Ken Funahashi Blog

NEXT DREAM 記憶と記録

加西市 ハイキングマスタ-

2009-02-26 11:48:02 | Weblog
毎月、利用させて戴いている加西市・図書館の中で時々、立ち止まって各種・資料を見ているコ-ナ-で『ハイキングマスタ-募集』のパンフレットを手に取ったのが、ある種の『縁』の始まり。
加西市には、古法華自然公園の岩場やキャンプ場、そして何故だが数多く発刊され出した播磨周辺のハイキング本には紹介されない、石仏を巡る素敵な尾根道を楽しめる『鎌倉山や行者道』や少し探せば、アクセスも容易で歴史を感じる面白い低山遊歩に最適な『場』が多いと感じていたので、ハイキングイベントの、お手伝いや新たなハイキング・コ-ス-の発掘、開拓と言うフレ-ズに興味深々。
個人的に信越トレイルみたいに山々を、繋いだロング・トレイルの構想が兵庫にも、あって良さそうだと言う希望も含めて起点となり、良い山が周囲にある位置的な環境からも、これは活動に参加してみたいと『応募』してみました。

13日、応募締め切りを過ぎても連絡が無くて、これは数名程度の募集枠から外れて、参加・応募のメンバ-には選ばれなかったのかと諦めていましたが私から一応、『ふるさと営業課・担当者』へ確認の電話を、かけてみますと応募メンバ-に加えて貰っていたそうです。数名の募集だったのが、現在は十数名がメンバ-参加となり、もう立派なグル-プ結成みたいな形で活動を始動するみたいです。

さて、これから『どんな活動』が始まるのか?お楽しみに、お待ち下さい。

アクセスに電車が使えて、起点となる街に大規模シヨッピング店が最近、オ-プン、周辺唯一のアウトドア活動の中心地としての『場』の成長が期待できると思います。個人的には、加西市・起点で北部・山域へ、加西~市川~神崎町=笠形山~千ケ峰そして、さらに北へ、そんなロング・トレイルの整備なんかも楽しそうです。それと、バリアフリ-・キャンプ場とか、市町村・行政の中で全国発信の新しい野外活動・拠点みたいなのが発展・発信できる可能性も、あるかも知れませんね。

菜の花畑の笑顔と銃弾

2009-02-26 10:14:05 | Weblog
先週の放送は、途中でかかって来た電話で中途半端にしか見られなかったので、昨夜は再放送を一人、静かに見ていた。NHKは、この種類の特番に時々、素晴らしい映像力、多くの人の心に響く内容のドキユメントを製作するのだが、その現実の深層に潜む、自国の発した影響や問題の深層・真相に対する情報や、だから何が間違いなのか、次ぎの悲劇を防ぐのに必要な国家としての対応などに言及出来ないと言う、不甲斐無さ、限界を感じてしまい映像の持つ力と、影響力の分配・バランスの悪さに不満感を強く感じてしまう。

『ペシャワ-ル会』代表者N医師は、同時多発テロ後の米国のアフガン進行以降に各民放のアフガン問題などに、かなり頻繁に出演、多くの発言や問題提起で一時期、あれだけ注目されTV等での真摯で正当な発言を行っていたのに、今はメディアからの、要請は極端に少ない。現場主義を優先されているのか?現在の情報発信者を、見限っているのか?真実を語っても多くは、あまり意味を成さないと感じているのか、国際的に高い評価と賞賛に尊敬を受けている活動ながら、無責任な政治屋の政策や問題に、彼が預かっている純粋な若者達の命やアフガニスタンでの長期的な支援活動が根本的に内容や動きが左右され、遠く7000Km離れた、かの地での『夢』が閉ざされて行くのを、現地で非業の死を遂げた、彼と本物の平和の戦士として活動している、仲間や支援者と共に悲しいと感じているのでは。

地理的に、そして民族性や宗教的に繋がりも深く、現在の紛争状況や宗派対立や複雑な国家情勢や紛争に、いつまでも影響を受けている隣国のパキスタンの北部、フンザ最奥部の『ハセガワ・メモリアル・パブリックスク-ル』は、故・長谷川氏の奥様が、支援を行い1995年から着実に増築・活動が本格的に始動して1999年4月16日に現在の体制の基礎が完成。初期の支援活動を聞き及んでいた、私も被災後に手元に集って、他に廻せるだけの支援品を提供したり、故・長谷川氏が主催していたジュニア・アルピニスト・スク-ル装備を逆に、私が光栄にも譲り受けたりと、幾つも関係があった。当時、支援品を提供後に、その学校の子供達から届いた、本当に大量の手紙を今も読み返す。アンズの花が咲き、果物の収穫を喜び、学業の楽しい報告、素朴で平和な内容の子供達からの報告。東京では、今は、どんな果物が育っているのですか?遠い異国の友人の暮らしを想像しているのだろう、状況が楽しい手紙類。『菜の花畑の笑顔と銃弾』の映像の中で、子供を写した一枚の写真の中で、写されている子供の、無垢な瞳に写る、撮影者の彼の影を見て、涙を流すしか・・・
国が間違っているのを、押し留める手段や力を持てないのは、やはり悲劇の一つだ。

子供達に向けての自然学校・登山やクライミングを通じての一種の野外教育。そして当時としては画期的だったプロガイド発信の安全・登山教育の無料実施・企画。その先の夢とか、国際協力や支援活動には到底、非力で大した協力は行えない身でも、プロガイドの社会的・貢献みたいな部分で今からも、僅かな力を発揮したいと考えてしまいます。1986年、故・長谷川氏と頻繁に『日本の自然を守り育てる』そして、多くの登山者に安全教育を・・・と、様々な企画に招聘、要請を受けていた頃の自筆の手紙の一部。震災B活動時に製作していた大量のファイルの中から、変色し出した一枚が棚から落ちて来て、NHKの番組を見終わった深夜に感慨深く、かの地の山々と麓で生きている子供達の将来を考えてしまいました。