サムエル記上13章
14節「しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる」(新共同訳)。
1節「サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき~」。口語訳では「三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた」となっているが、原文(ベン・シャーナー)は「息子の年」で、一つの区切りを表わしている。当初彼は一部族の王だったが、一年後イスラエルの王となったのである。二年後彼は対ペリシテ戦で鋭兵三千人を対戦に向かわした。その内千人をベニヤミンのギブアでヨナタンのもとに置きペリシテの守備隊を打ち破った(2~3節)。ヨナタンはサウルの息子である。サウルは国中に角笛を吹き鳴らし、ギルガルに集め、ペリシテから憎しみをかうことになったことを伝えた。
5節「ペリシテ軍は、イスラエルと戦うために集結した。その戦車は三万、騎兵は六千、兵士は海辺の砂のように多かった。彼らは上って来て、ベト・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた」。「戦車三万、騎兵六千」とあるが、口語訳は「戦車三千、騎兵六千」。ヘブライ語の数字の読み方は難しい。余りの兵の多さにイスラエルは圧倒され、危険が迫っているのを見て、洞窟、岩の裂け目、岩陰、穴蔵、井戸などに身を隠し、河を渡ってガドやギレアドの地に逃げ延びた者もあった。然し、サウルはギルガルに踏みとどまり、従う兵は皆、彼の後ろで慄いていた(6~7節)。
8節「サウルは、サムエルが命じたように、七日間待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。兵はサウルのもとから散り始めた」。堪りかねたサウルは兵に命じて燔祭と酬恩祭(口語訳)を献げた(8~9節)。献げ終えた時、サムエルが到着したので、サウルは彼に挨拶しようと迎えに出た。約束をいつしたのかは不明であるが、サムエルは何をしたのかと質した。七日待っても来られないので、兵は散りはじめ、敵はミクマスに集結しているので、嘆願しようと燔祭を献げているのですと応えた(10~12節)。祭壇に献げ物をする祭儀はレビ族サムエルの権限で、これは、11~12章で示されていた王の権限を逸脱したことを指す。彼の短慮が犯した失敗である。ベニヤミン族のサウルには祭儀の権限は与えられていなかった。サムエルはサウルに「あなたは愚かなことをした。主がお与えになった戒めを守っていれば、あなたの王権をいつまでも確かなものとしてくださった」と告げた(13節)。
サウルの兵士は約六百人オフラに通じる道からシュアル(ベテル北東方面十キロ)、一隊はベト・ホロンに通じる道(ギブオン北西八キ)、残る一隊は荒れ野の方角から国境エルサレム南東で、波状攻撃を掛けて混乱を起こす戦略であったと思われる(14~18節)。この戦闘で決定的に不利なのは、イスラエル軍には鍛冶屋がいなく鋤や鍬や斧や鎌を研いで、剣や槍に打ちかえることが出来なかった為に、戦場で用いられなかったことである。
22節「こういうわけで、戦いの日にも、サウルとヨナタンの指揮下の兵士はだれも剣や槍を手にしていなかった。持っているのはサウルとその子ヨナタンだけであった」。鉄製の武器が無かったことは戦闘の不利となったことは確かであるが、ここで問題なのは、王が祭儀・宗教を支配しようとする政治的な誘惑が、唯一絶対なる神に対する背反となるからである。これは15章でも起きている。箴言16章32節に「自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」とある。サウルの短慮は王位を失う原因となった。
14節「しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる」(新共同訳)。
1節「サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき~」。口語訳では「三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた」となっているが、原文(ベン・シャーナー)は「息子の年」で、一つの区切りを表わしている。当初彼は一部族の王だったが、一年後イスラエルの王となったのである。二年後彼は対ペリシテ戦で鋭兵三千人を対戦に向かわした。その内千人をベニヤミンのギブアでヨナタンのもとに置きペリシテの守備隊を打ち破った(2~3節)。ヨナタンはサウルの息子である。サウルは国中に角笛を吹き鳴らし、ギルガルに集め、ペリシテから憎しみをかうことになったことを伝えた。
5節「ペリシテ軍は、イスラエルと戦うために集結した。その戦車は三万、騎兵は六千、兵士は海辺の砂のように多かった。彼らは上って来て、ベト・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた」。「戦車三万、騎兵六千」とあるが、口語訳は「戦車三千、騎兵六千」。ヘブライ語の数字の読み方は難しい。余りの兵の多さにイスラエルは圧倒され、危険が迫っているのを見て、洞窟、岩の裂け目、岩陰、穴蔵、井戸などに身を隠し、河を渡ってガドやギレアドの地に逃げ延びた者もあった。然し、サウルはギルガルに踏みとどまり、従う兵は皆、彼の後ろで慄いていた(6~7節)。
8節「サウルは、サムエルが命じたように、七日間待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。兵はサウルのもとから散り始めた」。堪りかねたサウルは兵に命じて燔祭と酬恩祭(口語訳)を献げた(8~9節)。献げ終えた時、サムエルが到着したので、サウルは彼に挨拶しようと迎えに出た。約束をいつしたのかは不明であるが、サムエルは何をしたのかと質した。七日待っても来られないので、兵は散りはじめ、敵はミクマスに集結しているので、嘆願しようと燔祭を献げているのですと応えた(10~12節)。祭壇に献げ物をする祭儀はレビ族サムエルの権限で、これは、11~12章で示されていた王の権限を逸脱したことを指す。彼の短慮が犯した失敗である。ベニヤミン族のサウルには祭儀の権限は与えられていなかった。サムエルはサウルに「あなたは愚かなことをした。主がお与えになった戒めを守っていれば、あなたの王権をいつまでも確かなものとしてくださった」と告げた(13節)。
サウルの兵士は約六百人オフラに通じる道からシュアル(ベテル北東方面十キロ)、一隊はベト・ホロンに通じる道(ギブオン北西八キ)、残る一隊は荒れ野の方角から国境エルサレム南東で、波状攻撃を掛けて混乱を起こす戦略であったと思われる(14~18節)。この戦闘で決定的に不利なのは、イスラエル軍には鍛冶屋がいなく鋤や鍬や斧や鎌を研いで、剣や槍に打ちかえることが出来なかった為に、戦場で用いられなかったことである。
22節「こういうわけで、戦いの日にも、サウルとヨナタンの指揮下の兵士はだれも剣や槍を手にしていなかった。持っているのはサウルとその子ヨナタンだけであった」。鉄製の武器が無かったことは戦闘の不利となったことは確かであるが、ここで問題なのは、王が祭儀・宗教を支配しようとする政治的な誘惑が、唯一絶対なる神に対する背反となるからである。これは15章でも起きている。箴言16章32節に「自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」とある。サウルの短慮は王位を失う原因となった。