鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城の城壁

2023年01月16日 | 大鎌倉城

鎌倉の街を囲む城壁が有ります。

城壁に出入りするには鎌倉七口とも称し中身は切通しと坂です。

その他に、新田義貞が鎌倉攻めに使った稲村路と逗子の披露山から逗子市新宿へ下りる古代東海道と間違えられた道が在ります。

ブルーのラインがその城壁の上で在り、下は城壁として切岸と成っている。

敵の想定は、陸地の外側から攻められた時にもその峰の下は切岸で有り、海岸から船で攻められた時には、砂浜の処で防塁が有り、其処が破られたら山に避難し、切岸に守られ攻撃を再開できる構造です。

この構造を、歩いて観察し易いように地図と起伏図を併用して紹介しようとおもいます。

鎌倉城西側防衛線 はその為に書き始めたのですが、、、

書き換えるつもりです。

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鎌倉城の特徴

2022年10月02日 | 大鎌倉城

赤いラインは、鎌倉の市街を守る防衛ラインで、その下は切岸です。
青いラインは鎌倉七口の切通。 緑ラインは稲村路

鎌倉城を解説した研究書は殆ど無い。
在っても断片的で有ったり、全体の城としての構造や機能迄の解説は無い。

鎌倉終焉の時に、この城の特徴が示された。
関ヶ原の戦い - Wikipedia
西軍8万人 対  東軍9万人の戦い。

関ケ原の戦いより規模が大きい、鎌倉の戦いでは、
推定   新田軍 25万人 対 鎌倉幕府 5,5万人
太平記は 新田軍六十万七千騎 対 鎌倉幕府十五万騎 
攻撃新田軍の圧倒的な人数に対し、鎌倉軍は少ないが、3日持ち応えてた。

新田軍は正面突破が出来ず、城壁の途絶えた稲村路より、干上がった海より鎌倉に侵入出来た。それ程強固な鎌倉城の実態を調べた研究書を私は知らない。

現代の研究は、参考文献を調べて研究書を作る訳ですが、鎌倉城を示す研究書は太平記、梅松論、吾妻鑑、軍忠書等限られ、その範囲で研究する訳です。
挙句は、2010年以降「鎌倉に城は無い!」と言う説が鎌倉市内の講習会で流布する珍事まで起きた。
その原因は、何故なのか?
文献のみを根拠に研究し、鎌倉の土地に残る鎌倉城の痕跡を調べた研究書は無かった。
余りにも巨大な城遺構は個人の調査で調べられる規模ではない。
新田義貞の攻めた鎌倉城西側(稲村ケ崎より小袋坂の建長寺まで)だけで直線距離4Kmある。
モロニ調べれば、その3倍12㎞の城壁にあたる切岸があり、鎌倉を守る防衛線だけの話。
鎌倉城西側防の衛線より張り出した砦遺構の切岸は、その十倍以上となる。
通常語られる日本の城遺構とは、比べようの無い広大な城で、世界的にもこれ以上の城跡は在るか無いか?のレベルです。
その理由は、世界一の軍隊と戦う事を想定した城で在った訳です。

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頼朝落馬の地、「八的ヶ原」 2

2022年07月09日 | Weblog

頼朝落馬の地の碑がJR東海道辻堂駅の近くに在るそうです。

>     2022年4月市民センター開館記念講演にて、
>辻堂在住の郷土史家・大石静雄さん(98)が地域の歴史に
>ついて語った。小学5年生の時に、地元の高齢者から「この
>場所で昔頼朝が落馬した、よく覚えておいて」と教えられた。

.
これが根拠で案内板が造られた様です。
.文献の(北条九代記)と(保暦間記)には、義経の亡霊は「八的ヶ原」にあらわれたと書かれており、、、その場所は藤沢市辻堂だという説がある。


.物的根拠は無いようです。 この周囲は砂地の土地で鎌倉古道を確定するには、発掘で路面の硬化が見つかれが良いのですが、、唯一 口伝が在りました。
.更に、古代東海道の引地川辺りからの分岐と成れば、、橋脚遺跡に向け妥当な京鎌倉往還の鎌倉道と考えられます。


