日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

今光は見えないが、雲の彼方で輝いている

2019-06-15 | Weblog
ヨブ記37章  
   
 21節「今、光は見えないがそれは雲のかなたしかで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと~」(新共同訳)

 1節「それゆえ、わたしの心は 破れんばかりに激しく打つ」。前章で、エリフは雨雲と稲妻について述べたが、それは本章でも続いている。雷鳴が神の怒りの御声として彼の心を激しく打ち、神の轟きを聞けと呼びかける(2節)。確かに雷鳴は恐れと驚きとして呼びかける。彼はこれを自然現象としてみないで、知り得ない御業として受け取る(3~5節)。
 6節「神は命じられる。雪には、「地に降り積もれ」雨には、「激しく降れ」と」。神は御業を認させる為に、人の手の業をすべて封じ、働く事が出来なくなる。獣は巣穴に隠れ、嵐が吹き荒れ、寒さが撒き散らされ、神の息吹で氷ができ、広く河川は凍結する(7~10節)。雲は雨を含んで重くなり、密雲は稲妻を放つ(10~11節)。
雨雲はここかしこに垂れこめ導かれるまま姿をかえる(12節)。
 14節「ヨブよ、耳を傾け神の驚くべき御業について、よく考えよ」。エリフは夏の季節から説く。ここでも11節と同様、密雲の中からの稲妻、前後にふる雨、猛烈な熱風となって吹き寄せる南風についてよく考えよという(15~17節)。ここでも「わたし達」と言って、共に暗黒の中に閉ざされた存在だとしている(19節)。人が経験して得た知恵は闇に等しいので黙しているだけだと告げる。
 20節「わたしが話したとしても 神に対して説明になるだろうか。人間が何か言ったところで 神が言い負かされるだろうか。」しかし今は暗黒の中に光は差し込んでくる(21~22節)。人の側から全能者の優れた力、哀れみ深い心をしることは出来ないのだから、今重要なのは「神を畏れ敬う」事だと教育者エリフは33章からの長い弁論を絞めくくった。
 わたしは常々思うことは、星雲の世界は地球の遙か彼方で、その距離は「一光年」という単位でしか測ることは出来ない。そして何万から何千光年だという。一光年は光の速さを距離に換算する。数値で示すと、一秒(地球七回半=30万キロ)×60×60×24×360=9兆4600億キロという天文学上の距離である。
 アブラハムが夜空を仰いで神の祝福の言葉(創世記15章5節)を聞いた時の同じ星の光が自空を超えて、わたしの目に届いているという不思議な感覚に、わたしは囚われるのである。

苦悩の中で耳を開いて下さる 

2019-06-14 | Weblog
ヨブ記36章 
   
 15節「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し/苦悩の中で耳を開いてくださる」(新共同訳)

 1節「エリフは更に言葉を続けた」。32~36節まで長々と弁論を続けたエリフは改めてヨブに「もう少し私の話を聞いてくれ」と呼びかける(2節)。私の考えを述べ、私の造り主は正しく偽りはない。完全な知識をもつお方を示そう。その支配は力強く知恵に満ちて、逆らう者を生かしておかず、貧しい人に正しい裁きをしてくださる方(3~6節)、従う者に目を止め、栄誉を与えられる(7節)。「貧しい者」とは「苦しむ者」(口語訳)である。
 8節「捕われの身となって足枷をはめられ苦悩の縄に縛られている人があれば」その行いを指摘し、その罪の重さを指し示され、耳を開いて戒め、耳を傾けて従うなら日々を幸いな者とし長く恵みのうちに過ごす事になる(9~11節)。ヨブに苦しみの意味を悟らせ、罪の悔い改めを促す。耳を傾けないなら愚か者のまま息絶える。神を無視する者は苦しみの鎖につながれても怒りに燃えて死を迎える(12~14節)。「神殿男娼の様になる」とは、神の裁断により殺されるという意味である。
 15節「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し苦悩の中で耳を開いてくださる。」口語訳「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。」。ヨブにも神は苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、食卓を整え豊かな食べ物を備えてくださるのだ(16節)。19、21節は15節と同じで悪しき行為に堕ちいらない様に、神は苦難を通して試めされられるという。
 22節「まことに神は力に秀でている。神のような教師があるだろうか」。世の人々は遙か彼方にある御業を仰ぎ見て賛美する。確かに誰が神の道を見張り、神のすることは悪いと言えよう。世の人は神の御業を賛美、あなたも心して賛美せよ(23~24節)人々は皆、御業を仰ぎはるかかなたから望み見ている。神は偉大、神を知ることはできず、その齢を数えることもできない(26節)。神は水滴を御もとに集め、霧のような雨を降らす。 雲は雨となって滴り、多くの人の上に降り注ぐ(27~28節)雨雲が広がり雷鳴をとどろかせるかを悟る者はいない(29節)「耳を開く」は静聴である。詩編46編11節「力を捨てよ、知れ、私は神、国々に崇められ…」とある。TEVでは Stop Fightingとなっている。【新共同訳】

