日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

わたしを贖う方は生きておられる

2019-02-18 | Weblog
ヨブ記19章   

 25節「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」(新共同訳)

  1節「ヨブは答えた」。ビルダドへのヨブの応答である。内容はビルダドに向けられた言葉と、神がヨブに向けておられる怒りの凄まじさを披瀝した言葉が出てくる。あなた達はどこまでわたしを苦しめ、そんな論法でわたしを打ち砕くのかと問い、侮辱するのはもう充分だと訴える(2~3節)。故意に犯したのでもない過ちを、跨張して責め立てて辱めているという(4~5節)
  6節「それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし わたしの周囲に砦を巡らしていることを」。神がわたしに不当な取り扱いをされているのを知るがよい。救いを求めても応えてもらえず、わたしの道はふさがれて通れず、行く手には暗黒があり、栄誉の冠は奪われ、希望は根こそぎ取り去られている(7~10節)。神はわたしに向かって怒りを燃やされ、主の軍勢は結集してわたしの天幕を取り囲んでいる(11~12節)。兄弟や知人、親族や友人、家に身を寄せている男や女らすべてから引き離されて、恐ろしい孤独地獄に陥っている(11~15節)。僕を呼んでも応えず、妻と子供に嫌われ、幼子まで背を向ける(16~18節)。心を許す親友から忌み嫌われてしまった(19節)。これはヨブのために様々言葉をかけて共に苦しみを共有してくれた三人の友から、背かれて嫌われていて、今は「骨皮筋右衛門」になっている(20節)。
  21節「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ 神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか」。孤独と悲嘆と絶望の中に身を置いているヨブは思わず、神と一緒になって責めることを止めてくれと友人に憐れみ乞う(22節)。
  23節「どうか、わたしの言葉が書き留められるように 碑文として刻まれるように」。しかしヨブは絶望の心底から、神に向かって叫び、そこに希望の火種を発見する。それは既に17章3節で陰府への希望として垣間見たことである。自分の言葉が「たがね」(鋼鉄の刃に埋め込まれた純度の高い刃(やいば))で石碑に刻まれ、鉛でその文字を埋め込んで消えないようにという(23~24節)。それは何か。
   25節「わたしは知る。わたしを贖う方は生きて折られ、ついには塵の上に立たれる」。「塵の上」とは陰府を指す。「贖う方」(ゴーエル)とは、「調停し仲裁する方」9章33節、「陰府にてヨブを覚える神」14章13~17節、「天で弁護してくださる証人」16章19~21節である。ここに信仰の願望、確信が告白されている。この事柄は「はらわたは絶え入る」程の激しい期待と興奮でやつれはてるというのである(27節)。そしてヨブの苦しみを罪ある者とする友人に、あなた方こそ、「神の剣を覚悟せよ」と反論した(28~29節)。


天は彼の罪を暴く

2019-02-18 | Weblog
ヨブ記20章 
   
  27節「天は彼の罪を暴き 地は彼に対して立ち上がる」(新共同訳)

 1節「ナアマ人ツォファルは答えた」。今度は二番目の友人ツォファルの登場である。慰めと勧告の要素は無くなっている。神が不当に苦しみを与えているというあなたの説はわたしを興奮させ、わたしに対する非難と聞こえるので、反論せずにおれないという(2~3節)。19章2~5節、22節を指していよう。ツォファルの因果応報論を受け入れないヨブの態度である。
 5節「神に逆らう者の喜びは、はかなく 神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない」。ツォファルはヨブが神を逆らう者、神を無視する者とし、徹底して悪人の破滅は間近いこと、天に達するほどの高慢さは、自分の汚物ように地下に投げ捨てられる。夜の幻のように消え失せて、何処を探しても見出すことはできないだろう(6~8節)。「夜の幻のように~」は4章12~16節エリファズの言葉、7章13~14節ヨブの言として出ている。
9節「彼を見ていた目はもう彼を見ることなく、彼のいた所も二度と彼を見ない。」その子は人々に償いをし、子孫が奪った富を返済するが、しかし尚塵の上に伏す。
 12節「悪が口に甘いからと舌で抑えて隠しておき~」。悪人には蜜のように甘い言葉を舌で隠していても、胃の中に入るとコブラの毒と同じで、吐き出すことはできないで死にいたる(13~16節)。神が備えた蜜と乳の流れる川を見ることはなく、労して獲たものも略奪したのだから楽しみとはならない(17~20節)。節度のなき欲の追及をなす悪人は必ず欠乏に陥り、繁栄は続かないということである。
 23節「腹を満たそうとすれば、神は燃える怒りを注ぎ、それをパンとして彼に浴びせかける」。神罰は「鉄の武器」「青銅の弓」「的を射る矢」で貫かれ、体から胆汁が流れでる(24~25)。蓄えた宝も暗闇の中に見えなくなり、神の火が天幕を焼き払い何も残らない(26節)。
 27節「天は彼の罪をあばき、地は彼に対して立ち上がる」。ノアの洪水の時のように、大水は家財をすべて押し流してしまう。これが神に背く者への神の審判であると友人のツォファルは告げるのである。これは彼が全財産を失った出来事を指している(1~2章)。ここではヨブにとって到底承服できない言葉である。