赤丸が頼朝落馬地点の碑で、青いラインは京鎌倉往還の鎌倉道の想定です。
.しかし明治の地図ではその鎌倉道痕跡は無く、砂地の原野と考えられ。現代の地図では、建築が密で鎌倉道の物理的証明は無理と思います。

願わくば、当然鎌倉道の痕跡上に頼朝落馬地点が有ったハズで、鎌倉道の明治の状況が語られたら、信頼の置ける話に成ると思うのですが、、、

辻堂在住の郷土史家・大石静雄さんに当時の鎌倉街道の痕跡が在ったのか? そんな記録が在れば知りたいのですが、800年経てば砂の中!  その場所の詳細が無い口伝で、鎌倉道の痕跡をご存じの方はお知らせください。この場所が頼朝落馬の場所と言うだけで、京鎌倉往還の経路を思い巡らせる面白い情報でした。

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稲村崎成干潟事のマトメ 4 google Earth

2022年06月24日 | 稲村ヶ崎伝説

.由比ヶ浜から 霊仙崎より 稲村ケ崎迄の全体図でこの地域の地形を把握する図面です。
.現在は「google Earth」の画像がトテモ緻密に成り空中写真と遜色なくなっています。
.そんな「google Earth」の画像です。

.空中写真ですと、高低差に極端な変形が在り、トテモ急な坂に見えますが、水平方向からの画像は、見ての通り、老若男女も取り敢えずは伝え歩きで通過できる傾斜と成ります。
.現実の坂は、関東大震災の為海側が崩れて、幅40㎝の道が残っており、崖上迄続いて居ましたが、、平均台の上を歩く状態で、伝え歩きをする状態でした。
.再度訪れて写真を撮る考えでしたが、、植物の繁茂が年々ヒドクて真冬でも現場迄 草刈道具が必要で、更に道路遺構にも蔦が繁茂して写真も撮れない現状です。
.下図は、一番右に由比ヶ浜の海岸がみえて、稲村路と干潟に成った場所(現在の埋め立て地)の位置関係を示す図です。


.この画像を2D(平面図)で示すと下図の様です。

.七里ヶ浜から極楽寺に向けた点線が急角度で南に向かう地点が針摺橋です。


太平記より、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。
〇これが七里ヶ浜より極楽寺に向かう際=七里ヶ浜の砂浜なら、稲村ケ崎は東ですから、極楽寺坂の様子が窺えるギリギリまで進んだ状況で偵察をした。
〇その場所は、針摺橋辺りが妥当と考えるのです。.
〇更にその場所は南が「稲村ケ崎」=稲村路 でして、
〇稲村路は、霊仙崎と稲村ヶ崎に挟まれた状態で在り、岩場を降りる稲村路の痕跡も現存すると言う訳です。

.偵察で針摺橋迄侵入すると、道は二手に分かれており 北は極楽寺、南は稲村ケ崎!と成っていた。 
後ろを振り返り「後ろは七里ガ浜で稲村ケ崎!」と理屈じゃ書きませんから、道の分岐点での記述と解釈できる。  古文献の記載に矛盾が無いのですが、現代の鎌倉研究者は現地と対比して研究した痕跡も無く、他者の研究本を信用して間違えの上塗りをしています。

以上が稲村路を地形から 広い視野での説明です。

参照記事 カテゴリー:稲村ヶ崎伝説  稲村崎成干潟事 上巻 をご覧ください。

 

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稲村崎成干潟事のマトメ 3 空中写真

2022年06月19日 | 稲村ヶ崎伝説

下は2014年写で、崖の岩肌は、温暖化により殆ど隠れています。道路痕跡は目立たぬ様にピンクでプロットして在ります。

 

下の写真は、2007年で多少は岩肌が見えます。(CKT20072-C26-56)

 道路遺構が、崖を横切る状態で写っています。
PC画面で作図しているので、スマホでは画像が荒いかもしれません。
興味のある方は、国土地理院の空中写真閲覧にて(CKT20072-C26-56)を調べて下さい。
下の写真は1964年で、崖には緑がホトンド無い時代です。

古い空中写真は画素が荒くて1m程度の道幅では画像に出にくい。

垂直に近い崖は空中写真を真上から撮ったら殆ど写らない!
季節により植生が変わり崖の見え方が変わる!
近年の空中写真は画素が緻密で詳細まで写るが、緑が侵食し始め、道路痕跡は隠れる!
冬枯れも殆ど無く、伐採覚悟の草刈道具持参でないと道路痕跡を確認できない。