あなたは神を待つべきなのだ

2019-06-13 | Weblog
ヨブ記35章 
   
  14節「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」(新共同訳)

  1節「エリフは更に言った」。エリフは教育的な態度で更にヨブを説得しようとしている。34章に続いてヨブの言葉を取上げて語る。しかし正確ではない。「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」と言っているが、それは正当だろうかと反論する(2節)。13章18節だが、これはヨブの基本的な主張。新改訳「わたしの義は神からだ」。「わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の益があるか」と言うが、犯しているとか犯していないとか損得にしている高慢な態度を批判しているが、むしろエリファズが22章3節で述べている。
  4節「あなたに、また傍らにいる友人たちに わたしはひとこと言いたい」。ヨブと友人たちに、エリフは3節と同じことを伝えた。過ちを犯した、繰り返し背いたというが、神にとってそれが何だと言うのだと、ここではヨブの正当性は超越的な神とは関わりがない事柄だという(5~7節)。逆らったとか正しいとかいうのは同じ人間に関わることで、友人との論争は、神の問題となっていないと説くのである(8節)。
  9節「抑圧が激しくなれば人は叫びをあげ 権力者の腕にひしがれて、助けを求める」。この世の悲惨な状態に叫び声をあげて、この世の権力者に助けを求めるだけで、「わたしの造り主なる神」、夜の間に歌をあたえ、地の獣を教え、空の鳥から知恵を授ける方との、人格的な交わりを求めて叫ばない高慢さのゆえに叫んでも答えはない。全能者なる神は偽りを聞かれず、顧みることはない、冷たく諭している(10~13節)。
  14節「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」。隠れておられるのではない。神が現れる時を待つべきで、それは、今はまだ怒りの時ではないからだと諭している。「怒りの時」とは神の義が明らかになる時である。つまり神の法廷での訴えは、裁判官のもとに届いているから、その判決が下るのを待つべきだという意味である。そこでいつまでも無駄口を叩くことを止めなさいとヨブに言った(15節)。
  14~15節は、34章24節で問題にした「神の沈黙」に対するヨブへの解答という事でヨブにとって説得力のある言葉で只管な待望が求められる処である。



命を得て光を仰ぐ

2019-06-13 | Weblog
ヨブ記33章
 
 28節「しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐと」(新共同訳)。

  1節「さてヨブよ、わたしの言葉を聞き わたしの言うことによく耳を傾けよ」。三人の友人とヨブに呼びかけたが答えがないので、改めて「さてヨブよ」と語り始める。わたしは口を開き、率直に語り舌は偽りを決して言わない、唇は真実をもってはっきり言う(2~3節)。全能者の息を吹きかけてわたしは生かされた者だ(4節)。これは創世記2章7節を指す。あなたもわたしと同様に土のかけらに過ぎないのだから、脅かして押さえつけようとしている訳ではない。答えられるなら答えてみよという (6~7節)。
 8節「あなたが話すのはわたしの耳に入り 声も言葉もわたしは聞いた」。あなたは潔白で、罪を犯していない、清く不義はない。それでも神は敵視して足枷をはめ行き先を見張っておられると抗議している(9~11節)。そこに神の前であなたの罪があるのだとエリフは告げた(12節)。口語訳は「あなたはこの事において正しくない。神は人よりも大いなる者だ」と訳している。なぜ神と争おうとするのか、神はいちいち説明されない方で、知恵も力も人間の知りうるところではない。神は一つの方法で語り、また二つの方法で語るお方である(12~14節)。語る方法は色々あるということ。29節にも出ている今回のように、友人のような人生経験で得た知恵者たちだけでなく、深い眠りの中で夢を通して神が語るのも一つの方法なのだという(15~16節)。それは行いを改めて滅びを免れ、死の川を渡らないですむためであると語っている(17~18節)。
 19節「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく~」。病で食欲は無くなり、肉体はやせ衰え、魂は絶望してしまい、千人に一人でも執り成して潔白を証明してくれる者がいるなら、滅亡に陥らないようにしてください。この「執り成して潔白を証明してくれる者」を口語訳では「中保となって~正しい道を示す」。これが、超越した神が救いの道を示して下さるという第三の方法である。「代贖」(新改訳=身代金)を支払ますからと言うなら、死の病から立ち上がって若者のようになるに違いないとエリフは語るのである(20~25節)。そうすれば祈祷は受け入れられ、喜びの叫びをあげて御顔を仰ぎ見、神に正しいと認められる。そしてわたしは罪を犯したが、神はわたしを滅亡から救い出して下さり、命の光を仰ぐことができたと告白するのである(26~28節)。神は二度でも三度でも魂を滅亡から呼び出されるのである(29~30)。だからヨブよ、沈黙してわたしの言うことに耳を傾けよと呼び掛ける(31~33節)。 エリフの言葉は、。人は誰一人悔い改めなくしては神に義とされないことを伝える。苦難という暗闇から光明を見出す道は外にはないのである。苦しみは神への招きである。しかしここでは中保者は罪の苦悩を担われる方でないことは明らかである。て苦難の有無が条件であるという点では因果応報の壁は除かれてはいない。

