種類 トップ」 ⇒「標高・土地の凸凹」 ⇒「赤色立体地図」を選ぶと下の図の様になる。更に「ツール」 ⇒「並べて比較」した状態です。

左下は大仏切通、そして右の中程のブルーのラインが切れた処が小袋坂です。
黄色いラインは、鎌倉城の大手道と考えられる化粧坂より台の馬場(緑のラインで囲ってある)へ抜ける道です。
新田義貞は この黄色いラインの大手道を攻撃した=化粧坂に向けて攻撃した。 と言う事です。
ご覧の通り、この黄色いラインに下から攻め上がる事は無理であった理由は、この図や、過去ブログ「新田軍は化粧坂に2〜4」(2018/10/20以降)や、 「台峰の砦2〜11」(2020/09/24以降)を参照してください。

今回のテーマは、これ等の城郭遺構と,周囲の見処を併せて紹介しようと言う考えでして、鎌倉在住の方には周知の事ですが、これは序盤です。

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鎌倉城西側防衛線 稲村ヶ崎より大仏切通

2023年01月16日 | 大鎌倉城

鎌倉城の城壁をご覧になり、如何でしょうか?
注目点は、
自然地形のハズが、、都合よく鎌倉山の峰で囲えたものだ!
そんな好都合な山の峰が本当に有ったのか? 奇跡です。
キット人工的に塞いだ場所も有ったでしょうに、、、(そこ迄 調べた事は無いが、出来過ぎた城壁です。)

新田義貞は陸上より攻めたが、鎌倉軍の防衛線としては、兵を配置す為の峰通し道となり、その下は鎌倉城の城壁である切岸になっている。
現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ 切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。

鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり、温暖化でグリーンベールは厚みを増し単なる山に見えます。眺望の有った源氏山は、街並みも見えず海も望めない。

下図は、樹木と建物を排除し、赤色で高低差を表現し、急な崖は黒く表現した地図です。 稲村ケ崎より大仏切通し迄の切岸で、ブルーラインの下は崖です。

如何でしょうか?自然地形に手を加えて切岸にしたのですが、、 地方の小さな城とは比較に成らない巨大さと、短い年月で世界一巨大な国の軍隊を迎え撃つ「砦」とも「要塞」とも鎌倉の都を守る「総構の媚を売る訳でも無く、ミタクレを気にした城では有りません。 

下の図。切岸の傾斜が強い場所は、黒く強調した合成写真です。

切岸に近づくと樹々の隙間から切岸を覗く事が出来る場所が有りますが、現実の写真と比べ、樹木の厚みや建物の立体した3Dの状態は無いので注意。

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鎌倉城の城壁

2023年01月16日 | 大鎌倉城

鎌倉の街を囲む城壁が有ります。

城壁に出入りするには鎌倉七口とも称し中身は切通しと坂です。

その他に、新田義貞が鎌倉攻めに使った稲村路と逗子の披露山から逗子市新宿へ下りる古代東海道と間違えられた道が在ります。

ブルーのラインがその城壁の上で在り、下は城壁として切岸と成っている。

敵の想定は、陸地の外側から攻められた時にもその峰の下は切岸で有り、海岸から船で攻められた時には、砂浜の処で防塁が有り、其処が破られたら山に避難し、切岸に守られ攻撃を再開できる構造です。

この構造を、歩いて観察し易いように地図と起伏図を併用して紹介しようとおもいます。

鎌倉城西側防衛線 はその為に書き始めたのですが、、、

書き換えるつもりです。

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鎌倉城の特徴

2022年10月02日 | 大鎌倉城

赤いラインは、鎌倉の市街を守る防衛ラインで、その下は切岸です。
青いラインは鎌倉七口の切通。 緑ラインは稲村路

鎌倉城を解説した研究書は殆ど無い。
在っても断片的で有ったり、全体の城としての構造や機能迄の解説は無い。

鎌倉終焉の時に、この城の特徴が示された。
関ヶ原の戦い - Wikipedia
西軍8万人 対  東軍9万人の戦い。

関ケ原の戦いより規模が大きい、鎌倉の戦いでは、
推定   新田軍 25万人 対 鎌倉幕府 5,5万人
太平記は 新田軍六十万七千騎 対 鎌倉幕府十五万騎 
攻撃新田軍の圧倒的な人数に対し、鎌倉軍は少ないが、3日持ち応えてた。