プールの有る場所は、明治の時代に大潮の時は平らな干潟に成った場所で、関東大震災で1m程隆起し、埋め立てて現在に至ります。 これも歴史の一部なんですがね、、

視野の狭い科学的な研究発表しても、モット重大な要素を無視したら、それは非科学的な嘘になる。 事の起こりは明治の研究者大森金五郎が稲村ケ崎を渡渉し定説になり、稲村ケ崎には石碑迄作られ誰も疑問に思わなかった! でも、古典に書かれた事とは符合しないでしょ??

視野が狭ま過ぎて問題が有る専門家が多いのは残念で、過去の研究書を読み漁って確認もせずに妄信する、自分で考える事もせずにマスコミに拡散する事態に成っています。

この道路痕跡が示すのは、岩の高い場所を狭い砂浜に向かって降りる道で、強い干潮の時は干潟が沖に向かって100m程浮き上がり、古典の記載と矛盾しない場所です。

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稲村崎成干潟事のマトメ 2 干潮の時刻

2022年06月16日 | 稲村ヶ崎伝説

誰でも、、、、稲村ガ崎の突端に行けば、、、
「この海が干上がり鎌倉に歩いて行けた!」 それって本当???
 根底にその疑問が有るので実証しよう!! っと徒渉実験が行われた。

引き潮の時なら、、、軽装で腰ぐらいの処まで浸かり、稲村ヶ崎を回り込む事が出来る。
しかし、其処は洗濯板状態の侵食された岩場であり、次の一歩は胸までの深さになり慎重に足場を探りながら渡渉となります。
人は膝から上に水が来ると途端に行動が鈍り船から横矢の絶好な標的になる。
その上、甲冑(足軽、雑兵の胴巻きで10㎏ 刀1㎏)を着け転倒したら溺れます!
稲村ヶ崎の突端では、潮が引いても船が沖に避難する必要は無い。よって鎌倉軍は船から渡渉する新田軍を狙い横矢を射れる。
その様な観点から、、
稲村ガ崎の突端を徒渉した説は机上の理論であり、実戦には役に立たず 太平記や梅松論の記述とも合わない空論と言えます。(関東大震災以前は 現在より更に1m深かった!)
問題は
腰まで波に浸かりながら歩く干上がり方では無く、数万の兵士が由比ガ浜に向かい浮き上がった岩礁の上を歩ける干上がり方であったのです。【2010ぼ輔記 未掲載】

稲村崎成干潟事とは、普段海中の中の岩礁が潮が引いて海水面から浮き上がった状態を干潟と言います。『干潟』の意味を知らず、誤解したのが従来説です。干潟は由比ヶ浜より霊仙崎の前に向け 長さ1㎞(10町) 幅100mの干潟の出来る場所が在り、現在は市営プールの在る埋立地です。

攻込む場所を間違え、稲村ケ崎の突端と解釈した。これは稲村路の場所を調べなかった間違えです。

更に如何でも良い日時や時間迄、、、科学的な感違えに発展するのだが、何故に古来より月の満ち欠けで日にちが決まった太陰歴の情報を太陽暦に換算する必要が有るのか?? 専門家の視野の狭い詳細な研究は、より重大な要素を無視した誤りを犯した話です。

#####その他の 勘違い研究者の記事#######
新田軍が鎌倉へと攻め入った日を
「太平記」では 元弘三年五月二十一日 
1915年に小川清彦(「古天文学」の創始者)が
潮汐の計算をすると、この日は干潮では無い。
新田義貞は干潟でなく海を渡渉と見解を出しま
した。
これに対し1993年 石井進((専門は日本中世
史。文学博士)の研究では、5月18日の午後
であり、太平記が間違いと結論をだした。
更に2009年『海洋調査』協会報No.95号
「稲村ヶ崎の干潟伝説は本当だった」山田 秋彦
にて渡渉報告が在る。
###################################

「太平記」 元弘三年五月二十一日 は西暦1333年7月3日
「梅松論」 元弘三年五月 十八日 は西暦1333年6月30日
   ドチラが正しいか?!どちらも正しい!! モノの見方や考え方で左右されます。

