日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

『主の栄光を仰ぎ見る』

2019-10-25 | Weblog
 
聖書  民数記21章4~9節
第二コリント3章12~17節 
     
1 「信仰」という日本語の漢字は、「人偏」がついていますが、これは人が生まれた時から、信じ仰いで生きる者という意味が込められているように思います。それは乳幼児のことを考えてみると納得できるでしょう。それは母親の乳房が乳幼児の顔と向き合ってあるということです。喉の骨格が特別に出来ていると言われます。類人猿のゴリラやチンパンジーも同じだと思わるでしょうが、何時襲われるかも知れない外敵から子猿を守る為に、哺乳の仕方が違っていて骨格が人と異なっている訳です。
2 乳幼児は安心しきって乳を飲んでいて、時々休み母親の顔を見つめます。「信じ仰ぐ」という生き方を身に付けています。八木重吉の詩に「あんあんあん、あんあんあん、あんあんあん、うるさいよ、うるさいよ、うるさか(く)ないよ、神さまを呼んでいるんだよ」とあります。人は神を信じ仰いで生きるのですから、信仰は祈りから始まっていると言えるのです。
3 きょうの説教題は「主を仰ぎ見る」としていますが、旧約聖書・民数記に出てくる出来事を先ずみることにします。ここはホレブ山(シナイ山)から、ハランの荒れ野を北上したが、カナン人の反撃に遭いカデシで四十年の荒れ野の放浪生活を送ることになった。エドムの領土を迂回して一度南下し葦の海(アカバ湾)北端から今一度北上する場面です。
4 しかし民は耐え切れなくなり神とモーセに逆らい、エジプトから導き上ったのは荒れ野で死なせる為なのかと、またしても不信に陥ってしまう(4~5節)。「粗末な食物」とはマナである。主は炎の蛇を民に向って送られた。蛇は民をかみ、多くの死者が出た(6節)。民はモーセに、わたしたちは主とあなたを非難し、罪を犯しましたと悔い改め、蛇を取り除いて下さいと願った(7節)。「主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命をえる」。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た(9節)。
5 遊牧民は毒蛇が災いをもたらす象徴としていた。そして、不信の罰として登場させ、炎の蛇の像を造り呪うことで、死を免れるとしたのです。このユダヤ教の故事をヨハネ福音書3章13節で主イエスは ユダヤ最高法院の議員だしたニコデモとの会話の中で引用されました。「十字架は呪いの木」でしたが、しかし、主は天に昇られました。それは信じる者がだれも永遠の命を得ることができるからでした。3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」と主イエスは言われたのは、この実現を指しているのです。つまり「十字架」から「復活と昇天」という神の約束がニコデモに与えられていたのですが、この新生経験(キリスト者となること)は、使徒言行録の弟子たちによって実現したのです。
6 よく問題となるのは、弟子たちの新生経験は何時だったかですが、主イエスご昇天とそれに続くペンテコステの出来事によってでした。彼らは聖霊の降臨(聖霊のバプテスマ)によって、旧約のベールが取り除かれ、「十字架と復活、そして再来の栄光のイエス」の証人となったのです。
7 きょうの聖書箇所は栄光の主の御顔を仰ぎ見るには、旧いわたし達の罪のベールを取り除いて頂いかなければ、不可能であることを示された箇所でした。この箇所で、旧約聖書・出エジプト記34章29~33節でモーセがシナイ山で「石の板」に書かれた律法を持ち帰った時に彼の顔が輝いていて、人々は「顔覆い」をしなければ彼の顔を見ることが出来なかった場面を取り挙げて、束の間の消え去るもの、一時的なものであった。これは旧約の律法に囚われた生き方を指しているという。律法主義者だったパウロ自身の経験が証明しているのであった。
8 ≪14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです≫。
9 ウオッチマン・ニー著『幕屋のキリスト』にこのような記事があります。エルサレム神殿の広場には「丸い形の大きな表面が磨きあげられている銀製の水盤が置かれています。礼拝者は自分の有りのままの姿がその鏡のような水盤に映し出されます。醜さや汚れ、穢い「われ」です。嫌だと思ってそこから去ると、惨めな自分しか残らないのです。然し一歩前に進み出て身を洗いきよめて、祭壇に近づくと、素晴らしい神の栄光を見ることが出来るのです。私たちが主の礼拝を主日毎に守り、そこで罪の悔い改めと新しい主イエスの出合いの経験をすることがどんなに重要であり必要なことかを、これから示されるのです。

