日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

贖罪の献げ物

2007-03-31 | Weblog
   45章では1-6節で神殿の周囲に「聖なる献納地」が定められる。神殿に仕える祭司とレビ人、その東西に君主が治める領地となる。君主には「正義と公平」が求められる(9節)。
 次に正しい度量衡を定めることが求められる(10-14節)。これは献げ物の前提となる(16-17節)。
 18-25節は、過越祭、除酵祭、刈庵祭(収穫祭)の規定が示される。

 22節「君主はこの日、自分自身のため、また、国のすべての民のために、贖罪の献げ物の雄牛をささげねばならない。」
 新しく建国されるイスラエルにおいても、君主も民もみな聖なる神の前に罪の贖いの献げ物を必要としている。

 罪の贖いの献げ物を必要としない新しい時代は、メシア・イエスによって到来した。イエスは「義と聖と贖い」となられた(第1コリント1章30節)。
 ヘブライ10章14節では「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」とある。

 今受難週を前にして、このことを想う。
 
  

聖別

2007-03-30 | Weblog
 44章では先ず神殿に入ってはならない者が7-9節に挙げられる。王国時代に雇われて神殿奉仕をしていた無割礼の外国人がいたようだ。彼らを排除する。
 次に10-14節で「民の偶像礼拝を助け、イスラエルに罪を犯させた」レビ人はその罪を負い、神殿の雑務をする。
 そして43章に示してあったツァドクの子孫のレビ人の祭司だけが聖所の勤めをする(15-16節)。
 民数紀、レビ記にあるアロンの子孫のレビ人の祭司と厳密に別けることになる。
 17節以下にはこの祭司らの着用するもの、頭髪、婚姻、汚れの清め等が示される。嗣業を持たない。献げ物の食事についての規定がある。
 ここで40-43章に描かれた新しい神殿礼拝における営為が明確にされる。
 祭司の勤めは何か。23節
 「わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。」
  エゼキエルは既に20章、36章で示したように、どこまでも「聖なる名を惜しむ神」を強調している。

 これは聖別ということか。
 ここで第2コリント7章1節が示される。
 「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」
 キリスト者は既に「聖なる者たち」(1章1節)と呼ばれているのだから、聖なる者に相応しくならねばならないのである。

 

 
 

血と燔祭

2007-03-29 | Weblog
 43章では、東の門から出た(42:15)エゼキエルが、大水のとどろきのような音と共に神の栄光が近づき、東門から入り神殿を満たす幻を見る(1-5節)。それはケバル川河畔で見た幻と同じだった(1章3-4、28節)。しかし神の栄光はエルサレムから去った事を10章で告げているから、新しい神殿に再び神の栄光が現われたということになる。
 東門の正面の内庭に向かった位置にある祭壇が12-17節で示された。18-27節は祭壇の職務をするツァドクの祭司に示した掟である。
 彼らは、先ず血を注いで祭壇を清める(18、20-22節)。次に無傷の若牛と羊を「焼き尽くす献げ物」として7日間祭壇にささげる(25-27節)。
 8日目はこれに和解の献げ物を加える。これは脂肪部分を取除いた肉を祭司たちが和解の印しとして食すること。

 これは単純化した神礼拝を示している。
 血と燔祭(口語訳)によって神と和解が成るというのは、聖書の一貫したメッセージである。
 これをエフェソ2章13~16節から読み取る。

祭司たちの食事

2007-03-28 | Weblog
   42章も神殿の構造であるが、ここは祭司が奉仕する別殿の南北に三階になった部屋があり、廊で区切られている1-14節。ツァドクの祭司らはここで食事をし、祭服を着替える場所である。
 15節後半は神殿の外に出て四方を測る。250メートルの正方形が聖域。

 40章から42章で神殿の左右対照の幾何学的な建造物がすべて記述されている。
 しかしレビ記や出エジプト記にあるような職人の手による内部装飾や色彩、金や銅の鋳造の祭具などは無い。エゼキエルは、神の聖なる臨在を示す神殿を幻として描いたと思われる。

 そこで少しばかり見えてくるのが13節
 「この場所で、主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる。またそこに、彼らは最も神聖なものを置く。それは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物である。この場所が神聖だからである」。
 
