日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

 あなたの栄光の宿る所を慕います 

2020-03-25 | Weblog
 詩26篇   

 8節「主よ、私はあなたの生む家を あなたの栄光の宿る所を慕います」聖書協会訳   

1節「(小見出し)ダビデの詩 主よ、私を裁いてください」。私は全き道を歩みました。私は主を信頼し 揺らぐことはありませんでした。」。
2節「主よ、私を調べ、試してください。私の思いと心を確かめてください」。直訳「調べる」(=ベはネーニ試験する、「試す」=ツォルファ真偽を鑑定する)はらわたと心を火をもって試してくださいと祈る。本詩では信頼の姿勢が強く求められ一層強くそれが示される。「完全に歩んだ道」である。
3節「あなたの慈しみは私の目の前にあります。私はあなたの真実に従って歩んできました。」これは25篇10節にもある。私を導く使者はあなたの慈しみ(ヘセド)であり、あなたの真実(エムナー)だと告白する。
4節「私は空しい者と共に座らず 欺く者と共に進まず」、5節「悪をなす者の集いを憎み、悪しき者と共に座りませんでした。」わたしが相対している人物は偽る者(偽善者)、欺く者(悪事を謀る者)、主に逆らう者であり、わたしは彼らの集いに入らず、集いを憎み、共に座らないと明確な生き方の区別を示す。
6節「私は両手を洗って無実を示しあなたの祭壇を回ります」。祭司が犠牲の供え物を携えて祭壇に来る。そして感謝の歌声をあげて祭壇の周りを歩む有り様である。その行進は「感謝の声を響かせ、あなたの奇しき業のすべてを語り伝えるためである」(7節)。
8節「主よ、私はあなたの住む家をあなたの栄光の宿る所を慕います」。「あなたの住む家=「わたしの愛するアハヴティあなたの家ベテーは」であり、また、あなたの栄光の宿る場所を慕うのである。
9節「あなたが罪人と共に私の魂を 血を流す者と共に私の命を取り去ることがありませんように」。再び5節からの続きで、彼らと一緒にしないで下さいと嘆願するのである。
10節「彼らの手には恥ずべき行い 右の手は賄賂で満ちています」。直訳、「恥ずべき行い」ズイマー「性的不品行」、「賄賂」ショはツド「奪った物」。9~10節はモーセの十戒(殺すな、姦淫するな、むさぼるな)に相当する。
11節「私は全き道を歩みます。私を贖い、憐れんでください。」結語の祈りである。主の憐れみと贖いにより「わたし」は完全な道真っ直ぐな道を歩き続けますという。
12節「私の足は平らな所に立つ。集会の中で、私は主をたたえよう」。そして全会衆と一緒に「感謝の歌声を響かせたい」(7節)と祈るのである。「集会」はカーハールで「会衆」とも訳される。口語訳「会衆の中で」岩波訳「諸々の集会場~」とある。むしろ「あなたの、います家」(8節)つまり主の教会(信仰共同隊)を指し、礼拝の中で主を讃えるのである。「私」は全き道(神殿の境内の真っ直ぐな道、ここでは「平ら」「完全」を象徴する表現である27篇11、イザヤ26章7節、箴言15章19節)を歩き続け、そして礼拝の中で、聖歌隊(口語訳・会衆)と共に感謝の歌声を響かせたい。」(12節)