罪を取り除いてくださる方法

2019-10-24 | Weblog
 聖書 ヘブライ人の手紙9章23~28節

 「もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、只一度現われてくださいました(26節日本聖書協会訳)          

1 わたし達は、大祭司キリストがかつてのレビ族の大票司にはるかに優れた資質を持つお方であることを示されましたが、9章ではそのことを、罪を清める力の違いによって明らかにします。まず罪の清めを行う場所のことです。かつての大祭司は、手で造られた幕屋で犠牲をささげました。幕屋は聖所と幕で仕切られた至聖訴に分けらました。通常は聖所で犠牲をささげましたが、至聖所には年に一度贖罪日に大祭司が入り、民の罪の清められることを祈りました。従って幕屋、後のエルサレム神殿は、ユダヤ教徒にとって神との正しい関係を保つ根拠であったのです。しかしAD70年エルサレム神殿はローマ軍によって破壊されました。民はこれを激しく悲しみました。現在「嘆きの壁」といわれる所は崩壊した城壁の一部です。
2 ここで本書は、この聖所は人間の手で造られたものであって、v24「ほんとうのものの模型」にすぎないと言い切るのです。キリストを通して出会った神の臨在の素晴らしさに比べるなら、神殿は影のようなものです。生ける神の面前に立つ礼拝が真の礼拝であるとすれば、神のいます天こそまことの聖所です。地上の大票司イエスは、天の諸層からなる聖所を通り至聖所へと入られました。その最も奥に臨在される神の面前に立ったのです。
3 聖所に携える「血」を取り上げて、大祭司イエスとレビ系の大祭司の罪を清める力の違いを明らかにしています。聖書では、血は人や動物の生命力であり、罪を犯した人の命を贖うには、命なる血によらねばならないのです(Lev17:11)。従ってv22「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」のです。かつての大祭司は、毎年贖罪日には自分の罪を清めるための雄牛の血と、民の罪を清めるための雄山羊の血をたずさえて聖所に入りました。v10~13 動物の血によって、自分と民の罪の赦しを祈ったのです。しかしそれは人間の内面の「良心」を清めることはできません(v9)。神への不従順やはかない楽しみにふける罪は取り除かれなかったのです。10:4「雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができない」とあるように罪の清めは人間の努力によってはどうにもならなかったのです。人間の側からの救いの道は完全に閉ざされています。
4 しかし今や新しい大祭司キリストは、ご自分の血をたずさえて天の聖所に入られました。キリストは十字架で流されたご自分の血をたずさえて人びとの罪のゆるしを祈られたのです。このキリストの血という代価によってはじめて、罪の赦しが成し遂げられ、閉ざされていた救いの道が開かれたのです。すなわちキリストの血は、人の「良心」を清め、罪と結びついた行いから自由にして、私たちをv14「生ける神に仕える者」とするのです。
5 v12「あがない」とは、代価を払って奴隷を買い戻すことです。罪の負債による奴隷を解放するには、罪の代価を支払う必要があります。動物の血は人間の罪の十分な代価となりえませんでした。しかし神の御子キリストは、ご自身の血というこれ以上ない高価な代価で私たちを買い戻してくださったのです。自らを差し出されたキリストの姿と、過越祭でほふられる小羊のイメージを重ね、キリストをRev1:18~19「ほふられた小羊」だと告白します。御子キリストは大祭司になられると同時に、罪を贖う小羊となられたのです。
6 かつて年一度の贖いの日、大祭司が至聖所で犠牲をささげ終えると、民は喜んで彼を迎えました。自分たちの罪が清められたからです。そのように大祭司キリストは天の聖所にて神の前で犠牲をささげ終えて、再び民の前に姿を現すべき時を待っておられます。それは再臨のことですが、v28大祭司キリストが再び来られる時、それは救いが完成する日です。大祭司キリストの救いの業は、私たちの身分を完全に変えました。私たちは罪赦され、v15「永遠の財産」を受け継ぐ者とされたのです。
7 ここで大繁司キリスト論をもって結ばれます。v18「これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」。私たちの救いに必要な代価をすでにキリストが支払ってくださったので、もはや救いのためにいけにえを、ささげることはありません。ただ成し遂げられた十字架の救いを御言葉と主の晩餐で繰り返し思い起こしつつ、約束された地を目指してキリストに従うのです。v19 このような確信は、迫害と試練の最中で希望を見失いかけている者たちを励まします。