 今、この祭司らの共食を思い描くとするなら、それは最後の晩餐で、主イエスから差し出されたパンと杯を受ける弟子たちであり、キリストの共同体ではないか(ルカ22章19-20節)。

至聖所

2007-03-27 | Weblog
 41章も続きであるが、ここには内庭の正面に拝殿が出てくる。拝殿には聖所と至聖所があり、周囲に脇間が三層になっている(6節)。その奥の西側には別殿という建物がある。拝殿の内側外側の壁にはケルビムとなつめやしの模様が刻まれている(17-18節)。
 精密な設計図のようだが、模型でもみないとイメージがわかないので判りにくい。
 4節「至聖所」については、出エジプト26章33節、レビ記16章33節、ヘブライ9章1-10節を読むと判る。
 贖罪の儀式が行われる最も重要な処。契約の箱が置かれていたという。聖所と至聖所の間には垂れ幕があった。

 福音書を読むと、イエスが十字架で息を引き取られた時、「エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ27章51節)とある。
 これはイエスの十字架により罪の贖いが完成されたので、もはや至聖所の隔ての幕の不要を告げる出来事だった。

 罪を贖われた者は「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4章16節)

神殿の幻

2007-03-26 | Weblog
 40章からエゼキエルは新しい神殿の幻を見た。42章まで続く。
 記述を追って行くと、神殿全体の構造が厳密に計られているが、これを鳥瞰図にするのは難しい。
40章では外庭と六つの控え間を持つ三つの門(東南北)が同じ構造である。
 更に内庭と三つの門(東南北)が描かれる。それぞれの幅と広さが記され、外壁に沿って30の部屋がある。また控えの間が六つある。内庭の中心に祭壇があり、神殿奉仕の祭司と、もっぱら祭壇奉仕をするツァドクの祭司の部屋がある。外壁は7段登り、内庭は8段登る。41章に出てくる建物は更に10段登ることになる。
 これはモデルで実際の神殿は建築されていないという。

 ここから何が見えてくるか。
預言者は新しい国の復興を神殿中心に描くが、エズラ、ネヘミヤ時代の第二神殿も、またヘロデが着工した神殿(BC20年 完成AD64年)も、今は城壁は崩れ、神殿はない。

イエスの言われた言葉が示される。ヨハネ福音書4章23-24節
「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」



戦争の武器も、戦死もない世界

2007-03-25 | Weblog
 39章は38章の続きだが、ゴグの軍勢が徹底的に敗北し消滅することを告げる。ゴグも神に用いられた道具だったので、イエスラエルは戦わずして勝つ(3-4節)。
 
 9節以下に不思議な光景が描かれている。
 先ずゴグの軍勢の死体は猛禽の餌食にされる(4節、17-20節)。
 次に戦争の武器を薪にして7年間も燃やし続ける(9-10節)。7は完全数。
 そしてゴグの死体を谷に埋めてその墓地は「ゴグの軍勢の谷」と呼ばれる。埋め残した者がないか7年間探す(11-14節)。

 神の意志は何であったのか。
 それはイスラエルと周辺諸国に「聖なる名」を示すためであった(38章16節、39章7、27節)。
 25節「今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ」とある。口語訳は「わが聖なる名のために、ねたみを起す」。「熱情の神」である。

 不思議な光景から引き出される結論は、戦争の武器の無い、戦死もない永遠平和な世界である。イザヤ書2章4節、9章4節、そしてゼカリヤ9章9-10節から「平和の王」メシア到来が指向される。

 

マゴグのゴグ

2007-03-24 | Weblog
 38章39章はマゴグのゴグについてである。マゴグは「ゴグの地」、スクテヤ人と言われるが歴史的に特定できない。黙示的なものと考えられ、創世記10章2節にあり、黙示録20章8節に引用される。
 回復預言は37章から40章につながっている。
 何故ゴグがここに介在するのか。二つのことが示される。
 一つはゴグの襲来が、8節「多くの日の後…多くの年を経た後」、16節「終りの日に起こる」とある。
 今一つは、イスラエルの民は、安らかに暮らしている(8節)。「城壁もかんぬきも門もなく安らかに生活している静かな国」(11節)。