新田軍は正面突破が出来ず、城壁の途絶えた稲村路より、干上がった海より鎌倉に侵入出来た。それ程強固な鎌倉城の実態を調べた研究書を私は知らない。

現代の研究は、参考文献を調べて研究書を作る訳ですが、鎌倉城を示す研究書は太平記、梅松論、吾妻鑑、軍忠書等限られ、その範囲で研究する訳です。
挙句は、2010年以降「鎌倉に城は無い!」と言う説が鎌倉市内の講習会で流布する珍事まで起きた。
その原因は、何故なのか?
文献のみを根拠に研究し、鎌倉の土地に残る鎌倉城の痕跡を調べた研究書は無かった。
余りにも巨大な城遺構は個人の調査で調べられる規模ではない。
新田義貞の攻めた鎌倉城西側(稲村ケ崎より小袋坂の建長寺まで)だけで直線距離4Kmある。
モロニ調べれば、その3倍12㎞の城壁にあたる切岸があり、鎌倉を守る防衛線だけの話。
鎌倉城西側防の衛線より張り出した砦遺構の切岸は、その十倍以上となる。
通常語られる日本の城遺構とは、比べようの無い広大な城で、世界的にもこれ以上の城跡は在るか無いか?のレベルです。
その理由は、世界一の軍隊と戦う事を想定した城で在った訳です。

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頼朝落馬の地、「八的ヶ原」 2

2022年07月09日 | Weblog

頼朝落馬の地の碑がJR東海道辻堂駅の近くに在るそうです。

>     2022年4月市民センター開館記念講演にて、
>辻堂在住の郷土史家・大石静雄さん(98)が地域の歴史に
>ついて語った。小学5年生の時に、地元の高齢者から「この
>場所で昔頼朝が落馬した、よく覚えておいて」と教えられた。

.
これが根拠で案内板が造られた様です。
.文献の(北条九代記)と(保暦間記)には、義経の亡霊は「八的ヶ原」にあらわれたと書かれており、、、その場所は藤沢市辻堂だという説がある。


.物的根拠は無いようです。 この周囲は砂地の土地で鎌倉古道を確定するには、発掘で路面の硬化が見つかれが良いのですが、、唯一 口伝が在りました。
.更に、古代東海道の引地川辺りからの分岐と成れば、、橋脚遺跡に向け妥当な京鎌倉往還の鎌倉道と考えられます。


赤丸が頼朝落馬地点の碑で、青いラインは京鎌倉往還の鎌倉道の想定です。
.しかし明治の地図ではその鎌倉道痕跡は無く、砂地の原野と考えられ。現代の地図では、建築が密で鎌倉道の物理的証明は無理と思います。

願わくば、当然鎌倉道の痕跡上に頼朝落馬地点が有ったハズで、鎌倉道の明治の状況が語られたら、信頼の置ける話に成ると思うのですが、、、

辻堂在住の郷土史家・大石静雄さんに当時の鎌倉街道の痕跡が在ったのか? そんな記録が在れば知りたいのですが、800年経てば砂の中!  その場所の詳細が無い口伝で、鎌倉道の痕跡をご存じの方はお知らせください。この場所が頼朝落馬の場所と言うだけで、京鎌倉往還の経路を思い巡らせる面白い情報でした。

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稲村崎成干潟事のマトメ 4 google Earth

2022年06月24日 | 稲村ヶ崎伝説

.由比ヶ浜から 霊仙崎を写した図です。 赤い点線が稲村路です。
.現在は「google Earth」の画像がトテモ緻密に成り空中写真と遜色なくなっています。
.そんな「google Earth」の画像です。