永遠の救いの源

2019-10-23 | Weblog

聖書箇所 ヘブライ4章14~5章10節              

1 全く人性を持つ方として来られたイエス・キリストが神の本質の姿を持つという第1章の最初の部分で示されたわたし達は、その働きが神と人との間に祭司的働きを持つということを更に学ぶことが出来ます。旧約聖書に記されている祭司職は、イスラエルの民の中から選任されましたが、同時にその選任は神の指示によるものでした。イエス・キリストが終わりの時として来られるまでは、その任務は重要でした。
2 祭司は12部族の中でレビ族から立てられ、世襲で継承されました。最も大事な務めは、祭壇に犠牲をささげ、罪の赦しを神に祈ることでした。個人でも民族でも罪の赦しの為に焼き尽くす捧げ物をささげました(Lev1、4)。ですから祭司は、罪の問題を解決するために人びとが頼りとする専門職だったのです。今やこのレビ族の祭司たちとは別に、神自らが御子キリストを祭司として立てられたのです。7:22~28に、レビ系の祭司とイエスとを比較し、4つの違いを挙げています。
① 任期(v23~25) レビ族の祭司は死によって働きが中断されますから、替わりが立てられます。最初の大祭司アロンからAD70年のエルサレム神殿崩壊まで、83人の大祭司が立てられたと言います。しかしイエスは復活して常に生きておられるので、唯一人で永遠に祭司の務めを果たすのです。
② 罪の有無(v26) レビ族の祭司は、贖罪日には先ず自らの罪のために犠牲を捧げ、その後に民のために犠牲をささげました(Lev16:6)。しかし罪なきイエスは、直接民の罪を取り除くことに取り組むことができます。
③ 罪を除く力(v27) レビ族の祭司は日々罪を贖う犠牲を捧げました。それは毎日いけにえをささげても本当の意味で罪の贖いができなかったということです。しかしイエスは、十字架で唯一度ご自分を捧げることによって完全に罪を取り除かれました。
④ 任命の方法(v21、28) レビ族の祭司は律法の指示によって立てられましたが、イエスは神ご自身のv28「誓いの御言葉」によって祭司とされました。
3 このように見ますとイエスこそ「偉大な大祭司」と呼ばれるに相応しい方なのです。この大祭司イエスは4:15「わたしたちの弱さを同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方です。これは人間が地上で経験する様々な苦悩や痛みです。これを5:7「肉において生きておられたとき激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と記しています。由木康作詞・讃美歌121番1節「貧しき憂い、生くる苦しみ、つぶさになめし、この人を見よ」という歌詞がありますが、そこには飢えることや病むこともあったに違いありません。それは憐れみ深い大祭司として神の前に執成すために外なりません。だからv16「時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」という招きの言葉があるのです。
4 大祭司イエスが永遠に変らない資格を与えられているということが、次の聖句で証明されます。一つはPsa2:7から、5:5「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」です。王の戴冠式の詩ですが、それはキリスト預言詩でもあるのです。今一つはGen14:17~22、Psa110:4からの引用、v6「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」です。メルキゼデクの祭司については、7:1~18に詳細に述べられています。この聖言の確証に立つ方としてイエスはv9「永遠の救いの源」と呼ばれるのです。この「源」とは創始者the authorとも訳されます。これは罪の源流に対比して新しい救いの源流ということになります。