エリフは怒った

2019-06-12 | Weblog
ヨブ記32章 

2節「さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。」(新共同訳)。

1節「ここで、この三人はヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分は正しいと確信していたからである」ここで最後にエリフという友人が突然登場し語り始める。彼はヨブと三人の会話を聞いていたが、そこに居合わせていたことはこれまで出てきていない。エリフの言葉は32~37章まである。「エリフ」とは「彼は神」という意味で神への篤い信仰を表す名である。本章は弁論の導入部で何故最後に彼が出てきたか理由を述べる。ヨブが神より自分のほうが正しいと主張していること、そしてこの主張に三人が適切な反論の出来ないとからで、話しかけるのを控えていた(5節)。この時ヨブの「怒り」が4回も出てくる(2、4、5節)。相手を批判し、自分を正当化し義としなければならない。そこにエリフの問題点が潜んでいる。
6節「ブズ人バラクエルの子、エリフは言った。わたしは若く あなたたちは年をとっておられる。だからわたしは遠慮しわたしの意見をあえて言わなかった」。日数や年数に従って知恵が得られ、日を重ねれば賢くなり、分別が出来ると思っていたがそうではなく、人の中に霊があり、知恵と分別を与えるのは全能者の息吹だ。それゆえ、わたしの意見を述べてみたいと思う(7~10節)。
11節「わたしはあなたたちの言葉を待ち その考えに耳を傾け言葉を尽くして論じるのを聞き」理解しようとしたが、ヨブに反論しうる者はいない。彼らは反論できないことを悟り、彼を負かすのは神であり人ではないと言い逃れようとした。それは良くない。わたしは同じ論法でヨブに答えない(12~14節)。
15節「彼らは気を挫かれて、答えようとせず 言うべき言葉を失っている」、行き詰まっているので自分の言い分を述べよう。言いたいことは沢山ある。原の中でうずうずしている。わたしの腹は新しい蒲萄酒で皮袋は張り裂けそうだ(16~19節)。
20節「わたしも話して、気持を静めたい。唇を開いて、答えたい。」。誰かの顔を立てるとか、へつらうような事はしない。もしそうなら造り主が直ちに退けてくださるように祈る。怒りの感情は、冷静な判断を損なう危険があるからだ。

ヤコブの言葉を聞きたい「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」(1章19~20節)。併せてマタイ福音書5章21~22節を読みたい。

全能者よ、答えてください

2019-06-11 | Weblog
ヨブ記31章 

19節「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を。」(新共同訳)。

1節「わたしは自分の目と契約を結んでいるのに、どうしておとめに目を注いだりしようか。」29章で義人だヨブとして正義と公平をもって生きていることが語られ、30章ではそれにも関わらず苦難と悩みの日々であることを嘆く独白であった。本章では自分が潔白であることを強く主張する。そして告白状を用意していると結んでいる。その潔白であることを次々と羅列する。不倫の目で乙女を見たことはない不正を行う者に神は災いを与えられるが不正の富を手にしたことはない(1~3節)。神はわたしを見張っておれら、その歩みを全て数えておられる(4節)。
5節「わたしがむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら」正しい秤で量ってください。目の赴くまま心が動いて身と外したことは決してない(6~7節)「決して無い」との断言を10回繰り返している(9、13.17,19,21,25,27,29節)
9節「わたしが隣人の妻に心奪われたり/門で待ち伏せたりしたことは、決してない。もしあるというなら」わたの妻がよその男に犯されてもよい(10節)。
13節「わたしが奴隷たちの言い分を聞かず、はしための権利を拒んだことは、決してない。もしあるというなら」もしあるなら同じお方で胎内に造られた御前に申し開きが出来ない(14~15節)。貧しい人々を失望させ、孤児を飢えさせたことは決してない。体を覆う夜具のない人々を失望させ孤児を飢えさせた事はなく、体を覆う夜具もない人の保護を怠ったこともない。あるというならわたしの腕は肩から抜け落ちて、膝が砕けてもよい(16~23節)
 24節「 わたしが黄金を頼みとし純金があれば安心だと思い」財宝が多いことを喜び自慢したことは決してない(26~28節)。憎む者の不幸を喜び、呪った事は決してない(29~30節)。見知らぬ旅人を迎え入れないで、扉を閉ざして野宿させたことはない(31~32節)。創世記19章1~10節参照。
33節「わたしがアダムのように自分の罪を隠し、咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。もしあるというなら」偽善のことで、これを心に秘める罪を犯した事も無い。もしあると言うなら群衆の前に脅え恐れて人前に出られないだろう(34節)。人の土地を搾取し収穫を奪って食べたことは決してないと身の潔白を訴えて語ることを止めた(38~40節)。結語の部分で、三人の告訴状を冠のように頭に結ぶ。