  因果応報で、糾弾されると承服できないが、人の本質を神から質されるなら罪人であることを認めざるを得ない。これが新約聖書に示されているメセージである。ローマの信徒の手紙3章10節(文語訳)「義人なし、一人(ひとり)だになし」の通りである。


破滅が四方から彼を脅かし彼の足を追い立てる

2019-02-16 | Weblog
 ヨブ記18章 

 2節「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。滅が四方から彼を脅か」。

 1節「シュア人ビルダドは答えた」。ヨブの激白に対する、ビルダドの八章に続く二回目の非難である。いつまで言葉の罠の掛け合いをするのか、先ず理解してから話し合おうという(2節)。なぜ獣のように思われるのか、あなたの目に愚か者のように見えるのか(3節)。ヨブを「怒りによって自らを引き裂く者よ」と呼ぶ。彼の身に振りかかるすべての災禍は自業自得であり、自分の勝手で地が捨てられたり、岩が移されたりするというのかと非難する(4節)。
 5節「神に逆らう者の灯はやがて消え、その火の炎はもはや輝かない」。因果応報論が述べられる。「天幕」《ヨブの一族》の灯は暗黒となる(6節)。それはまるで、網を仕掛け、落とし穴を掘って追い込んで獲物を捕る狩のようだが、網に足を取られ、落とし穴に落ちてしまい、かかとは罠にかかり 仕掛けられた網に捕まる。これは自縄自縛である(6~9節)。破滅が四方八方取り囲み、ヨブの一族を追い込んでいるのだ(10~11節)。「破滅」は脅威、パニックを意味している。
 12節「その子は飢え、妻は災に遭う」は口語訳「その力は飢え、災は彼をつまずかすために備わっている」。直訳「その子」は「彼の力」、「妻」は「脇」で創世記2章21節から意訳している(12節)。
 13節「死の初子が彼の肢体をむしばみ、その手足をむしばむ」も意訳で、「死の初子」は神話的な表現で、死の神は不毛の神で子を持たないとされている。死が脱疽にようにヨブの肢体が腐っていく有り様を描いている。彼は天幕から引き出され、破滅が一歩一歩近づいているというのである(14節)。
 15節「彼の天幕には他人が住み その住みかには硫黄がまかれる」。ヨブの一族は天幕から無理やり出て行かせられ、硫黄がその上にまき散らされて、下では根が枯れ、上では枝がしおれる。これは意味不明で、最早住むのは不可能ということであろう(16節)。彼の名は消えて、思い出すものはなく、子孫も住んだ場所も残らない(17~19節)。未来も過去もその災禍が語られるなら戦慄し、身の毛がよだつ(20節)。
 21節「ああ、これが不正を行った者の住まい これが神を知らぬ者のいた所か、と」。何と容赦しない冷厳きわまりない言葉であろう。
 
  苦難の中で何を学ぶか。ヤコブの手紙5章7~11節で小見出し「忍耐と祈り」の箇所を読みたい。特に11節「 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」

わたしの味方をしてくれるでしょう

2019-02-14 | Weblog
ヨブ記17章 

 3節「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が わたしの味方をしてくれましょう」(新共同訳)