さて、潮が大きく満ち引きするのは大潮ですが、月と太陽の位置で決まります。
大きく潮が引いたなら、それは新月か満月の日(1~2日ズレる)です。
基本は旧暦の話で、月の満ち欠けで日は決まる。更に大潮の日も、、、
新月の時は1日で、、、、15日は満月です。(一五夜は毎月満月と決まっています。)
よって大潮は1日と15日(1日2日遅れる事が有り)です。
「梅松論」5月18日と 「太平記」5月21日は大潮には無関係です。

初めから、異常な引き潮であり、新田義貞が鎌倉へ入る前に大館次郎宗氏が由比ヶ浜へ少人数で侵入出来たが、幕府軍の反撃で討ち死にした。その知らせを受けた新田義貞は、化粧坂より稲村路侵攻に切り替えた、っと太平記の記述がある。
依って、新田義貞が黄金の太刀を海に投げ込む前から潮は引いており、戦いが終わるまで潮が引いていたと梅松論には記述が在る。

太陰暦を太陽暦に変換する必要の無い科学的研究の間違え古典の無理解による見落としです。

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稲村崎成干潟事のマトメ 1

2022年06月10日 | 稲村ヶ崎伝説

「稲村路」と言う記載が古典には有ります。
●海道記(1223年頃)
「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」
  ぼ助訳)高い岩の
(険しき岩の重なり臥せる)狭い道を降りれば(狭まを伝いいけば)浪打際に出る(岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。)
●太平記「南は稲村ヶ崎にて、沙頭路狭きに、浪打ち際まで逆茂木を繁く」  (ぼ助注)極楽寺に向かい敵が攻撃しないギリギリの場所まで近寄って偵察した状況で、
針磨橋の辺りの状況と考えらえれる。依って稲村ケ崎=稲村路と解釈できる。

●梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」
  (ぼ助訳)波打ち際を通るのだが、石の高い処を細い道が通っている。

稲村路の特徴は、、、
「梅松論」より 石高く道細くして=石の高い場所を通っている。
「海道記」より 険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば=岩の高い場所を降りれば、波打ち際の道に成る。
上記の結果は、高い岩の上から浪打際に降り 其の後広い由比ヶ浜に出る道です。
「太平記」より、稲村路は波打ち際に降りる迄 逆茂木でバリケードを作って有った。

通説の稲村ケ崎の水際に稲村路の痕跡等無いのは、見れば理解できるでしょう。
更に、古典に書かれた「高い場所から降りる路」を作る場所も稲村ケ崎には無い訳であす。

如何でしょうか? 稲村路の痕跡が確認出来ますか?


赤紫のマークした場所です。
古典に書かれた状況と合致する場所に成ります。

下図の明治迅速図の青で①のラインは俗に言われた稲村ヶ崎の渡渉の場所。

上記赤い②の場所は、稲村路と想定するルートです。

埋め立て地は、関東大震災で1m浮き上がった岩礁の上であり、新田義貞が岩礁の上を攻め込んだ故事と矛盾しない場所に成ります。

次回は、この場所の公的な写真=国土交通省の空中写真と成ります。

詳細は、 カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

 

 

 

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稲村崎成干潟事 干潟の状態は、、、

2022年06月06日 | 稲村ヶ崎伝説

―――干潟の状態―――
●【太平記・稲村崎干潟事】
誠に龍神納受やし給ひけん。その夜の月の入に前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄に二十余町干上って、平砂渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。不思議と云ふも類無し。
【平沙】広々とした砂原。へいしゃ。
【渺渺】 広くはてしないさま。遠くはるかなさま
●【梅松論】「北条氏の滅亡」
爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。
干潟=干潮の時・・土地が現れる 現象

古典では海水面より上に干潟が出来上がったと書かれています。
更に太平記では具体的に『二十余町干上って、平砂渺々』と書かれ、実際に当てはめれば、
坂ノ下から鎌倉市民プール迄の埋め立て地迄が干潟と成り、明治時代にその干潟を写した写真も存在する。更に関東大震災で1m隆起し、埋め立て地にする計画が始まった。