わたしは塵芥に等しい

2019-06-10 | Weblog
ヨブ記30章 

19節「だが今は、わたしより若い者らが、わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていたのだ。」(新共同訳)。

1節「だが今は、わたしより若い者らがわたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすらわたしは忌まわしいと思っていたのだ」。「だが今は」は全勝と比較して不幸で悲惨な有様になっているという。「若い者ら」はそうではなかった(29章8節)かつて彼らは無一物で飢え、砂漠や沼地をさまよい、あかざの葉、れだまの根を食料としていた (2~4節)。砂漠に自生し、食用に不適である。世間から追われ、泥棒呼ばわりされ、谷間や土の穴、岩の裂け目を住まいとする(5~6節)。愚かな者、卑しい者の子(新改訳「しれ者の子たち、つまらぬ者の子たち」)。甚だしい差別を受け、世間から排除された者に向けられていた言葉である(7~8節。ヨブの口からこのような言葉が出てくるのは何故か。
9節「ところが今は、わたしが彼らのはやし歌の種 嘲りの言葉を浴びる身になってしまった」。相手に仕返しとしてヨブに投げかける「はやし歌」「嘲りの言葉になっているここでは義人ヨブの姿はない。社会的な地位を失ったヨブに何の恐れも遠慮も無く振る舞う有様は家畜が手綱を振り切り、轡を捨てて勝手に暴れているのと同じである(10~11節)。災いの道に追いやられ、逃げ道を断ち、滅びと死が襲ってきて誰も止めてくれない(12~13節)。「死の恐怖がわたしを襲い、」今は息も絶んばかりである(14~16節)。夜骨は刺すように痛み、肌着のように巻き付き、体は見る影もなく変わり(17~18節)、塵芥のようになってしまった。
20節「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っている のに、あなたは御覧にならない。」ここでヨブは嘆きの言葉を「あなた」と神を呼んで訴える。「あなたは冷酷で、祈り叫んでも応えられない」と言う(21節)。風で吹き上げられ翻弄され、死の世界に連れ戻そうとされる(22~23節)。この叫びは十字架上で神の神子イエスが叫ばれた言葉に似ている(マタイ27章40節)。しかしイエスはヨブのように愚かな言葉でなく、全ての人の罪を身に受けて神に捨てられたのである。
24節「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ不幸な者を救おうとしないだろうか」。どこまでも自分の身の潔白を主張する(25節)。闇が襲ってきたことを嘆き訴える(26節)。駝鳥の鳴く声は竪琴と笛で喪に服す悲しみの歌を奏でるようである(27~31節)。

正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着

2019-06-09 | Weblog
ヨブ記29章 

14節「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。」(新共同訳)。

友人との論争で因果応報の思想には限界性を示し、友人との論争は未解決のまま残っている為に29~31章で明らかにしようとした。神に守られていた日々は、頭上に灯を輝かせて暗黒の中を歩いていたわたしであった(2~3節)。信頼のできる友と親しく交わりをして繁栄(収穫の秋)の日々であったあの頃は全能者はわたしと共におられ、わが子らは周りにいた(4~5節)。ヨブの自己評価である。
6節「乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで、わたしのためにはオリーブ油が岩からすら流れ出た」。「乳脂」はクリーム状のもので石鹸の原形。町の城門」は住民の集まる場所で、公訴のなされる処、そこにヨブは着座し若者が静まり、老人たちは敬意を表し、主だった人々は会話をやめて、ヨブの語る言葉を静聴しそのことばを賞賛した(7~11節)。
12節「わたしが身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守ったからだ。」孤児や貧しい人々、死の近い人々や寡婦、めの不自由な者に対してし正義と公平をもって問題を解決したのである(13~14節)。見えない人の目となり、歩けない人の足となり、貧しい人の父となり、正しい訴訟を起こし不正を質し、その牙を砕き、歯にかかった人々を奪い返した(15~17節)
18節「わたしはこう思っていた『わたしは家族に囲まれて死ぬ。人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう』」与えられた人生は家族に囲まれ豊かで、まるで海辺の砂のように日々が増し加わると思えた。人々はわたしの言葉に耳を傾け、期待し(19~23節)。失望した時も笑顔を向け、顔は曇ることはなかった(24節)。
25節「わたしは嘆く人を慰め 彼らのために道を示してやり、首長の座を占め軍勢の中の王のような人物であった」
孤児と寡婦に対する心情と救済は、聖書の底辺に流れている(出エジプト記22章22節、申命記14章29節、エレミヤ記22章3節)