 1節「息は絶え、人生の日は尽きる。わたしには墓があるばかり」。絶望の淵からの叫びは続く。既に死と隣り合わせに置かれていると告白する。「息は絶え」口語訳「わが霊は破れ」元訳「わが気息(いき)はすでにくさり」となっている。人々は尚もわたしを嘲笑い、彼らの敵意の中に夜を過ごす(2節)。
 3節「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が わたしの味方をしてくれましょう」。16章19節で「天にはわたしのために証人があり」とあり、神以外に保証人になる方はおられないというのである。新改訳は「わたしを保証する者をあなたのそばに置いてください」としている。メシヤ的な存在が意図しているのだろうか。これは16章20節「わたしの友」の解釈の相違からきている。敵意を抱く者らの心が目覚めることのないようにして下さいと祈っている(4節)。
 5節「利益のために友を裏切れば子孫の目がつぶれる」。この因果応報の「格言」はヨブのことで、その屈辱を受け苦悩に打たれている有様を述べる。顔につばきされ、形相(ぎょうそう)の眼差しになり、手足は萎えている(6~7節)。
8節「正しい人よ、これに驚け。罪のない人よ神を無視する者に対して奮い立て。」あなた達が正しい人、罪のない者、神に従い、手の清い人であるなら集まって来て、この有り様に驚けと叫んでいる(9~10節)。三人の友人に呼び掛けていると思われるが、ヨブは暗に彼らの無知をあばこうとしているように思われる。イザヤ書52章14~15節に同じような状況が伺われる。
 11節「わたしの人生は過ぎ去り わたしの計画も心の願いも失われた」。ヨブは死の暗黒の中から更に激しい叫びをあげる。生きていく道筋は見えなくなり、心に計ることは失われてしまい、夜は昼となる(12節)。最早昼は来ないという意味である。陰府がわたしの住まいで暗黒が寝床であり、蛆虫が肉親のようにやってくる(13~14節)。文語訳は「われ朽腐(くされ)に向かいては、汝はわが父なりと言い、蛆に向かいは汝はわが母わが姉妹なりと言う」(14節)である。
 15節「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか」。もうどこにも希望はない。陰府に落ち、塵の上に横たわっている者に希望などある筈はないという(16節)。

キリスト者がこの状況に置かれたらどうであろう。ローマ信徒の手紙5章3~5節が示される。「~わたしは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。ナポレオン流にいえば、わたし達の辞書には「不可能」という文字はないのです。

天にはわたしの証人があり、弁護してくださる方がいる

2019-02-13 | Weblog
ヨブ記16章 

 19節「このような時にも、見よ 天にはわたしのために証人があり 高い天にはわたしを弁護して くださる方がある」。(新共同訳)

1節「ヨブは答えた」。そんなことを聞くのはもうご免だ。慰める振りをして、皆苦しめている、無駄口をたたくな、何を苛立ってそんな答えをするのかとあなた達は言う(2~3節)。これは15章11~13節の反論である。わたしがあなたたちの立場だったら、頭を振って嘲笑的な態度で、口先だけの言葉で励ますなどはしないだろうと非難する(4~5節)。逆の立場だったらこうだというのである。「唇を動かす」は口語訳「唇の慰めで…苦しみを和らげる」である。
6節「語っても苦しみはやまず 黙っていても、それは去りません」。ヨブの独白である。いま語っても、黙っていても解決しないジレンマに立たされている。疲れ果て、わたしの一族をことごとく荒し、このやせ衰えた姿がわたしの証人となって、抗議するだろうという(7~8節)。ヨブは自分に代って弁明してくれる者を必死で求めている。
9節「神がわたしを餌食として、怒りを表されたので 敵はわたしを憎んで牙をむき、鋭い目を向ける」。彼の独白。苦しめる敵の背後に神がおられる。敵は大口を開けて嘲笑い、一団となってわたしを攻める(10節)。
11節「神は悪を行う者にわたしを引き渡し、神に逆らう者の手に任せられた。」 平穏に暮らしていたわたしを神は打ち砕き首を押さえて打ち据え、的として立て、神に逆らって悪を行う者の手にわたしを引き渡して、わたしを打ち砕き、首を押さえて打ち据えておられる。弓を射る者に囲まれ的(まと)にされて、容赦なく内臓を射ぬき、胆汁が流れ出ている(10~13節)。神はまるで戦士のようにわたしを打ち破り、なお打ち破られるので、荒ら布を肌に縫い付けて、角と共に塵の中に倒れ伏した。新改訳は「角を塵の中につき刺した」(14~15節)。角を高くあげるという表現の反対で、気力を失い落胆することである。「角」は、力、誇り、尊厳のシンボルを意味する(詩75篇5~6節see)。泣きはらした顔の目にあるくまどりは、死の闇だ。わたしには不法はなく、祈りは清く偽りはなかったのにと、心を絞るような独白である(16~17節)。
これは2章の「原ヨブ」と状態は似ているようだが、別人のヨブである。ここはイザヤ書53章の受難の僕を連想させる。18節「大地よ、わたしの血を覆うな わたしの叫びを閉じ込めるな」。絶望の最中で死を前に、なお神の義を求めて叫んでいるヨブである。14章13~17節と共通しているといえる。創世記4章のアベルの血の叫びと同じで、無実を訴え、その証拠の血を地上に残したいということである。このような時にも高い天には弁護してくださる方、身の潔白を証明してくださる方がおられるという(19節)。
 20節「わたしのために執り成す方、わたしの友 神を仰いでわたしの目は涙を流す」。口語訳は「わたしの友はわたしをあざける、しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ」と異なる解釈となっている。「人とその友の間を裁くように」(21節)との関連からすると口語訳のほうが適訳であろう。
神は、執り成し、弁護してくださる方であるが、同時に真実に裁かれるお方のことを知らねばならない。ヨブはこれを祈っていたのである。ヨハネ福音書14章16節を参照したい。