その実態は、10町在り、崖下の稲村路から100m程沖まで干潟が出来たと考えれば「横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。」となり、、矢は200m程飛んでも、狙い撃ちは30m程ですから、効果は無かったと考えられます。
決して、古典の読解力が無い研究者が稲村ケ崎の脇の渡渉実験の様に水に漬かりながら歩いた訳では無く、霊仙崎1キロの波打ち際で幅100mが水面から浮き上がり、その上を由比ヶ浜に攻め込んだ と読みとれます。稲村路の場所が問題と成ります。
次は、稲村路の痕跡の話です。

詳細と写真は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

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稲村崎成干潟事 干潮の時刻は、1

2022年06月04日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年08月07日稲村崎成干潟事9
異常潮位に就いては、上記に記した有ります。

その「稲村ヶ崎が干上がった!」干潮の時刻は??
その時刻を正確に科学的に解説した方が居ます。
その日時が干潮であろうと、満潮でも、、、如何でも良い事!!  机上の科学的と現実は違っていたのです。
何故なら、、、
『太平記』や『梅松論』に記された言葉は、潮位が異常に低くなった!
と書かれている。

新田義貞が黄金の太刀を海に投げ入れ無くても数日前から潮は引き大館が稲村路の逆木を避けながら浮かび上がった岩盤の上を少人数で由比ヶ浜に入れた!
それを新田義貞が知り、正攻法の化粧坂から一部の兵を搦手の稲村ケ崎に送り、自ら指揮をした!
更に 梅松論には合戦が終わるまで潮は引いたままであったと、書かれている。
依って
 異常潮位であり、通常の干潮の時刻を問題にすること自体が見当違い!
異常潮位はどの程度の割合で起きるのか?
それも記事にしてあり、結構頻繁に(年に一度や二度あり、詳細はグラフをご覧ください)有ります。違った立場の異なる『太平記』や『梅松論』の著者が、同じように異常な干潮を記載しているのを無視した。数少ない古文献の重大な記載を信用せずに、平常の潮汐観測資料 で語った間違えを犯している。

#####その他の 勘違い研究者の記事#######
新田軍が鎌倉へと攻め入った日を
「太平記」では 元弘三年五月二十一日 
1915年に小川清彦(「古天文学」の創始者)が
潮汐の計算をすると、この日は干潮では無い。
新田義貞は干潟でなく海を渡渉と見解を出しま
した。
これに対し1993年 石井進((専門は日本中世
史。文学博士)が計算の結果、5月18日の午後
であり、太平記が間違いと結論をだした。
更に2009年『海洋調査』協会報No.95号
「稲村ヶ崎の干潟伝説は本当だった」山田 秋彦
にて渡渉報告が在る。
###################################

恐らく、古文献を見て無いのか?難しくて読み切れなかったのか?  古文を解釈出来ないママ史実を誤認した研究者のレポートに成りますが、余りにも初歩的な間違えです。渡渉(水の中を歩く)の必要も無く平らな岩礁が浮き上がりその上を由比ヶ浜まで歩けた訳です。

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『現』稲村ケ崎 新田伝説検証。

2022年05月20日 | 稲村ヶ崎伝説

明治の迅速図です。

ご覧の通り、稲村ケ崎が海に突き出た岩礁は記載されていません。

細かい処迄明治政府は調べる余裕が無かった事がウカガエます。

下図は現代の詳細な地図で、海際の桃色に示した場所は波蝕台で平場です。

この桃色の平場が鎌倉街道の痕跡の様に誤解した人が居り、挙句は胸まで漬かりながら渡渉を試みたのが明治の話で、渡れたので「新田伝説は単なる伝説では無い!現稲村ケ崎の脇を渡渉したのだ!!」っと言う古文献を無視した誤解が生まれた! 更に碑迄作られて今日に至ります。

上図の桃色の平場は、人工的な平場ではなく、波蝕台で波浪が岩を削った2m幅の平場で数か所で途切れており道の痕跡では無い。これ等の水面上に出た平場を断ち切る海蝕洞が在り、は数千年を要する侵食ですから、千年後程度の変化は微小です。水面上にでた桃色の平場は道としての資格は無く、古典に書かれた一般的老若男女が通行できる稲村路では無い根拠です。
稲村路は別な処に存在します。