神の決定的な語りかけ

2019-10-22 | Weblog
            

神はかつて予言者たちを通して、折に触れ、様々な仕方で先祖たちに語られたが、この終わりの時には、神子を通して私たちに語られた(聖書協会共同訳ヘブライ1章1節)

1 ヘブル人への手紙は、手紙の形式として冒頭に挨拶の言葉がなく、いきなり主題に対する序文がきます。著者と宛先がわかりませんが、ヘブライ人という題名は後から付けられたものです。それは手紙の内容がユダヤ人キリスト者であろうと言うことからでした。著者はパウロ説がありますが、手紙の背景から見て妥当ではありません。バルナバ説やアポロ説などもあります。
2 この序文はヨハネ福音書に匹敵するようなものです。誰に宛て書かれたか明確ではありませんが、背景としてキリスト共同体に危機が迫っていることが伺われます。その困難に対応するもので、説教をまとめて書き送ったものだと考えられます。年代的には紀元80~90年頃に書かれ、現在残されている最古の説教と言うことができます。
3 著者は、まず神の語りかけに注目させます。1~2節に「神はかつて預言者たちによって、多くの形で、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。ここに旧約聖書と新約聖書とが対応しています。神は旧約時代を通じて、預言や夢、幻、自然、奇跡など様々な方法で語りかけられましたが、しかし「この終わりの時代」、すなわち新約時代には、御子イエス・キリストを通して語りかけられました。それはもはや何の媒介もなく直接語りかけるものであり、また多くの機会や方法によらず、御子イエスの言葉と生涯による決定的な語りかけでした。誕生(受肉)、宣教活動、受難、そして昇天に至る御子キリストと言葉は、私たちへ決定的な神のメッセージなのです。「終わりの時代」とありますが、これは終末last dayでギリシャ語はエスカト―という言葉です。終末論はここから展開されるものです。従ってわたし達は終末の時代を生きているのです。
4 続いて著者は、v2「御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」とある通り、この御子がいかなる地位を占める方であるかをすべての空間と時間にわたる宇宙的なスケールで描きだそうとしています。そしてv3「神の本質の完全な現れであった」としています。御子こそ神の輝きを伝える唯一の方であり、神の本質の真の姿なのです。口語訳「神の本質の真の姿」で、「真の姿」the representation of the realityをNEVは、the express image of the personと訳しています。ギリシャ語)は「彫刻する」 engrave)いう言葉と共通語で、印鑑と印影がまったく一致しているように、御子は神の姿をあますところなく映し出しているということです。Characterの語源になりますが、NTでは唯一回の使用です。それは父なる神との一体性を言い表しているのです。「彼は人間性において神の印章を押されたものであり、蝋に刻むように宇宙に刻まれた神のサインである」(John W Bowman)。
5 そしてこのように神と等しい方である御子がv3「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」とあり通り、神の救いという大事業を成し遂げてくださったのです。「人々の罪を清められた」は、Ch2:14~17「悪魔を御自分の死によって滅ぼし…民の罪を償うために」と記されます。続いてv5「いったい神は、かつて天使のだれに『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』といわれ」とある様に、この御子が御使にまさる方であることを明らかにします。この個所の引用は詩2編7からです。NTでは多く引用される聖句で5:5、Act4:25、Rev2:37当時の人びとは、御使を神の世界に属する霊的存在として崇拝していました。そしてイエスも御使の一人だと考える人びとがいたようです。これは由々しき問題でした。そこで御子が御使をはるかに越える方であることを、旧約聖書を引用しながら明らかにしているのです。v5b=ⅡSam7:14、v6=Deu32:43、v7=Psa104:4、v8-9=Psa45:7~8、v10-11=Psa102:26-28、v13=Psa110:1 v14「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕える」存在とされています。つまり御使はわたし達に仕える者であり、その意味で私たちより下だと言い切っているのです。これは御使を天界の存在として崇拝していた人びとにとっては驚くべき言葉だったことです。
6 なぜ本書は、御子キリストの卓越した存在をこれほどまで強調するのでしょうか。それは迫害と葛藤にさらされていたキリスト者に、御子キリストの救いの確かさを示し、励ますためです。ローマ皇帝ネロが口一マの大火(AD64年)をキリスト者のせいにしたため、大迫害が起こりましたが、本書の読者はこの危機を乗り越えてきました(10:32~33)。しかしその後も、自らを「主にして神」と呼ばせた皇帝ドミティアヌス(在位81~96年)のもとで、キリスト者は反社会的だとレッテルを貼られ、いいしれない偏見や迫害にさらされました。激しい迫害の延々と続く中で、弱り果て(12:3)、集会をやめるものがおり(10:25)、神から離れ去る危険にさらされたのです(3:12)。
7 そこで著者は、2:1「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」と勧めたのです。「押し流される」は、本来「漂流する」という意味です。そこで私たちは聞かされた救いの言葉にしっかりと錨をおろさなければなりません。御子を通して語られた救いこそ、神ご自身と使徒たちが証ししている通り、どんな嵐の日にあっても永遠の救いをもたらす港だからです。
8 終わりにわたし達人間の持つ視覚と聴覚について述べたい。わたしが前にいました教会に、視覚障害の方や聴覚の障害の方がいました。その方々との交わりで、わたしは多くのことを教えられ学んだのです。特に視覚と聴覚の不自由でした栂 月恵姉、大田さわの姉がおられました。しかし体は不自由でも心の目と耳はハッキリしていました。福音書に只1回耳の不自由な人を主イエスが癒された個所があります。Mk7:31~34 主は「エッファタ」(開け)と言われて聞こえるようにされました。わたし達も耳を開いて頂き、御声を聞く者にしていただきたいと願います。説教題に「決定的に聞く」と付けましたが、それは主イエスご自身が神の言となられ、この方以外にもやは神は語られないということです。それはどこまでも聖書を開き、聖書から聞くことです。その理解はイエスの光です。「66巻の聖書」という著書がありますが、66巻それぞれにキリストが示されている意味です。聖書全体は、キリストにより神の言葉を聞くことが出来る訳です。