知恵はどこに見いだされるのか

2019-06-08 | Weblog
ヨブ記28章 

12節「では知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか」(新共同訳)。

 1節「銀は銀山に産し金は金山で精錬する」本州に新共同訳で混み出しに「神の知恵の賛美」となっている。ここは独立した章に思えるが4~27章の三人の友人との議論から一つの結論を出しているといえよう。それは因果応報論と不条理の問題である。人の知恵には限界があり神の聖知=叡智が示されねば解決しないということであろう。これは既に7章17節、9章4節、23章2~9節、26章12節に語られている。友人チョファルも述べている(11章7節)。人は山を掘り起こし岩を切り開き金銀鉄鋼を掘り出し精錬する知恵を持っている。地下の坑道を深く掘る知恵があるが猛禽も禿鷹も獰猛な獅子すらもそれは無い(5~8節)。人は硬い岩まで手を伸ばし切り裂いて進み、川を堰き止めて底まで掘り、価値あるものを見落とすことはない(9~11節)。
 12節「では、知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか」しかし人はそれを知らない。金銀珊瑚、水晶、真珠やどんな財宝も比較にならない価値にも関わらずである(15~18節)箴言16章16節に同様の言葉が出ている。
 20節「では、知恵はどこから来るのか 分別はどこにあるのか」それはすべて命あるものに隠されており、滅びの国や死も判らない。ただ天と地を創造された神のみが知っておられるのだという(21~23節)。神は地の果てまで見通され、すべてを知っておられる。神は風も雨もご承知のことである(24~26節)。
 27節「神は知恵を見、それを計り それを確かめ、吟味し」。その知恵はかみを畏れることである(28節)。箴言1章7節、コヘレト12章13節に出てくる。旧約原典ではヨブ記は詩編、箴言、コヘレトと同じ「諸文書」である。
 神の知恵が測りがたいことはローマの手紙11章33節「ああ深いかな神の知恵とその富は、その裁きは窮めがたく、その道は測りがたい」(口語訳)とある。

破滅が洪水のように

2019-06-05 | Weblog
ヨブ記27章 
  
  20節「破滅が洪水のように彼を襲い つむじ風が夜の間にさらう」(新共同訳)

  1節「ヨブは更に言葉をついで主張した」。26章に続くヨブの答弁であるが、2節から、彼は徹底して身の潔白を全能者にかけて誓う。
2節「わたしの権利を取り上げる神にかけて/わたしの魂を苦しめる全能者にかけて/わたしは誓う。」息が鼻にあり生きている限り、決して唇は不正を語らず、舌は偽ったことを語ったことはない(4節)。あなたがたこそ間違った判断をしているのであり、わたしは死に至るまで一日たりとも正しさに固執して断じて譲らない(5~6節)。
  7節「わたしに敵対する者こそ罪に定められ わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ」。身の潔白を主張するヨブにとって、今は友ではなく、敵対する者だから、神から罪と不正によって裁かれ、命が断たれるであろうという。神を無視してどんな望みがあるというのか、災いが降るときにあげる叫びを神は聞かれるはずはない。よし祈りが聞かれ回心によって全能者から赦され喜びが与えられるということなど無いと激しく反論する。11節「わたしがあなたたちに神の手の業を示し 全能者について隠さずに語ろう」。ここから「あなたたち」と複数になる。これまであなた達が語って来たことにつて、わたしが語るというのである。全能者なる神の手の  業は、因果応報の原則では図ることができないことを、これまで論議してきたのに、なぜ空しいことを繰り返すのかと質した(12節)。神に逆らう者が神から受ける分 暴虐な者が全能者から与えられる嗣業は次のとおり」(13節)。友人たちの空しい言葉を、ヨブは逆手にとって、その結末が相手自身に降り掛かると告げる。多くの息子があっても剣に倒れ、生き残った者が疫病に罹って死んで埋られ(口語訳)、やもめたちは悲しむことをしない。どんなに銀を塵のように積み、衣服を土のように備えても、結局銀は罪のない人が分け取り、衣服は正しい人が着ることになる(14~17節)。因果応報ではない。家を建ててもいずれは番人が作る仮小屋のようなものになり、眠る時は豊かでも、目を覚ますと何も残っていない。洪水と竜巻に襲われて住いを失ってしまうことになる(18~20節)。22節「神は彼に襲いかかり、許さない。御手から逃れようと彼はあがく」。神は容赦なく彼を投げ飛ばし、御手から何とか逃れようとするが、嘲りの手を鳴らされるのである。何と厳しい神の審判であろう。これは神を無視し神に逆らう者に対してなされる当然の報いであり、ご自身の身をもってそれを示されるのである。 聖書には終末思想があり、マタイ福音書24章に出てくる。決して滅びないものがあることを知らされる必要がある。