さて、下の稲村ケ崎の航空写真ですが、
海底の岩場には、進行方向を邪魔する溝が多数有り、安易に渡渉するのは困難です。
新田軍が渡渉する時、鎧、武器を持ち胸まで漬かって歩き、溝に足を取られれば、胸の深さでも溺れます! 更に鎌倉軍は船を出し、横弓を仕掛ける準備をしていた。
結果は、新田軍の渡渉はこの場所からは無理と言う訳です。

下の写真は稲村ヶ崎の東側で、詳細な地図に示された桃色の平場は 水際の白い岩場であり、海蝕洞に断ち切られている。稲村路と呼ばれる街道の痕跡では無い根拠です。

下の写真は崖の崩れ状態から関東大震災前の大潮で浮き上がった岩礁で、今の埋め立て地です。波さえなければ問題なく胸まで海に浸かる事なく岩盤の上を通り 鎌倉市内に攻め込めるわけです。

更に、下の写真は同じ場所の明治時代の潮干狩り風景です。岩場が比較的平坦な岩場で在る事に注目してください。 これならば、鎌倉市内に向け新田軍は多人数でこの岩床上を通り攻め込める。

以上が、写真によるマトメです。 

腰まで潮に漬かり、水中を渡渉した訳では無く、この場所を由比ヶ浜に向けて攻撃した訳です。 間違えは、古典に書かれた稲村路を調べずに 憶測で稲村ケ崎の水際と決めつけた事です。

詳細は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

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稲村伝説!【稲村崎成干潟事】

2022年05月13日 | 稲村ヶ崎伝説

2022/5/9 前後のテレビで「鎌倉殿の13人」絡みの解説が在り、稲村ケ崎を新田義貞が渡渉した話を肯定した解説をしたと知人から聞きました、、、
歴史的根拠の「太平記」「梅松論」や「吾妻鑑」に記述された事を理解出来なかった様です。
記述の真偽が問題なら地形や遺構を調べれば間違いが証明できる話です。
私の反論は、既に書き散らかしたが、、、
カテゴリーに「稲村伝説」を作り、マトメテ読み易いようにしました。

◆稲村ガ崎の古道を検証 上巻(2014年11月19日 | 切通し
 〇記2006/11/02  稲村ガ崎の古道を検証1〜5
◆稲村ガ崎の古道を検証 下巻(2014/11/18)
 〇記2006/12/04 稲村ガ崎の古道を検証7〜10
◆稲村崎成干潟事 上巻(2014年11月28)
 〇2010/07/01記 稲村崎成干潟事 序〜5
◆稲村崎成干潟事 中巻(2014年11月28)
 〇2010/07/18記 稲村崎成干潟事6〜10
◆稲村崎成干潟事 下巻(2014年11月28)
 〇2010/09/28記 稲村崎成干潟事 11〜15
◆稲村ガ崎の戦い 上巻(2015年07月13)
◆稲村ガ崎の戦い 中巻(2015年07月13)
◆稲村ガ崎の戦い 下巻(2015年07月13)

  以上が新設カテゴリーの内容です。

当方は、此の番組の内容は知りません!  ご質問等はコメント欄へお願いします。

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頼朝落馬の地、「八的ヶ原」

2022年03月19日 | Weblog

頼朝落馬の地、「八的ヶ原」 (野﨑幸夫) 様、

コメントを読ませて頂きました。断片的には知って居ましたが、頼朝落馬の地が在ったのは初めて知りました。

史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」
https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006254.html

源頼朝落馬の地
https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-rakuba.htm

 源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。

極楽寺坂の切り開かれた時代は、
深沢(現・鎌倉市西部)にあった寺院を1259年に、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた極楽寺に移した。其の後に忍性(入寺は1267年)が極楽寺切通を切り開いたとされ、頼朝死後の話しです。
頼朝生前の街道として、稲村路は鎌倉市営プール後ろの崖を横切る道で馬が通るには危険が有る道と考えられる。

頼朝が通った道と考えられるのは、

古代東海道が在り、化粧坂から梶原(又は大仏切通し)、深沢、手広、大道(藤沢)、辻堂四ツ谷、平塚古代東海道痕跡より足柄峠へほゞ一直線の古代東海道(紫色のライン)と考えられ、富士の巻狩りにも使用した道です。
海岸寄りの道の詳細は不明ですが、天然記念物「旧相模川橋脚」と言う鎌倉時代と考えられる遺構がある。
古代東海道の藤沢引地川の辺りから「旧相模川橋脚」へ向かう道(赤色ライン)が分かれたと考えます。
その中間地点と考えれば、、辻堂の頼朝落馬地点の表示も矛盾がないかな?    そんな事を考えました。

コメント (2)
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鎌倉の味わい方!