救いの導き手

2019-10-20 | Weblog
というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(聖書協会共同訳ヘブライ人への手紙2章10節)

 1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。1章の勧めを受けてこれに応答すること。「注意を払う」(プロセケイン)、口語訳「心に留める」は、船の錨をおろすこと、もしそうしないなら「押し流される」(パラルノオーメン)、漂流することになる。
 2節「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば~」。「天使たちによって語られた」とは、旧約の啓示を指す。その違反や不従順に対して断罪されるなら、神の御子によって啓示された救いに無頓着でいてどうして断罪されないだろうかという(3節)。この救いは主イエスが語り、これを聞いて使徒たちが告げた確かなもの、神もしるし、不思議、力ある業で証したものである(4節)。
 5~9節 御子イエスの死と栄光について
 5節「神は、わたしたちが語っている、来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです」。ここでも「天使たち~」は旧約であり、「来るべき世界」は新約の御子イエスの時を指している。そしてイエスの救いの出来事を詩8篇5~7節(ギリシャ語訳)を引用して証言する(6~8節)。
 7節「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け~」。「わずかの間、低い者とされた」とは、イエスの地上で人として虚しくなられたことを指す(14、17節)。それは十字架の苦しみと死というわずかの間で、死に勝利して「栄光と栄誉の冠を授けられた」のである(8~9節)。
 10節「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」。このイエスの死と栄光は、救いの「導き手」(アルケーゴス)となるためであった。アルケー(初め)とアゴー(導く)の合成語で「先導者」(12章1節)「導き手」(使徒言行録3章15節)とも訳せる。これは死と命の間の深淵に救いの命綱を渡すことである(ギリシャではこれをアルケーゴスと呼ぶ)。神はこのことを人類の究極目標として下さったのである。
 12節は詩22篇23節「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝え~」」の引用
 13節はイザヤ書8章17~18節の引用
 この引用で、イエスがわたしたちの兄弟となられたことを証言する。
 14~18節 御子イエスが、わたし達と等しく死とその苦しみを味われた理由を説いている。
理由の第一は「…それは、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖で生涯、死の奴隷状態になっている者たちを解放されるためでした(15節)。
理由の第二は天使たちを助けるので無く、アブラハムの子孫を助けられる為でした。
そして17節「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」ことが理由の第三である。
大祭司は、神と民とに関わることを身に負うのである。
 「忠実な大祭司」としての働きは、更に3章以降で展開されている。