神の道のほんの一端

2019-06-04 | Weblog
ヨブ記26章 
   
 14節「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう」(新共同訳)

  1節「ヨブは答えた」。ビルダデの貧弱な知恵に対する痛烈な皮肉を込めた反論をヨブはしている。あなたは無力な者にどんな助けを与え、どんな救いをもたらしたのか、知恵のない者にどんな忠告を与え、多くの人にどんな策を授けたというのかと問う(2~3節)。神の言葉を述べているつもりでいるが、それは本当か、誰の息吹(霊)なのかと問いかける(4節)。ヨブは真の霊の働きを知っていることを言外に述べようとしているのである。
  5節「亡者たち、陰府の淵に住む者たちは 水の底でのたうち回る」。ビルダデが25章では言及しなかった神の権威と知恵について語っている。先ず陰府と深淵についてである。陰府に堕された亡者(口語訳=亡霊・死の世界の住民)は震えおののき、神の前に裸で覆われているものは何もない。「~山を茫漠とした境に横たわらせ…」=口語訳「北の天を空間に張り、地を何もない所に掛けられる」(7節)。この方が判りやすい。ヨブ記が描く天空は半円球で、深淵から地平に天幕を張っているのである。箴言8章27~29節、イザヤ40章22節を参照したい。
   8節「密雲の中に水を蓄えられても 雲の底は裂けない」。これは原始の海で、神の玉座を表わす。玉座は雲に覆われていて見えないが、光と闇を支配している(9~10節)。天幕を支える天の柱は神が怒りの声を発すると揺り動く(11節)。サムエル記下22章8節にも「天の柱」(新改訳)が出ている。神は原始の海から英知によって破壊の怪物ラハブ(=レビヤタン・3章8節、海の怪物・7章12節)を圧倒的力で制している(12~13節)。ヨブは神の権威と威厳とを証言し、人が知るところは僅かに過ぎないことを鋭く説くのである(14節)。 
 神が語る御業を人が知るのは、ほんの僅かな一端である。それを詩19篇から示される。詩19篇1~5節「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。     昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
 昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくてもその響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。
そこに、神は太陽の幕屋を設けられた」

光に背く人々がいる

2019-06-03 | Weblog
ヨブ記24章 
  
 13節「光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず 光の射すところにとどまろうとしない」(新共同訳)

 1節「なぜ、全能者のもとには、さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか」。ヨブの独白が続く。本章は12節までと、13節以下とに大きく二つに区分できよう。前半は、悪しき暴君の圧制のもとで虐げられている人々の悲惨である。彼らは神を愛する者なのに神の裁定の日を見ることなく、地境を移し、家畜の群を奪い、孤児が手塩に掛けている驢馬を連れ去り、やもめの牛を質草に取る悪人がいる(2~3節)。
 4節「乏しい人々は道から押しのけられ この地の貧しい人々は身を隠す」。彼らは飢えて食べものにこと欠く状態で、野驢馬のように、子に食べ物を与えるために荒れ野で労し、悪人の畑で刈り入れをするが、残っているぶどうの房を集める。着る物もなく裸で歩き、寒さにふるえて山中をさまよって夜を過ごし、乳飲み子を人質に取られている惨状である (5~9節)。「裸で歩く」を繰り返している(7節、10節)。町では死に行く人々が呻くという、そんな非道なことがあるのに、神はこの惨状に心を留めてくださらないと告げる(12節)。
 13節「光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず 光の射すところにとどまろうとしない」。後半部分になる。では『光に背く人々』、つまり闇の極悪人らはどうか。彼らは人殺し、盗人、姦淫する者(14~15節)、闇にまぎれて壁に穴を開けて侵入し悪事を働くのである(16~17節)。
 18節「大水に遭えば彼はたちまち消え去る。この地で彼の嗣業は呪われ、そのぶどう畑に向かう者もいなくなる」。これら悪事を働く者に対する報いがあるのも明らかで、熱暑で雪解け水が消えるようになり、消し去られ、母の胎児が呪われ、不妊の女が不幸に落ちるのであるが、果たしてそうであろうか(19~22節)。
 25節「だが、そうなってはいないのだから誰が、わたしをうそつきと呼び わたしの言葉をむなしいものと断じることができようか」。そうなっていないとは、暴君の圧制のもとで虐げられている人々の悲惨な状態に心をとめてくださないと祈る(2~12節)。
なぜ全能者のもとに、神を愛する者が神の真実をみることが出来ないのか(1節)これが結論である。