 このことから推察すれば、神の救いに慢心することの警告と思われる。
 神の選びと救いは、この警告を何時も受けねばならない。
 申命記7章6-7節とか、イザヤ51章1節のように。

 イエスの時代、ユダヤの人々には異邦人は呪われた民、祭壇の焚き木だと言っていた。
 キリストの共同体にも、マゴグのゴグは襲来するだろう。
 


枯れた骨よ、主の言葉を聞け

2007-03-23 | Weblog
 37章は14節までが枯骨の復活預言、15節から二本の木による象徴行為。
 主の霊がエゼキエルを枯骨の谷に連れ出す。
 3節は絶望状態を確認するところ。預言は二段構え。
 先ず「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」(4節)。カタカタと音がして骨と骨がつながり、筋と肉が生じ、皮膚が覆い人体が散った状態でできる。
 次に「霊よ、四方から吹き来たれ」(9節)。すると自分の足で立ち、大集団となる。これは死んでいった捕囚の民が、自分の土地へ帰還する幻である(12-14節)。

 15-22節は北イスラエルと南ユダが故国に帰還し一つの国が再生することを二本の木で示した象徴行為である。
  23-28節では、新しい国を示す終末預言。「永遠」が5回出てくる。
 「平和の契約」は34:25、「永遠の契約」は16:60にある。この国の中心に聖所が置かれる。

 「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」とは容易に言え得ない。
 主の言葉の絶対性が示される。キリストの宣教はこれと同じかも。

聖なる名を惜しむ

2007-03-22 | Weblog
   36章は捕囚期の終り頃の預言であることがわかる。前半15節迄は、イスラエルの回復預言。山々は枝を出し、実を結び捕囚の民が戻ってくる(8節)。土地は耕され種を蒔き(9節)、町の廃墟は建て直される(10節)。人と家畜は増え(11節)、土地を治める(12-15節)。「地が人を食らう」というのは災害や疫病などで命が奪われることを言ったものらしい。

  16節後半は回復の根拠が示される。それは捕囚によって国々で民が「汚した聖なる名」を神が惜しんだからだ(20-21節)と告げている。
 民の側には救いの根拠はなく一方的な神の業である。
 22節「…主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。」そこで
 ①清い水ですべての汚れと偶像から清める(25節)
 ②新しい霊を置き、石の心を取り除き、肉の心を与える(26節) 11:19と同じ
 ③木の実と畑の作物を豊かにし飢饉は無くなる(29-30節)
 ④悪と罪を思い起こし自分自身を嫌悪し恥じる(31-32節) 
 ⑤人口を羊の群れのように増やす(37節)

 神の選びと救いの絶対恩寵は、御子イエスの現された。
 今レントを迎え、イエスの十字架の道行きを辿りながら、これを示される。
 
  

永遠の敵意

2007-03-21 | Weblog
 35章 セイル山はエドムのこと。創世記27章にヤコブとエサウ双子の物語があるが、エドムはその子孫と言われる。荒れ野40年でもエドムはイスラエルを悩ました民だが、既に25章にその預言がある。再度本章で記したのは、イスラエル回復に際し取去らねばならない理由があった。
 5節「お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである。」
 「果てしない敵意」、岩波訳は「永遠の敵意」。
 悪意の中身は、6節「血に飢えた憎しみ」11節「怒りとねたみ」、12節「諸々の嘲」。10節の「二つの国と土地はわたしのもの」とは北イスラエルと南ユダのこと。
 エドムの罪を裁くのは、神の主権を示すことである(4、6、9、11、15節)。

一人の牧者を起こす

2007-03-20 | Weblog
 34章は真の牧者が示される。
 2-8節は無責任な偽りの牧者。羊を養わず食い物にし(3節)、迷わせ、獣の餌食になろうとしているのに探さない(6-8節)。
 そこで主なる神が11節「わたし自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と告げる。12-16節に麗しい牧者と羊の群れが描かれている。詩23編を思わせる。
 「群れを養う」とは、羊と羊、雄羊と雄山羊の争いを治めること(17-22節)。

