聖書 民数記21章4~9節
第二コリント3章12~17節
1 「信仰」という日本語の漢字は、「人偏」がついていますが、これは人が生まれた時から、信じ仰いで生きる者という意味が込められているように思います。それは乳幼児のことを考えてみると納得できるでしょう。それは母親の乳房が乳幼児の顔と向き合ってあるということです。喉の骨格が特別に出来ていると言われます。類人猿のゴリラやチンパンジーも同じだと思わるでしょうが、何時襲われるかも知れない外敵から子猿を守る為に、哺乳の仕方が違っていて骨格が人と異なっている訳です。
2 乳幼児は安心しきって乳を飲んでいて、時々休み母親の顔を見つめます。「信じ仰ぐ」という生き方を身に付けています。八木重吉の詩に「あんあんあん、あんあんあん、あんあんあん、うるさいよ、うるさいよ、うるさか(く)ないよ、神さまを呼んでいるんだよ」とあります。人は神を信じ仰いで生きるのですから、信仰は祈りから始まっていると言えるのです。
3 きょうの説教題は「主を仰ぎ見る」としていますが、旧約聖書・民数記に出てくる出来事を先ずみることにします。ここはホレブ山(シナイ山)から、ハランの荒れ野を北上したが、カナン人の反撃に遭いカデシで四十年の荒れ野の放浪生活を送ることになった。エドムの領土を迂回して一度南下し葦の海(アカバ湾)北端から今一度北上する場面です。
4 しかし民は耐え切れなくなり神とモーセに逆らい、エジプトから導き上ったのは荒れ野で死なせる為なのかと、またしても不信に陥ってしまう(4~5節)。「粗末な食物」とはマナである。主は炎の蛇を民に向って送られた。蛇は民をかみ、多くの死者が出た(6節)。民はモーセに、わたしたちは主とあなたを非難し、罪を犯しましたと悔い改め、蛇を取り除いて下さいと願った(7節)。「主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命をえる」。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た(9節)。
5 遊牧民は毒蛇が災いをもたらす象徴としていた。そして、不信の罰として登場させ、炎の蛇の像を造り呪うことで、死を免れるとしたのです。このユダヤ教の故事をヨハネ福音書3章13節で主イエスは ユダヤ最高法院の議員だしたニコデモとの会話の中で引用されました。「十字架は呪いの木」でしたが、しかし、主は天に昇られました。それは信じる者がだれも永遠の命を得ることができるからでした。3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」と主イエスは言われたのは、この実現を指しているのです。つまり「十字架」から「復活と昇天」という神の約束がニコデモに与えられていたのですが、この新生経験(キリスト者となること)は、使徒言行録の弟子たちによって実現したのです。
6 よく問題となるのは、弟子たちの新生経験は何時だったかですが、主イエスご昇天とそれに続くペンテコステの出来事によってでした。彼らは聖霊の降臨(聖霊のバプテスマ)によって、旧約のベールが取り除かれ、「十字架と復活、そして再来の栄光のイエス」の証人となったのです。
7 きょうの聖書箇所は栄光の主の御顔を仰ぎ見るには、旧いわたし達の罪のベールを取り除いて頂いかなければ、不可能であることを示された箇所でした。この箇所で、旧約聖書・出エジプト記34章29~33節でモーセがシナイ山で「石の板」に書かれた律法を持ち帰った時に彼の顔が輝いていて、人々は「顔覆い」をしなければ彼の顔を見ることが出来なかった場面を取り挙げて、束の間の消え去るもの、一時的なものであった。これは旧約の律法に囚われた生き方を指しているという。律法主義者だったパウロ自身の経験が証明しているのであった。
8 ≪14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです≫。
9 ウオッチマン・ニー著『幕屋のキリスト』にこのような記事があります。エルサレム神殿の広場には「丸い形の大きな表面が磨きあげられている銀製の水盤が置かれています。礼拝者は自分の有りのままの姿がその鏡のような水盤に映し出されます。醜さや汚れ、穢い「われ」です。嫌だと思ってそこから去ると、惨めな自分しか残らないのです。然し一歩前に進み出て身を洗いきよめて、祭壇に近づくと、素晴らしい神の栄光を見ることが出来るのです。私たちが主の礼拝を主日毎に守り、そこで罪の悔い改めと新しい主イエスの出合いの経験をすることがどんなに重要であり必要なことかを、これから示されるのです。