.空中写真ですと、高低差に極端な変形が在り、トテモ急な坂に見えますが、水平方向からの画像は、見ての通り、老若男女も取り敢えずは伝え歩きで通過できる傾斜と成ります。
.現実の坂は、関東大震災の為海側が崩れて、幅40㎝の道が残って居ます。、、平均台の上を歩く状態で、伝え歩きをする状態でした。
.再度訪れて写真を撮る考えでしたが、、植物の繁茂が年々ヒドクて植物の冬枯れも無くなり  草刈道具が必要で、更に道路遺構にも蔦が繁茂して写真も撮れない現状です。
.下図は、一番右に由比ヶ浜の海岸がみえて、稲村路と干潟に成った場所(現在の埋め立て地)の位置関係を示す図です。


.この画像を2D(平面図)で示すと下図の様です。

.七里ヶ浜から極楽寺に向けた点線が急角度で南に向かう地点が針摺橋です。


太平記より、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。
〇これが七里ヶ浜より極楽寺に向かう際=七里ヶ浜の砂浜なら、稲村ケ崎は東ですから、極楽寺坂の様子が窺えるギリギリまで進んだ状況で偵察をした。
〇その場所は、針摺橋辺りが妥当と考えるのです。.
〇更にその場所は南が「稲村ケ崎」=稲村路 でして、
〇稲村路は、霊仙崎と稲村ヶ崎に挟まれた状態で在り、岩場を降りる稲村路の痕跡も現存すると言う訳です。

.偵察で針摺橋迄侵入すると、道は二手に分かれており 北は極楽寺、南は稲村ケ崎!と成っていた。 
後ろを振り返り「後ろは七里ガ浜で稲村ケ崎!」と理屈じゃ書きませんから、道の分岐点での記述と解釈できる。  古文献の記載に矛盾が無いのですが、現代の鎌倉研究者は現地と対比して研究した痕跡も無く、他者の研究本を信用して間違えの上塗りをしています。

以上が稲村路を地形から 広い視野での説明です。

参照記事 カテゴリー:稲村ヶ崎伝説  稲村崎成干潟事 上巻 をご覧ください。

 

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稲村崎成干潟事のマトメ 3 空中写真

2022年06月19日 | 稲村ヶ崎伝説

下は2014年写で、崖の岩肌は、温暖化により殆ど隠れています。道路痕跡は目立たぬ様にピンクでプロットして在ります。

 

下の写真は、2007年で多少は岩肌が見えます。(CKT20072-C26-56)

 道路遺構が、崖を横切る状態で写っています。
PC画面で作図しているので、スマホでは画像が荒いかもしれません。
興味のある方は、国土地理院の空中写真閲覧にて(CKT20072-C26-56)を調べて下さい。
下の写真は1964年で、崖には緑がホトンド無い時代です。

古い空中写真は画素が荒くて1m程度の道幅では画像に出にくい。

垂直に近い崖は空中写真を真上から撮ったら殆ど写らない!
季節により植生が変わり崖の見え方が変わる!
近年の空中写真は画素が緻密で詳細まで写るが、緑が侵食し始め、道路痕跡は隠れる!
冬枯れも殆ど無く、伐採覚悟の草刈道具持参でないと道路痕跡を確認できない。

プールの有る場所は、明治の時代に大潮の時は平らな干潟に成った場所で、関東大震災で1m程隆起し、埋め立てて現在に至ります。 これも歴史の一部なんですがね、、

視野の狭い科学的な研究発表しても、モット重大な要素を無視したら、それは非科学的な嘘になる。 事の起こりは明治の研究者大森金五郎が稲村ケ崎を渡渉し定説になり、稲村ケ崎には石碑迄作られ誰も疑問に思わなかった! でも、古典に書かれた事とは符合しないでしょ??