 神は「僕ダビデ」を一人の牧者として立てると預言している(23-24節)。これは神が結んでくださる平和の契約であり(25節)、真の牧者イエスによって現実のものとなった。イエスが「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ10章11-16節)と言われたのはこのことである。

 イエスは31節「お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れ」と告げておられる。
 

罪の責任を問う

2007-03-19 | Weblog
 33章から回復の預言である。見張りの務めは、3章17-21節と同じであるが、ここでは角笛で警告するというもの。生死にかかわることで、角笛の宣告を聞かないならその責任を個々に厳しく求める(4-5、9節)。当然見張りが務めを怠るなら、神がその責任を見張りに求める(6節)。
 更に8節『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。」
 見張りとは預言者のことだが、ここには曖昧さを許さない言葉の厳しさが感じられる。18章20節以下の罪の個別性原理がここにある。
 しかし神の本音は民の滅びではない。
 11節「 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。
  わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。
  むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。
  立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。
  イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」 
 立ち帰った者に対しては
 16節「彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は  必ず生きる。」

 21節にエルサレム陥落の知らせが届いた後、彼は捕囚をまぬがれたエルサレムの民に向かって語った(23-29節)。しかしその知らせを聞いた捕囚の民は彼の言葉を無責任な態度で聞いている(30-31節)。「口では好意を示すが、心は利益に向かう」 TEVはLoving words are on their lips, but they continue their greedy ways.
 口先では良いことを言うが、本心は貪欲だ
彼を32節「楽器にあわせて美しい声でうたうみだらな歌の歌い手のようだ。」という。
 自らの罪の責任を問うことをしない、捕囚の民の高慢と頑硬、背反と自我が示される。

その時、水を澄ませ

2007-03-18 | Weblog
    32章は29章から続いたエジプトに対する預言の最後で、1節と17節の日付から15日間を置いている。BC586年頃とすればエルサレムは崩壊している。
 エジプトの終焉を語るが、前半は「嘆きの歌」。鰐が川から引き上げられ荒れ野に捨てられる有様は29章にもあった。バビロンに滅ぼされるニュースに諸国の民は呆然とし、命の不安に震えが止まらない(10節)。
 後半は、エジプトをはじめ、「剣で殺され倒れ、汚れた(割礼のない)者たち」が墓の穴に下っていく有様である。そこは陰府であり、死者の世界。
 アシュル、アッシリア、エラム、メシェクとトバル、エドム、シドンの剣で殺された者たち、そして最後にファラオと殺された者たちが「横たわる」(21、25、28、30、32節)。
 そこは何一つ希望のない死の闇である。

 不思議な光景が描かれているのに気付く。
 14節「そのとき、わたしはその水を澄ませ/流れを油のように静かに流れさせると/主なる神は言われる。」対照は2節。
 国敗れて山河あり。
 今地球に求められているのはこれである。自然破壊の元凶は人なのだ。
 エゼキエルは、このことを突きつけている。
 被造物の呻きが聞こえてくる(ローマ8章20-22節)

切倒される大木

2007-03-17 | Weblog
 31章も1節、エルサレム陥落直前でエジプトの預言が続く。2-3節にファラオとレバノンの糸杉に比べるとあるが、新改訳は「糸杉」をアッリシアと訳し、その滅亡の有様をファラオの上に描いているようだ。
 梢が雲間に届く大木で、枝は茂りすべての鳥が巣を作る。獣も民も木陰に住む(4-6節)。エデンの園のすべての木も美しさをうらやむ程(8-9節)。
 この大木は12節「諸国で最も凶暴な民である異邦人」ネブカドレツァルによって切倒され、枝は谷に埋められ、民は逃げさる。
 15-18節では、淵から流れる川の水が枯れて、大木と共にエデンのすべての木もそれに頼っていた総ての民も「穴」「地の深き所」「陰府」(死者の世界=シェオール)に下る。
 これは「宇宙の命を宿す世界樹」という神話を借用した預言か。

 「寄らば大樹の陰」という思想が今もある。事無かれ主義。忘我の罠。
 これを榎本保郎牧師は「みんな病」と言った。
 誤った信頼を生じさせる大木は切倒される必要がある。