主は恵み深く、正しい。それゆえに罪人に道を示す

2020-03-19 | Weblog
 詩25篇   

 8節「主は恵み深く、正しい。それゆえに罪人に道を示す」聖書協会訳   

1節「(小見出し)ダビデの詩 主よ、私の魂はあなたを仰ぎ見る」。わが神よ、私はあなたに信頼する。私が恥を受けることのないように。敵が勝ち誇ることがないように(2節)。9~10篇と同じアルファベット詩篇である。1節と2節は冒頭にアルファベットが来ないで、「あなたに向かって」(エレーは)と「あなたに」(べはー)である。まず「私が恥を負わないように、」敵が勝ち誇ることがないように」と祈る。更に主を待ち望む者は恥を受けない。理由なく裏切る者は恥じると、「恥じ」が三回出ている(2~3回)。それは神との正しい関係についてである。
4節「主よ、私にあなたの道を知らせ、行く道を教えてください」。前の「道」は複数で「諸々の道」デレヘーは(・口語訳大路)、後の「道」オルほテーは(小道)でいずれも神の目的、計画を指す。何故なら神が導こうとしている道筋だからである。5~11節はその理由と嘆願を表している。
①「あなたの真実(ヴエらメデーニ)によって導き、教えて下さい5節(嘆願)。
②「あなたは憐れみ(ラはメーは)と慈しみ(ハサデーは)深い方だから6節。
③「若い日の罪と背きを思い出さないで、慈しみに相応しく恵み(トウヴはー)のゆえに思い出してください(7節)。
④「主は恵み深く正しくいまし(ヤシャル真直ぐな)、それゆえに罪人に道を示す方」(8節)。
⑤「主は苦しむ人(アナヴィーム心低い者)岩波訳=貧しき者・を公正に導き、貧しき者に道を教える(9節)。神の公正な審判で罪を悔い改め、謙遜な者とならしめる。
⑥「主の契約と定めを守る者にとってすべての小道は『慈しみ』(ヘセド)と『真実』(エメット)」である」(10節)
⑦「あなたの名のために私の大きな不義をお許しください」11節(嘆願)。
⑧「主を畏れる人に選ぶべき道を示し、善(トーブ)の中に宿り、地を継ぐ者にして下さる」(12~13節)。
⑨「罪の誘惑と危険な網から足を取りだして下さる方に、常に私の目を注いでいます。私は貧しくかつ独りだからです」(15~16節)
17節「心の苦悩から解き放ち、苦難から私を引き出して下さい」。これは16節を受けている。既に9節にあるように、ここから不法を仕掛ける敵が出てくる(19節)。主への信頼は心低い者、柔和な者で主の前に謙遜でなければ出来ない(20節)
 21節「完全と正しさが私を守るように。私はあなたを待ち望む」。新共同訳
 「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守って下れるでしょう」岩波訳「完全さと誠実さが、私を見守りますように。私はあなたを待ち望みますから」。22節はない。

〈註〉ヘブライ対訳聖書では22節「神よ、イスラエルをすべての苦難から贖ってください」であるが、本詩篇はアルファベット訳で21節最初の単語「完全さ」(トム)で終わりになっている。