神に祈って何になるのか

2019-06-02 | Weblog
ヨブ記21章 
 
  15節「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか」(新共同訳)。

  1節「ヨブは答えた」。ツォファルに対するヨブの反論である。これまで語ったのは因果応報論では説明し切れないということである。わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。13章17節でも同じことを述べている。我慢して聞いてくれ。それから笑うなら笑えと訴える(2~3節)。わたしはこれまで人に訴えているのではないのに、なぜ我慢しなければならないのか。これから語ることは慄然とし身震いさえするのだ、だから口に手を当て驚くがよい(4~6節)。
  7節「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ 年を重ねてなお、力を増し加えるのか」。ヨブは因果応報を批判し問い直す。神に逆らうものが幸福に生き永らえ、子孫も栄え(8節)、家は平和で(9)、家畜は増えてみな喜び踊って死んでいく(10~13節)。彼らは神に向かって不遜なことを言い、なぜ全能者に仕え、祈って何になるのかとうそぶく。だが彼らは財産を多く手にしている(14~16節)。
  17節「神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い 神が怒って破滅を下したことが何度あろうか」。この不条理に神はどうして罰して思い知らせられないのかと問い質す。「灯が消されることが無い」は20章23、28節の反論である。神の怒りを麦のもみ殻のように吹きとばされ、子孫にまで延ばしておられるのか、生きている間に破滅を自分の目で見、全能者の怒りを飲み干せばよいのにと言う(18~21節)。詩1篇4~5節には神に逆らう悪しき者がもみ殻のように吹き飛ばされるとある。
  22節「『人が神に知識を授けえようか。彼は高きにいまし、裁きを行われる』と言う」。これは本末転倒である。不条理の言葉が続く。ある人は死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生で、まるまると太っている人が居ると思えば、全く反対にある人は死ぬまで悩み嘆き続けて、幸せを味わうこともない人もいる(23~25節)。だが、両方とも死んで陰府に降ると同じではないかと言う(26節)。あなたちはこの論理でわたしに対して不法をたくらんでいるのだ(27節)。
  28節「あの高潔な人の館はどうなり この神に逆らう者の住まいとした天幕はどうなったのか」とあなたたちは問う」。「高潔な人」は口語訳「王侯の家」だが、新共同訳はヨブのように解釈している。これを問うのは誰か、あなたたちか。通りかかる旅の者が館を見て尋ねるのか。あなたたちも旅の者も、この神の不条理を応えることは出来ないだろう(29節)。
  30節「悪人が災いの日を免れ 怒りの日を逃れているのに~」。裏工作をしていても、誰も暴くことはできず、その仕業を罰することはない。彼のために盛大な葬儀が執り行われ、墓泥棒に対して番人が立ち、葬列のあとが絶えない(31~32節)。
  34節「空しい言葉で、どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない」。ヨブの結論の厳しいことば。口語訳「…あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。

  15節の「神に祈って何になるのか」という批判は、キリスト者も耳にする事がある。ルカ福音書23章35~37節を読むと、主イエスは、十字架上でユダヤ最高法院の議員達から、この言葉を浴びせられている。