三段飛びの信仰

2019-10-19 | Weblog
 「私たちは、この信仰のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むのでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるであれば、私たちは忍耐して待ち望むのです。(日本聖書協会訳ローマ信徒への手紙八章二四―二五節)

一 新年を迎えて、先ず『初夢』を今夜は見ることでしょう。昔から一藤富士二鷹三茄子」と言われますが、何故でしょうか。これには諸説があります。富士山、鷹狩り、初物のナスを徳川家康が好んだことからだそうです。 富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、ナスは事を「成す」。富士は「無事」、鷹は「高い」、ナスは事を「成す」という掛け言葉です
二 きょうの説教題はわたし達の希望についてのことす。実はこのヒントは祈祷会で元鎌倉雪の下教会の加藤常昭牧師のFEBCラジオ放送テープを毎週祈祷会でローマ信徒への手紙を聞いて、忘れられない話だったので、取上げました。聖書は八章二五節「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」という箇所でした。
三 この時、加藤常昭先生は、英語の聖書からホープという言葉はホップと同じ語源から来ていると言われました。スペルは似ていますが、語尾が違っています。このホップは飛び跳ねる、片足でぴょんと跳ぶという意味です。蚤(のみ)のことをホッパーと言うようです。この言葉が使われるのが「三段跳び」の第一歩で身を屈めて跳ぶ姿勢をするイメージが示されます。
四 わたしは、直ぐに思ったのは豹やライオンが獲物を伺う姿勢でした。以前わが家の飼い犬も猫も出会った時に双方が身を屈めていました。運動選手は、この第一歩が第二歩と第三歩の飛距離につながっていることを充分承知していることでしょう。参考までにオリンピック選手の金メダル十七メートル八十だそうです。
五 本年元日は神から賜わる飛躍ホップを、力一杯与えて頂いて進んでいただきましょう。人それぞれ異なりますが、見えない神への信仰により身を屈めて姿勢を整えていただきましょう。
六 札幌農学校が明治初期に開校され、初代教頭がwクラ―クでした。彼は青年たちを連れて野外学習をしたがある日小川に差し掛かっ時、クラークは川を飛んで渡り、学生たちにも飛ばせたという。そして「これがキリスト教精神である」と語ったそうです。
私は一人一人、バブルのように儚く消えてしまう地上に宝を積むことを夢見る希望で終わらないようにと願っています。或る学生にあなたの将来にどんな希望を持っていますかと、質問したそうです。すると彼は胸を張って応えたそうです。司法試験を受けて弁護士になります。それから?と聞くと財産を沢山得て世界一周の旅をします。それからと重ねてたずねると返事に窮して応えられなかった。老いて死を待つだけの生涯だったからです。この質問した先生は「あなたの希望は何と小さいことか。神があなたにあたえようとする永遠の世界がない」と諭したそうです。ルカ福音書十二章には、「愚かな金持ちのたとえ」と「思い悩むな」が並べて記されていす。遺産相続の悩み相談に付いての譬と野の花と烏を見よというのです。二〇一四年一月一日元旦

三段跳びの信仰

2019-10-19 | Weblog
私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている信仰は希望は希望ではありません。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを誰が尚望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐してまちのぞむのです。(聖書協会訳8章24~25節)