栄光の王とは誰か。強く勇ましい主

2020-03-14 | Weblog
詩24篇   

 8節「栄光の王とは誰か。強く勇ましい主。戦いの勇者なる主」聖書協会訳   

1節「地とそこに満ちもの。世界とそこに住むものは主のもの。」(小見出しダビデの詩。賛歌)聖書協会共同訳。「主が大海の上に地の基を築き 大河の上に世界を添えたから」2節。エルサレム入城に先立ち、その資格が質されている。先ず主は全地を支配されるかたであり、その御業は天地創造の時にまで遡る。「大海の上に地の基を築き」とあるが、「大海」「大河」は創世記1章2節「混沌」(カオス)で、その上に天と地が創造されたということである(2節)。続いて主の山(エルサレルムの都)に上り、聖所で主を礼拝する人 は誰かが問われる(3節)。これは15篇にもある。その人は
 ①「汚れのない手と清い心を持つ人(4節)暴力や不正で汚れていない人。
 ②「魂を空しいものに向けない人 異教の神々を拝まない人。
 ③「偽りの誓いをしない人 。岩波訳「欺瞞の為に誓うことのない者」である。
 5節
「①その人は主から祝福を受け、
 ②救いの神から正義(ツエデク)を与えられる。」
 ③6節「これこそ、主を尋ね求める人々。
 ④ヤコブの神の御顔を求める者」である。
エルサレムの都で神を礼拝する人の資格が明らかに示されている。
これは23篇3節にある御名にふさわしく義(ツエデク)の道へと導かれる者である。
 7節「門よ、頭を上げよとこしえの扉よ、上がれ。栄光の王が入る」。城門が擬人化され、最初に入るのは功績のある人間ではない。栄光に輝く主なる王であると二度反復され、栄光に輝くことを強調しているのである。
 9~10節は7~8節の繰り返しである。ダビデが王位に就いて最初エルサレムで契約の箱を荷車でなく担ぎ登った事例が想定される(サムエル記下6章1~19節参照)。これは戦いに勝利した王の凱旋である。これは人間でなく神的な栄光に輝く王たることを告げる。その王が私たちのために先駆者として、そこに入って行ったので(へブライ6章20節)、人は大胆に恵みの座に近づくことができるのである(ヘブライ4章16節)。
神の御子イエスは軍馬でなく、驢馬の子にのって、エルサレムに入城する(マタイ福音書21章1~9節)。それは預言者ゼカリヤ9章9節の預言であり、戦勝の王でなく、平和の王を表す出来事であった。このイエス入城を律法学者も祭司たちも認めることは出来なくて、ファリサイ派の人々を扇動し、群衆の歓声を黙らせようとした(ルカ福音書19章39節)。五日後にはユダヤ最高法院でイエスを死罪の判決をくだし、群衆は更に、「十字架につけよ」と叫んでいる(同23章13~25節)。
 いつの時代も大衆動員と情報操作は恐ろしい。現代のIT社会では国の内外を超えて情報伝達のネットが張り巡らされ、リアルタイムで世界から罪と悪の力が吹き荒れて、愛と義の支配する世界が失われて行く。「御国を来たらせ給え」と日々切願して止まない。
  
 

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない

2020-03-12 | Weblog
 詩23篇    

 1、2節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ憩いの汀に伴われる」聖書協会共同訳
  
 1節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」。新共同訳は「主は羊飼い」であったが、原文は「ヤハウエ ロイー」(主はわが羊飼い)で、一人称を省いていたが、ダビデの個人的経験(サムエル記上16章11節)の枠を超えて主を羊飼いとして導かれるイスラエル民全体の賛歌という解釈であった(エゼキエル34章see)。民として欠けることのない土地に平穏に生きる確信が込められていたのであろう。主は私を草原(若草の牧場・岩波訳)に伏させ、「憩いの水のほとり・アル メー メヌほット)に伴って下さる。流れる水ではない。動物も人間も貴重な岩盤を砕いて掘った井戸である(出エジプト記2章15~17節)。
 3節「主は私の魂を生き返らせ御名にふさわしく、正しい道へと導かれる」。オアシスでの憩いは疲労を癒し、新たな力を与える処である。羊飼いなる主はこの場所を恵みの道筋として賦与されるのであり、羊の群れは全くそれに依存している。「正しい道」とは神の義(ツエデク)である。迷いやすい群れであるが、ここに無条件で正道を導いて下さる神の業がある。 
 4節「たとえ死の陰の谷を歩むとも私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める」。狭く暗くて方向がわからない谷で羊には死の谷であるが、避けて通ることができない。しかし義なる神が寄り添ってくださるから脅え惑うことはない。「鞭」(シヴテハー)は野獣や突然襲ってくる盗賊を追い払う棍棒である。「あなたの杖」(ウミシュアンテーは)、山や岩を登る時の杖である。羊飼いは両手に持っていることになる。普通はどちらか1本であるが、ここでは棍棒が必要なのである。
 5節「私を苦しめる者の前であなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ私の杯を満たされる。「私を苦しめる者の前」は口語訳「敵の前で」であるが、原語「ツオレライ」はわが敵とも訳せる。荒れ野で生活する遊牧民は外敵に追われて逃亡する人々と遭遇することがある。その時追われてきた人を旅人として迎え入れるのである。ここでは「わたし」は敵から逃れてきた人を旅人として迎え入れるのである。天幕の主人(羊飼いなる主)は疲れ飢えたわたしの為に豊かな宴を設け、追跡の敵はその宴をただ見るだけガ示されている。「頭に油を注ぎ私の杯を満たす」とは好意的な接待を表す。「香油を注ぐ」のは王や祭司の任命などに用いるオリーブ油であり、酒宴の杯の前に王のように迎えられることを示している。
6節「命あるかぎり恵みと慈しみが私を追う。私は主の家に住もう、日の続くかぎり」。私は生涯「主の家」(神の幕屋)に住み、平安に生きることが出来るという賛美である。「私を追う」(イルデフーニー)は「追跡する」である。これは5節にある「私を苦しめる者」(ツオレライ・敵)と対比してあり、「恵み」(トーブ)と「慈しみ」(ヘセド)が天の使いのように追い掛けてくるという表現である。主は熱心に祝福しようとしておられるのである。それは「生涯のすべての日々」(コる イエメー はヤイ)である。