2022年02月26日 | Weblog

小学生の頃、藤沢駅前から自転車に乗って鎌倉を探索して走ったのが始まりで1950年代の話です。
当時は、江の島の華やかな賑わいとは違い、鎌倉は異質で静かで落ち着いた別世界でした。 単なる山道では無く人手が加わり、行く先々に意外性がある景観の山道でした。
鎌倉は、深緑の細い土道で、薬研堀の道や切通の道を好奇な目で楽しめました。
今思えば、その道は、崖=切岸 坂道 切通し等の造形の変化が面白さの一部で在ったし、思いがけない場所のお寺で在った訳です。今でもその山道の風情は色濃く残って居ます。


 鎌倉市街は 新田義貞の鎌倉幕攻めで、焦土と成り 残った建築は円覚寺の舎利殿のみで、鎌倉時代を偲ぶ建物は消えました。
それ程に、鎌倉時代を偲ぶ建築物は消え、明治初頭の市街は大半が畑でした。

絵図の如く、鎌倉市街は八幡様の参道、長谷、極楽寺下の坂ノ下辺りに観光客目当ての家が建つ状況が示され他は畑と成ります。
新田義貞の鎌倉幕攻め以降 その時代を示すオリジナルなモノは、市街を囲む山の切岸を含めた鎌倉城の痕跡ダケと言う結果です。

鎌倉に思いを寄せて訪れる方は、観光ガイドを片手に小町通りの飲食店やお寺巡りをして頼朝を偲ぶのでしょうが、、  私は、、街並みや商店街が楽しくて行く事も多い。 お食事のお勧めは、駅前小町通りの角の「不二家」がお勧めで、マニアックな方なら、「樹」や「エレッジ・カフェ」がお勧めです。

 

コメント (2)
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鎌倉殿の13人 の結末は?

2022年02月01日 | Weblog

文献が少ない為に為に起きた「誤り」と言うのが有ります。
研究テーマに沿った文献を調べ、不明な部分は想像で埋めて一冊の本に仕上げたのが鎌倉の歴史研究書です。

理工科系統では、研究テーマに沿った文献を調べ実験で検証し、不明な部分は新たな研究対象と成ります。
要は、鎌倉の歴史研究書は想像記述が多く、根拠の無い記述が多いと言うのがこのブログに書かれた事です。

現地の地形や切岸の構造等を知って居れば、古文献から引用した「誤解」はトテモ少なかったと考えます。
残念ながら、鎌倉の地形を把握するには広大過ぎて判りにくく、研究書は無い。
臆測で書かれた「誤り」は、鎌倉の地形を知らずに書かれたモノです。

「鎌倉殿の13人」も古文献の根拠より、誤解を積み重ねた現代鎌倉研究書の引用が多いと思います。鎌倉終焉で 鎌倉城の記述や、稲村ヶ崎の故事が在ると思います。
どの様に話が展開するのか、、
疑問がお有りでしたら、、お知らせください。

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鎌倉殿の13人 が始まった様ですね、

2022年01月28日 | Weblog

年明け最初の記事です。
このブログも多数の方がご覧になられ、嬉しい限りです。
現代の100年に渡る鎌倉研究の本は、憶測に満ちた研究が多数を占めます。
鎌倉終焉にて、幕府の文書は灰塵と成った訳です。

●軍忠状
●十六夜日記
●梅松論
●太平記
●吾妻鏡
●関東御教書

これ等の古文献等が鎌倉を語る文献の主流と考えますが、、如何でしょうか?
古文献に頼る為に、不明な部分を憶測するのが現代の研究書です。

当方は、文献よりも鎌倉の現状の遺物、「切岸」「谷戸」鎌倉城の範囲を考察!
その方向を優先し、文献は後回しと成っています。

文献に詳しい方、
反論の有る方、
ご遠慮なく「コメント」を下さい!
由比ヶ浜の 元寇防塁等は、 これ等の反論から見直された話です。

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