視野が狭ま過ぎて問題が有る専門家が多いのは残念で、過去の研究書を読み漁って確認もせずに妄信する、自分で考える事もせずにマスコミに拡散する事態に成っています。

この道路痕跡が示すのは、岩の高い場所を狭い砂浜に向かって降りる道で、強い干潮の時は干潟が沖に向かって100m程浮き上がり、古典の記載と矛盾しない場所です。

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稲村崎成干潟事のマトメ 2 干潮の時刻

2022年06月16日 | 稲村ヶ崎伝説

誰でも、、、、稲村ガ崎の突端に行けば、、、
「この海が干上がり鎌倉に歩いて行けた!」 それって本当???
 根底にその疑問が有るので実証しよう!! っと徒渉実験が行われた。

引き潮の時なら、、、軽装で腰ぐらいの処まで浸かり、稲村ヶ崎を回り込む事が出来る。
しかし、其処は洗濯板状態の侵食された岩場であり、次の一歩は胸までの深さになり慎重に足場を探りながら渡渉となります。
人は膝から上に水が来ると途端に行動が鈍り船から横矢の絶好な標的になる。
その上、甲冑(足軽、雑兵の胴巻きで10㎏ 刀1㎏)を着け転倒したら溺れます!
稲村ヶ崎の突端では、潮が引いても船が沖に避難する必要は無い。よって鎌倉軍は船から渡渉する新田軍を狙い横矢を射れる。
その様な観点から、、
稲村ガ崎の突端を徒渉した説は机上の理論であり、実戦には役に立たず 太平記や梅松論の記述とも合わない空論と言えます。(関東大震災以前は 現在より更に1m深かった!)
問題は
腰まで波に浸かりながら歩く干上がり方では無く、数万の兵士が由比ガ浜に向かい浮き上がった岩礁の上を歩ける干上がり方であったのです。【2010ぼ輔記 未掲載】

稲村崎成干潟事とは、普段海中の中の岩礁が潮が引いて海水面から浮き上がった状態を干潟と言います。『干潟』の意味を知らず、誤解したのが従来説です。干潟は由比ヶ浜より霊仙崎の前に向け 長さ1㎞(10町) 幅100mの干潟の出来る場所が在り、現在は市営プールの在る埋立地です。

攻込む場所を間違え、稲村ケ崎の突端と解釈した。これは稲村路の場所を調べなかった間違えです。

更に如何でも良い日時や時間迄、、、科学的な感違えに発展するのだが、何故に古来より月の満ち欠けで日にちが決まった太陰歴の情報を太陽暦に換算する必要が有るのか?? 専門家の視野の狭い詳細な研究は、より重大な要素を無視した誤りを犯した話です。

#####その他の 勘違い研究者の記事#######
新田軍が鎌倉へと攻め入った日を
「太平記」では 元弘三年五月二十一日 
1915年に小川清彦(「古天文学」の創始者)が
潮汐の計算をすると、この日は干潮では無い。
新田義貞は干潟でなく海を渡渉と見解を出しま
した。
これに対し1993年 石井進((専門は日本中世
史。文学博士)の研究では、5月18日の午後
であり、太平記が間違いと結論をだした。
更に2009年『海洋調査』協会報No.95号
「稲村ヶ崎の干潟伝説は本当だった」山田 秋彦
にて渡渉報告が在る。
###################################

「太平記」 元弘三年五月二十一日 は西暦1333年7月3日
「梅松論」 元弘三年五月 十八日 は西暦1333年6月30日
   ドチラが正しいか?!どちらも正しい!! モノの見方や考え方で左右されます。

さて、潮が大きく満ち引きするのは大潮ですが、月と太陽の位置で決まります。
大きく潮が引いたなら、それは新月か満月の日(1~2日ズレる)です。
基本は旧暦の話で、月の満ち欠けで日は決まる。更に大潮の日も、、、
新月の時は1日で、、、、15日は満月です。(一五夜は毎月満月と決まっています。)
よって大潮は1日と15日(1日2日遅れる事が有り)です。
「梅松論」5月18日と 「太平記」5月21日は大潮には無関係です。