すべての人が主を心に留め、立ち帰るように

2020-03-06 | Weblog
  詩22篇    

 28節「すべての人が主を心に留め、立ち帰るように。国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように」聖書協会共同訳
  
 1節「指揮者によって、曙の牝鹿による、賛歌。ダビデの詩(小見出し)21篇とは対照的に弱さを一身に負う者の嘆きの詩が22節まで詠われる。
 2節「わが神、わが神 なぜ私をお見捨てになったのか。私の悲嘆の言葉は救いから遠い」。『わが神、わが神 なぜ私をお見捨てになったのか』は原文「エリー エリー ラマー アザヴターニ」がそのまま十字架上で叫ばれた主イエスの言葉として引用されている(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。
 3節「わが神よ、昼に呼びかけてもあなたは答えられない。夜もなお、私は黙ることはできない」。昼も夜も呼び求めて止まないのに応えてくださらないと「わたしの神に」訴える。絶望のどん底にありながら、あなたヘの信頼は絶えることはない(4節)。なぜならあなたは聖なる方、イスラエルの讃美の中におられる方、彼らが依り頼むと苦難から逃れさせられた。あなたにより頼むと、恥を受けることはなかった(5~6節)。
7節「だが私は虫けら。人とは言えない。人の謗りの的、民の蔑みの的」本詩に先行する18~21篇では王という権力者、社会的強者が登場したが、自らを「虫けら、人間の屑(物笑いの種)、民の恥(原語ウヴェズイ アム」となっている。
8節「私を見る者は皆、嘲り、唇を突き出し、頭を振る」。主に任せて救って貰うがよい。主が助け出してくれるだろうと罵られる(9節)。イエスが十字架上で受けた恥辱と嘲笑の有り様がここから示される(マタイ27章27~31節、39~40節)see
10節「まさにあなたこそ、私を胎から取り出した方母の乳房に預けた方。」この叫びが母の胎内にある時から全存在を賭けたものであることを訴え、苦難が迫り、助けてくれる者のいない今、私から離れないで下さいと祈る(11~12節)。
13節「多くの雄牛が私を取り囲み、バシャンの強い牛が私を取り巻いた」。獲物を引き裂き、吠えたける獅子のように私に向かって口を大きく開ける(14節)。私の骨はバラバラ、心蔵は蝋のように体の中で溶け(15節)、力は壊れた陶器の破片で死の塵に捨て置かれ(16節)、野犬が群れをなす獅子のように両手両足を取り囲んでいる(17節)。私を裸にして肋骨を算え眺め回し、服を剥ぎ取り籤引きにしている(ヨハネ19章23節)。
20節「主よ、あなただけは遠く離れないで下さい。私の力の源よ、急いで助けに来て下さい」。原文は文頭に「しかしあなたは(ヴェアター)、主よ(アドナイ)」が出てくる。ここから状況は苦悩から祈りと讃美に変わる。何が起きたのか。言えることは神の奇跡が彼のうちに起きたのだ。「助け出して下さい・剣から私の命を、犬の手から私の唯一の命を。救って下さい、獅子の口から、野獣の角から。するとあなたは私に答えて下さった」(21~22節)。讃美と栄光を主に帰せる事(24節)、貧しく苦しむ人が受け入れられ、神の御顔を隠されなかったことである(25節)。神の沈黙と断絶はなくなった。
26節「大いなる集会で、私の賛美があなたから出る。主を畏れる人々の前で、私は誓いを果たそう」。後半の「主を畏れる人々の前で、私は誓いを果たそう」を共同訳は「満願の献げ物をささげます」と意訳している。これは原文「私の誓いを(ネダライ)私は果たす・支払う・満たす(アシャれム)」で聖書協会訳はこれに近い。つまり恵みの御業に対する応答と解しているのである。
27節「苦しむ人は食べて満ち足り、主を尋ねる人は主を賛美する。あなたがたの心がいつまでも健やかであるように」。地の果てまですべての人が主を心に留め、立ち帰るように。国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように。王権は主にあり、主こそ国々を治める方(28~29節)。
 この結果、地の富める者もひれ伏し、自ら命を保持できない者も、皆主の前に身をかがめる(30節)。なし遂げてくださったことを代々語り伝えることになる。キリスト者にとってそれは何か。ほかでもないイエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命である(31~32節)。