 一新年を迎える人は、先ず『初夢』を見ることでしょう。昔から一藤富士二鷹三茄子」と言われますが、何故でしょうか。これには諸説があります。富士山、鷹狩り、初物のナスを徳川家康が好んだことからだそうです。 富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、ナスは事を「成す」。富士は「無事」、鷹は「高い」、ナスは事を「成す」という掛け言葉です
 二きょうの説教題はわたし達の希望についてのことす。実はこのヒントは祈祷会で元鎌倉雪の下教会の加藤常昭牧師のFEBCラジオ放送テープを毎週祈祷会でローマ信徒への手紙を聞いて、忘れられない話だったので、取上げました。聖書は八章二五節「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」という箇所でした。
 三この時、加藤常昭先生は、英語の聖書からホープという言葉はホップと同じ語源から来ていると言われました。スペルは似ていますが、語尾が違っています。このホップは飛び跳ねる、片足でぴょんと跳ぶという意味です。蚤(のみ)のことをホッパーと言うようです。この言葉が使われるのが「三段跳び」の第一歩で身を屈めて跳ぶ姿勢をするイメージが示されます。
 四わたしは、直ぐに思ったのは豹やライオンが獲物を伺う姿勢でした。以前わが家の飼い犬も猫も出会った時に双方が身を屈めていました。運動選手は、この第一歩が第二歩と第三歩の飛距離につながっていることを充分承知していることでしょう。参考までにオリンピック選手の金メダル十七メートル八十だそうです。
 五本年元日は神から賜わる飛躍ホップを、力一杯与えて頂いて進んでいただきましょう。人それぞれ異なりますが、見えない神への信仰により身を屈めて姿勢を整えていただきましょう。
 六札幌農学校が明治初期に開校され、初代教頭がwクラ―クでした。彼は青年たちを連れて野外学習をしたがある日小川に差し掛かっ時、クラークは川を飛んで渡り、学生たちにも飛ばせたという。そして「これがキリスト教精神である」と語ったそうです。
 七私は一人一人、バブルのように儚く消えてしまう地上に宝を積むことを夢見る希望で終わらないようにと願っています。或る学生にあなたの将来にどんな希望を持っていますかと、質問したそうです。すると彼は胸を張って応えたそうです。司法試験を受けて弁護士になります。それから?と聞くと財産を沢山得て世界一周の旅をします。それからと重ねてたずねると返事に窮して応えられなかった。老いて死を待つだけの生涯だったからです。この質問した先生は「あなたの希望は何と小さいことか。神があなたにあたえようとする永遠の世界がない」と諭したそうです。ルカ福音書十二章には、「愚かな金持ちのたとえ」と「思い悩むな」が並べて記されていす。遺産相続の悩み相談に付いての譬と野の花と烏を見よというのです。(2014年元旦礼拝でした)

Heb2:17      憐れみ深い大祭司イエス 

2019-10-17 | Weblog
それで、イエスは神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点で兄弟たちと同じようにならねばなりませんでした(日本聖書協会訳 ヘブライ人への手紙2章17節)

 1 「憐れみ」は「哀れみ」とは別です。憐れみは基本的に人の心に良い感情を起し、優しさや理解をつくり出すものであり、憐れみの無さは人間性を欠くことになります。英語はcompassionですが、これはcom(共に)とpati(苦しむ、耐える)の意味があります。Lk6:36「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」と主は言われました。
 2 わたし達が「憐れみ深い者」になるには、自分という壁を取り除かなければ出来ないことです。ひとりだけの世界では自己憐憫であり、人と人とを結び合わせる優しさや良い感情は閉鎖されているからです。そのことを実証してくださったのが、Phi2:6~7にある御子イエスです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」とある通りです。
 3 福音書に主イエスが憐れみを示された記事が多く出てきます。Mtt14:14(イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた)、Mk5:19(悪霊から開放されたゲラサの人=イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」)、6:34「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」8:2「群集がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」、Lk7:13「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』」。
 4 ヘブライの手紙では大祭司としての働きが示されます。人間の中から選ばれて罪のための犠牲を祭壇に献げる職任じられた者ですが(5:1see)、彼は自分自身の為にも犠牲が必要です。しかし神がここで立てられたのは、人でありながら自身を犠牲として献げる大祭司でした。これがイエスを「憐れみ深い大祭司」と呼ばれる所以です。4:14では「偉大な大祭司」とあります。そしてv17「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」のです。
 5ヘ ンリー・ノーエン著「揺り動かす愛」コンパッションの中で、このギリシャ語(憐れみは内臓=腸を表す言葉で、ヘブライ語ラハミムと同じであるとしています p25。「日毎の糧」日課シリーズは中段しました。25年以上長い間、聖書講解でしたが、気力も体力も無くなり残念です。これからはわたしの説教集から載せることにします=2001/9.2