初めから、異常な引き潮であり、新田義貞が鎌倉へ入る前に大館次郎宗氏が由比ヶ浜へ少人数で侵入出来たが、幕府軍の反撃で討ち死にした。その知らせを受けた新田義貞は、化粧坂より稲村路侵攻に切り替えた、っと太平記の記述がある。
依って、新田義貞が黄金の太刀を海に投げ込む前から潮は引いており、戦いが終わるまで潮が引いていたと梅松論には記述が在る。

太陰暦を太陽暦に変換する必要の無い科学的研究の間違え古典の無理解による見落としです。

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稲村崎成干潟事のマトメ 1

2022年06月10日 | 稲村ヶ崎伝説

「稲村路」と言う記載が古典には有ります。
●海道記(1223年頃)
「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」
  ぼ助訳)高い岩の
(険しき岩の重なり臥せる)狭い道を降りれば(狭まを伝いいけば)浪打際に出る(岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。)
●太平記「南は稲村ヶ崎にて、沙頭路狭きに、浪打ち際まで逆茂木を繁く」  (ぼ助注)極楽寺に向かい敵が攻撃しないギリギリの場所まで近寄って偵察した状況で、
針磨橋の辺りの状況と考えらえれる。依って稲村ケ崎=稲村路と解釈できる。

●梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」
  (ぼ助訳)波打ち際を通るのだが、石の高い処を細い道が通っている。

稲村路の特徴は、、、
「梅松論」より 石高く道細くして=石の高い場所を通っている。
「海道記」より 険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば=岩の高い場所を降りれば、波打ち際の道に成る。
上記の結果は、高い岩の上から浪打際に降り 其の後広い由比ヶ浜に出る道です。
「太平記」より、稲村路は波打ち際に降りる迄 逆茂木でバリケードを作って有った。

通説の稲村ケ崎の水際に稲村路の痕跡等無いのは、見れば理解できるでしょう。
更に、古典に書かれた「高い場所から降りる路」を作る場所も稲村ケ崎には無い訳であす。

如何でしょうか? 稲村路の痕跡が確認出来ますか?


赤紫のマークした場所です。
古典に書かれた状況と合致する場所に成ります。

下図の明治迅速図の青で①のラインは俗に言われた稲村ヶ崎の渡渉の場所。

上記赤い②の場所は、稲村路と想定するルートです。

埋め立て地は、関東大震災で1m浮き上がった岩礁の上であり、新田義貞が岩礁の上を攻め込んだ故事と矛盾しない場所に成ります。

次回は、この場所の公的な写真=国土交通省の空中写真と成ります。

詳細は、 カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

 

 

 

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稲村崎成干潟事 干潟の状態は、、、

2022年06月06日 | 稲村ヶ崎伝説

―――干潟の状態―――
●【太平記・稲村崎干潟事】
誠に龍神納受やし給ひけん。その夜の月の入に前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄に二十余町干上って、平砂渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。不思議と云ふも類無し。
【平沙】広々とした砂原。へいしゃ。
【渺渺】 広くはてしないさま。遠くはるかなさま
●【梅松論】「北条氏の滅亡」
爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。
干潟=干潮の時・・土地が現れる 現象

古典では海水面より上に干潟が出来上がったと書かれています。
更に太平記では具体的に『二十余町干上って、平砂渺々』と書かれ、実際に当てはめれば、
坂ノ下から鎌倉市民プール迄の埋め立て地迄が干潟と成り、明治時代にその干潟を写した写真も存在する。更に関東大震災で1m隆起し、埋め立て地にする計画が始まった。

その実態は、10町在り、崖下の稲村路から100m程沖まで干潟が出来たと考えれば「横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。」となり、、矢は200m程飛んでも、狙い撃ちは30m程ですから、効果は無かったと考えられます。
決して、古典の読解力が無い研究者が稲村ケ崎の脇の渡渉実験の様に水に漬かりながら歩いた訳では無く、霊仙崎1キロの波打ち際で幅100mが水面から浮き上がり、その上を由比ヶ浜に攻め込んだ と読みとれます。稲村路の場所が問題と成ります。
次は、稲村路の痕跡の話です。

詳細と写真は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

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