神に祈って何になるのか

2019-06-01 | Weblog
ヨブ記21章 
 
  15節「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか」(新共同訳)。

  1節「ヨブは答えた」。ツォファルに対するヨブの反論である。これまで語ったのは因果応報論では説明し切れないということである。わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。13章17節でも同じことを述べている。我慢して聞いてくれ。それから笑うなら笑えと訴える(2~3節)。わたしはこれまで人に訴えているのではないのに、なぜ我慢しなければならないのか。これから語ることは慄然とし身震いさえするのだ、だから口に手を当て驚くがよい(4~6節)。
  7節「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ 年を重ねてなお、力を増し加えるのか」。ヨブは因果応報を批判し問い直す。神に逆らうものが幸福に生き永らえ、子孫も栄え(8節)、家は平和で(9)、家畜は増えてみな喜び踊って死んでいく(10~13節)。彼らは神に向かって不遜なことを言い、なぜ全能者に仕え、祈って何になるのかとうそぶく。だが彼らは財産を多く手にしている(14~16節)。
  17節「神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い 神が怒って破滅を下したことが何度あろうか」。この不条理に神はどうして罰して思い知らせられないのかと問い質す。「灯が消されることが無い」は20章23、28節の反論である。神の怒りを麦のもみ殻のように吹きとばされ、子孫にまで延ばしておられるのか、生きている間に破滅を自分の目で見、全能者の怒りを飲み干せばよいのにと言う(18~21節)。詩1篇4~5節には神に逆らう悪しき者がもみ殻のように吹き飛ばされるとある。
  22節「『人が神に知識を授けえようか。彼は高きにいまし、裁きを行われる』と言う」。これは本末転倒である。不条理の言葉が続く。ある人は死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生で、まるまると太っている人が居ると思えば、全く反対にある人は死ぬまで悩み嘆き続けて、幸せを味わうこともない人もいる(23~25節)。だが、両方とも死んで陰府に降ると同じではないかと言う(26節)。あなたちはこの論理でわたしに対して不法をたくらんでいるのだ(27節)。
  28節「あの高潔な人の館はどうなり この神に逆らう者の住まいとした天幕はどうなったのか」とあなたたちは問う」。「高潔な人」は口語訳「王侯の家」だが、新共同訳はヨブのように解釈している。これを問うのは誰か、あなたたちか。通りかかる旅の者が館を見て尋ねるのか。あなたたちも旅の者も、この神の不条理を応えることは出来ないだろう(29節)。
  30節「悪人が災いの日を免れ 怒りの日を逃れているのに~」。裏工作をしていても、誰も暴くことはできず、その仕業を罰することはない。彼のために盛大な葬儀が執り行われ、墓泥棒に対して番人が立ち、葬列のあとが絶えない(31~32節)。
  34節「空しい言葉で、どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない」。ヨブの結論の厳しいことば。口語訳「…あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。

  15節の「神に祈って何になるのか」という批判は、キリスト者も耳にする事がある。ルカ福音書23章35~37節を読むと、主イエスは、十字架上でユダヤ最高法院の議員達から、この言葉を浴びせられている。


わたしを贖う方は生きておられる

2019-06-01 | Weblog
ヨブ記19章
 
   25節「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」(新共同訳)

  1節「ヨブは答えた」。ビルダドへのヨブの応答である。内容はビルダドに向けられた言葉と、神がヨブに向けておられる怒りの凄まじさを披瀝した言葉が出てくる。あなた達はどこまでわたしを苦しめ、そんな論法でわたしを打ち砕くのかと問い、侮辱するのはもう充分だと訴える(2~3節)。故意に犯したのでもない過ちを、跨張して責め立てて辱めているという(4~5節)
  6節「それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし わたしの周囲に砦を巡らしていることを」。神がわたしに不当な取り扱いをされているのを知るがよい。救いを求めても応えてもらえず、わたしの道はふさがれて通れず、行く手には暗黒があり、栄誉の冠は奪われ、希望は根こそぎ取り去られている(7~10節)。神はわたしに向かって怒りを燃やされ、主の軍勢は結集してわたしの天幕を取り囲んでいる(11~12節)。兄弟や知人、親族や友人、家に身を寄せている男や女らすべてから引き離されて、恐ろしい孤独地獄に陥っている(11~15節)。僕を呼んでも応えず、妻と子供に嫌われ、幼子まで背を向ける(16~18節)。心を許す親友から忌み嫌われてしまった(19節)。これはヨブのために様々言葉をかけて共に苦しみを共有してくれた三人の友から、背かれて嫌われていて、今は「骨皮筋右衛門」になっている(20節)。
  21節「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ 神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか」。孤独と悲嘆と絶望の中に身を置いているヨブは思わず、神と一緒になって責めることを止めてくれと友人に憐れみ乞う(22節)。
  23節「どうか、わたしの言葉が書き留められるように 碑文として刻まれるように」。しかしヨブは絶望の心底から、神に向かって叫び、そこに希望の火種を発見する。それは既に17章3節で陰府への希望として垣間見たことである。自分の言葉が「たがね」(鋼鉄の刃に埋め込まれた純度の高い刃(やいば))で石碑に刻まれ、鉛でその文字を埋め込んで消えないようにという(23~24節)。それは何か。
   25節「わたしは知る。わたしを贖う方は生きて折られ、ついには塵の上に立たれる」。「塵の上」とは陰府を指す。「贖う方」(ゴーエル)とは、「調停し仲裁する方」9章33節、「陰府にてヨブを覚える神」14章13~17節、「天で弁護してくださる証人」16章19~21節である。ここに信仰の願望、確信が告白されている。この事柄は「はらわたは絶え入る」程の激しい期待と興奮でやつれはてるというのである(27節)。そしてヨブの苦しみを罪ある者とする友人に、あなた方こそ、「神の剣を覚悟せよ」と反論した(28~29節)。