悪人の一生は不安に満ちている

2019-02-12 | Weblog
ヨブ記15章 20節「さて、悪人の一生は不安に満ち 暴虐な者の生きる年数も限られている」(新共同訳)

 1節「テマン人エリファズは答えた」。12~14章にヨブの訴えがあったが、本章から再び三人の友人がヨブと対話することになる。最初は4章に出てきたエリファズである。ヨブの述べていることは「知恵ある者」の言葉ではない。無益で役に立たない空虚なもので(2~3節)、神を畏れ敬うことを捨て、罪が口に教えて語り、舌が悪る賢い人の言葉を選ばせている。あなたを罪に定めるのはあなたの口と舌だという(4~6節)。
 7節「あなたは最初の人間として生まれたのか。山より先に生まれたのか」。ヨブの高慢を厳しく指摘する。最初の人間とは、原初の知恵を有する人間が考えられている(エゼキエル書28章12~17節see)。神の奥義を聞き知恵を自分のものにしたというのか(8)節。口語訳「神の会議で秘密の計画を聞いたとでも言うのか」。年長者で白髪の老人もいて、神の慰めと優しい言葉を語っているのに役に立たないと言うのか。何故取り乱し、悪い目つきをして神に憤りの言葉を吐くのか(8~13節)。「取り乱す」を新改訳「理性を失う」としている。
 14節「どうして、人が清くありえよう。どうして、女から生まれた者が 正しくありえよう」。人は汚れて生まれてきたので、神の目には清くない、根源的に汚れた者であることを述べているが、これはエリファズが4章17~19節で既に語っている。人は水を飲むように不正をのみ、憎むべき汚れた者なのだ(15~16節)。
17節「あなたに語ろう、聞きなさい。わたしに示されたことを告げよう」。改めてエリファズが体験して得た純粋な知恵の伝承を語り始める。それは賢者たちが示したことで父祖も隠さなかったことだという(18節)。彼は自分の体験を重視する。
20節「さて、悪人の一生は不安に満ち 暴虐な者の生きる年数も限られている」。それは悪人の生涯についてである。彼は幻聴で不安に襲われ、死に脅かされる(21~22節)。彼は「暗黒」の攻撃に脅かされ、襲われる時が近いことを知る。「暗黒」は死の世界を表わす。神を神とも思わないで傲慢にふるまい、頑に厚い盾をかざして神に立ち向かう(23~26節)。
28節「滅ぼされた町、無人となった家 瓦礫となる運命にある所に、彼は住まねばならないであろう」。無人の廃墟に住むことになるという。暗黒から吹き寄せる熱風ですべての樹木は枯れ、枝は緑を失い、未熟なぶどうの木の実を落とし、オリーブの木の花が散ってしまうように、神を無視する一族も子孫を残すことは出来ないのである(29~34節)。これは死の世界の恐怖を描いている。エリファズの勧告はヨブに対して、因果応報の結果による罪と死の断罪を告げるものである。

 確かに「罪が支払う報酬は死」(ローマ6章23節)という神による大原則はすべての人に開示され、決して変わるものではない。