 あなたの救いにどれほど喜び踊ることか 

2020-03-02 | Weblog
  詩21篇

 2節「主よ、王はあなたの力を選び、あなたの救いにどれほど喜び踊ることか」聖書協会共同訳
  
 1節「指揮者によって、賛歌。ダビデの詩」小見出し 20篇に続く王の詩である。20篇が取り成しの詩であり、21篇は御救いの感謝の詩である。全体は2~8節と9~13節に二分される。
 2節「主よ、王はあなたの力を選び、あなたの救いにどれほど喜び踊ることか」。讃美は主の御力を喜び祝うというものである。「あなたの力を選ぶ」とあるが直訳「主よ『あなたの力の中で』(アドナイ ベオズは)は20篇で三度くりかえされた「神の名の力」(2,6,8節)である。主が王の心の願いに応え、聞き届けられた勝利が与えられたという確信が歌われる。
4節「あなたは恵みの祝福をもって彼を迎え、その頭に黄金の冠を載せた」。主がイスラエルの王位に就けられたことを喜ぶ。「黄金の冠を載せた」は王の権威の再確認である。サムエル記下12章30節以下を参照したい。
5節「彼が命を願うとあなたは長寿を、代々とこしえまでも与えた」。戦いに勝利し、命の安全が与えられたことを感謝し、地上に命のある限り、主の御業を忘れることはないという。
6節「王の栄光はあなたの救いによって大きくなり あなたの威厳と輝きを彼の上に置く」「栄光」「威厳」「輝き」はすべて主の救いの中にある。永遠の祝福という主の約束に基づく王の支配を喜び祝う。いと高き神の慈しみに支えられて、王位は揺るぐことがないと告げ(7~8節)後半の9~13節へと続く。
7~8節「あなたは永遠の祝福を彼に与え 御前の喜びによって彼を楽しませる。原文(キー なぜなら)王は主に信頼し、いと高き方の慈しみの中で、揺らぐことはない」。
9節「あなたの手はすべての敵を探り出し、右の手はあなたを憎む者を探り出す」。主の右手はすべての敵対するものを見つけて(原文テイムツア-)打破られるのである。
10節「主よ、御顔を現すとき あなたは彼らを火のついた炉のようにする。主は怒りで彼らを呑み尽くし、火は彼らを食らい尽くす」。主は燃える炉に投げ込まれた者のようになり、火が彼らを呑み込んでしまうと告げるのである。
11節「あなたは彼らの実りを地から その種を人の子らの中から滅ぼす」。直訳「~彼らの実り(子孫 ビルヤモー)を地から、子孫(ヴエザルアム)を人の子の中から絶たれる。
12「彼らがあなたに悪事を重ね 策略を巡らしても、果たせはしない。」その悪事は決して成功しないのである。
13節「あなたは彼らを敗走させ」彼らの顔に向けて弓を引き絞る。」かえってあなたは彼らを引き倒し、彼らの顔に向かって弓を引き絞られる。
14節「主よ、力に満ちて、高くいませ。私たちはあなたの力強い業を詠いほめ歌を歌おう」。御力を表される主を崇めよ。力ある御業を讃えて、彼らは讃美の歌をうたう。これは20篇と同様に結びの祈りと讃美である。
(11~14節はヘブライ語聖書対訳シリーズ参照)