詩26篇
8節「主よ、私はあなたの生む家を あなたの栄光の宿る所を慕います」聖書協会訳
1節「(小見出し)ダビデの詩 主よ、私を裁いてください」。私は全き道を歩みました。私は主を信頼し 揺らぐことはありませんでした。」。
2節「主よ、私を調べ、試してください。私の思いと心を確かめてください」。直訳「調べる」(=ベはネーニ試験する、「試す」=ツォルファ真偽を鑑定する)はらわたと心を火をもって試してくださいと祈る。本詩では信頼の姿勢が強く求められ一層強くそれが示される。「完全に歩んだ道」である。
3節「あなたの慈しみは私の目の前にあります。私はあなたの真実に従って歩んできました。」これは25篇10節にもある。私を導く使者はあなたの慈しみ(ヘセド)であり、あなたの真実(エムナー)だと告白する。
4節「私は空しい者と共に座らず 欺く者と共に進まず」、5節「悪をなす者の集いを憎み、悪しき者と共に座りませんでした。」わたしが相対している人物は偽る者(偽善者)、欺く者(悪事を謀る者)、主に逆らう者であり、わたしは彼らの集いに入らず、集いを憎み、共に座らないと明確な生き方の区別を示す。
6節「私は両手を洗って無実を示しあなたの祭壇を回ります」。祭司が犠牲の供え物を携えて祭壇に来る。そして感謝の歌声をあげて祭壇の周りを歩む有り様である。その行進は「感謝の声を響かせ、あなたの奇しき業のすべてを語り伝えるためである」(7節)。
8節「主よ、私はあなたの住む家をあなたの栄光の宿る所を慕います」。「あなたの住む家=「わたしの愛するアハヴティあなたの家ベテーは」であり、また、あなたの栄光の宿る場所を慕うのである。
9節「あなたが罪人と共に私の魂を 血を流す者と共に私の命を取り去ることがありませんように」。再び5節からの続きで、彼らと一緒にしないで下さいと嘆願するのである。
10節「彼らの手には恥ずべき行い 右の手は賄賂で満ちています」。直訳、「恥ずべき行い」ズイマー「性的不品行」、「賄賂」ショはツド「奪った物」。9~10節はモーセの十戒(殺すな、姦淫するな、むさぼるな)に相当する。
11節「私は全き道を歩みます。私を贖い、憐れんでください。」結語の祈りである。主の憐れみと贖いにより「わたし」は完全な道真っ直ぐな道を歩き続けますという。
12節「私の足は平らな所に立つ。集会の中で、私は主をたたえよう」。そして全会衆と一緒に「感謝の歌声を響かせたい」(7節)と祈るのである。「集会」はカーハールで「会衆」とも訳される。口語訳「会衆の中で」岩波訳「諸々の集会場~」とある。むしろ「あなたの、います家」(8節)つまり主の教会(信仰共同隊)を指し、礼拝の中で主を讃えるのである。「私」は全き道(神殿の境内の真っ直ぐな道、ここでは「平ら」「完全」を象徴する表現である27篇11、イザヤ26章7節、箴言15章19節)を歩き続け、そして礼拝の中で、聖歌隊(口語訳・会衆)と共に感謝の歌声を響かせたい。」(12節)
8節「主よ、私はあなたの生む家を あなたの栄光の宿る所を慕います」聖書協会訳
1節「(小見出し)ダビデの詩 主よ、私を裁いてください」。私は全き道を歩みました。私は主を信頼し 揺らぐことはありませんでした。」。
2節「主よ、私を調べ、試してください。私の思いと心を確かめてください」。直訳「調べる」(=ベはネーニ試験する、「試す」=ツォルファ真偽を鑑定する)はらわたと心を火をもって試してくださいと祈る。本詩では信頼の姿勢が強く求められ一層強くそれが示される。「完全に歩んだ道」である。
3節「あなたの慈しみは私の目の前にあります。私はあなたの真実に従って歩んできました。」これは25篇10節にもある。私を導く使者はあなたの慈しみ(ヘセド)であり、あなたの真実(エムナー)だと告白する。
4節「私は空しい者と共に座らず 欺く者と共に進まず」、5節「悪をなす者の集いを憎み、悪しき者と共に座りませんでした。」わたしが相対している人物は偽る者(偽善者)、欺く者(悪事を謀る者)、主に逆らう者であり、わたしは彼らの集いに入らず、集いを憎み、共に座らないと明確な生き方の区別を示す。
6節「私は両手を洗って無実を示しあなたの祭壇を回ります」。祭司が犠牲の供え物を携えて祭壇に来る。そして感謝の歌声をあげて祭壇の周りを歩む有り様である。その行進は「感謝の声を響かせ、あなたの奇しき業のすべてを語り伝えるためである」(7節)。
8節「主よ、私はあなたの住む家をあなたの栄光の宿る所を慕います」。「あなたの住む家=「わたしの愛するアハヴティあなたの家ベテーは」であり、また、あなたの栄光の宿る場所を慕うのである。
9節「あなたが罪人と共に私の魂を 血を流す者と共に私の命を取り去ることがありませんように」。再び5節からの続きで、彼らと一緒にしないで下さいと嘆願するのである。
10節「彼らの手には恥ずべき行い 右の手は賄賂で満ちています」。直訳、「恥ずべき行い」ズイマー「性的不品行」、「賄賂」ショはツド「奪った物」。9~10節はモーセの十戒(殺すな、姦淫するな、むさぼるな)に相当する。
11節「私は全き道を歩みます。私を贖い、憐れんでください。」結語の祈りである。主の憐れみと贖いにより「わたし」は完全な道真っ直ぐな道を歩き続けますという。
12節「私の足は平らな所に立つ。集会の中で、私は主をたたえよう」。そして全会衆と一緒に「感謝の歌声を響かせたい」(7節)と祈るのである。「集会」はカーハールで「会衆」とも訳される。口語訳「会衆の中で」岩波訳「諸々の集会場~」とある。むしろ「あなたの、います家」(8節)つまり主の教会(信仰共同隊)を指し、礼拝の中で主を讃えるのである。「私」は全き道(神殿の境内の真っ直ぐな道、ここでは「平ら」「完全」を象徴する表現である27篇11、イザヤ26章7節、箴言15章19節)を歩き続け、そして礼拝の中で、聖歌隊(口語訳・会衆)と共に感謝の歌声を響かせたい。」(12節)